私のコンピュータ人生のスタートは、3000人の会社の給与計算だった。
新卒で電子計算機導入準備室というところの配属された。
新入社員研修の最後で、希望職場のアンケートがあった。
工業高校電気科卒としては、電機設計の部門が花形職場だと思うのだが、そのときなぜか「電子計算機導入準備室」というのが目に留まって思わずそこに丸印をつけた。
昭和40年(1965年)のことだ。
電子計算機とはどんなものか皆目見当がつかなかった。
知っていたのは、掛け算割り算ができる手回しのタイガー計算機と高校で習ったスイッチング回路程度の知識。
とにかく驚いたのは、自分で書いたプログラムのとおりにコンピュータが動くことだ。
間違えたらプログラムを直すだけで次にはちゃんと動いてくれる。
正太郎君が鉄人28号を手に入れたようなものだ。
プログラムなるものをなんとか習得して、最初に私に与えられたミッションが、従業員の給与計算システムの開発。
社員は私一人、先輩たちは販売管理や生産管理など基幹業務の設計に取り掛かっている。
四月に入社して、25日に手書きの給与明細と現金の入った袋をもらった。
これをコンピュータでやるのだ。
といっても何も知らない。
まずは人事部へ行って、給与課の、そうそう、小川課長や部下の優秀な女性社員の方から、そもそも給与計算とはというレクチャーを受けた。
とにかくこちらは工業高校を出てきたばかりの18歳だから怖いもの知らず。
一生懸命学んだ。
月次の給与計算から、社会保険の算定、賞与、年末調整まで。
そして社長から臨時工まで賃金体系の違う人たちがいるということも。
給与計算をするにはマスターと毎月発生する残業や欠勤などの情報の入ったトランザクションという2種類のファイルが必要だということも自分で発見してゆく。
そしてなんとかシステムが完成し運用が始まった。
私は給与課の人間なのか電算室の人間なのかわからないくらいの日々だった。
毎月の残業代などが記された伝票を現場から給与課に集めてキーパンチャーに回し、それを受け取ってコンピュータに掛け、計算させてエラーリストを持って給与課に相談に行く。
原因を調べて直し、もう一度コンピュータに掛ける。それでもエラーが出る。
だいたい3回そんなことを繰り返して、ようやくエラーなしで最後まで行く。
3000人の給与明細書を打ち出すのは夜中になることが多かった。
活字で打つラインプリンターという印刷機だったから3000人分打ち終わるのに何時間かかかった。
それでも給与課はとんでもなく省力化になった。
人事部給与課で働く人たちと、SE兼プログラマー兼オペレータ兼配送係の私の二人三脚で、見事に3000人の電機メーカーの給与計算システムは稼動した。
ユーザとプログラマーは寝食をともにして働いたのだ。
このあたりまえのことが今の日本では失われている。
当時の言語はassembler言語だった。
言語としては業務からは程遠い言語で、もちろんデータベースなどない。
それに比べれば、今は言語など知らなくてもシステムは作れる時代になった。
私が二十歳前にできたことが今の人にできないはずがない。
システムは内製化できます。
今ではとても簡単です。
システムイニシアティブ研究会は、システムの開発はユーザ主導でやるべきだという人たちの集まりです。
志のあるかたがたの参加をお待ちしています。
新卒で電子計算機導入準備室というところの配属された。
新入社員研修の最後で、希望職場のアンケートがあった。
工業高校電気科卒としては、電機設計の部門が花形職場だと思うのだが、そのときなぜか「電子計算機導入準備室」というのが目に留まって思わずそこに丸印をつけた。
昭和40年(1965年)のことだ。
電子計算機とはどんなものか皆目見当がつかなかった。
知っていたのは、掛け算割り算ができる手回しのタイガー計算機と高校で習ったスイッチング回路程度の知識。
とにかく驚いたのは、自分で書いたプログラムのとおりにコンピュータが動くことだ。
間違えたらプログラムを直すだけで次にはちゃんと動いてくれる。
正太郎君が鉄人28号を手に入れたようなものだ。
プログラムなるものをなんとか習得して、最初に私に与えられたミッションが、従業員の給与計算システムの開発。
社員は私一人、先輩たちは販売管理や生産管理など基幹業務の設計に取り掛かっている。
四月に入社して、25日に手書きの給与明細と現金の入った袋をもらった。
これをコンピュータでやるのだ。
といっても何も知らない。
まずは人事部へ行って、給与課の、そうそう、小川課長や部下の優秀な女性社員の方から、そもそも給与計算とはというレクチャーを受けた。
とにかくこちらは工業高校を出てきたばかりの18歳だから怖いもの知らず。
一生懸命学んだ。
月次の給与計算から、社会保険の算定、賞与、年末調整まで。
そして社長から臨時工まで賃金体系の違う人たちがいるということも。
給与計算をするにはマスターと毎月発生する残業や欠勤などの情報の入ったトランザクションという2種類のファイルが必要だということも自分で発見してゆく。
そしてなんとかシステムが完成し運用が始まった。
私は給与課の人間なのか電算室の人間なのかわからないくらいの日々だった。
毎月の残業代などが記された伝票を現場から給与課に集めてキーパンチャーに回し、それを受け取ってコンピュータに掛け、計算させてエラーリストを持って給与課に相談に行く。
原因を調べて直し、もう一度コンピュータに掛ける。それでもエラーが出る。
だいたい3回そんなことを繰り返して、ようやくエラーなしで最後まで行く。
3000人の給与明細書を打ち出すのは夜中になることが多かった。
活字で打つラインプリンターという印刷機だったから3000人分打ち終わるのに何時間かかかった。
それでも給与課はとんでもなく省力化になった。
人事部給与課で働く人たちと、SE兼プログラマー兼オペレータ兼配送係の私の二人三脚で、見事に3000人の電機メーカーの給与計算システムは稼動した。
ユーザとプログラマーは寝食をともにして働いたのだ。
このあたりまえのことが今の日本では失われている。
当時の言語はassembler言語だった。
言語としては業務からは程遠い言語で、もちろんデータベースなどない。
それに比べれば、今は言語など知らなくてもシステムは作れる時代になった。
私が二十歳前にできたことが今の人にできないはずがない。
システムは内製化できます。
今ではとても簡単です。
システムイニシアティブ研究会は、システムの開発はユーザ主導でやるべきだという人たちの集まりです。
志のあるかたがたの参加をお待ちしています。
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