世の中がCDプレーヤーに移行しようとしているとき、寺垣さんはレコードプレーヤーの制作にとりかかった。そのときの大義名分。これは真理だから、いくら大声で叫んでもだれも反対はできなかった。真理の前には人は沈黙するという。
いろんなメーカから、いろんなスピーカが出ている。ジャズを聴くならどこ、クラシックならここと、オーディオ評論家もいろんな表現でオーディオ機器を評価する。でも、オーディオ機器は単なる変換器。原音は一つだから、忠実に変換できたかどうかだけが評価対象のはずだが、本質がわかっていないと、権威などが入り込んで訳の分からないことになる。と寺垣武は言う。
悪声でもマイクとアンプとスピーカーを通すと豊かな声に聴こえる。ほんとうは入力を忠実に再生するのが音響技術だが、ここは商売。悪性を美声に聴こえるようにすれば商売になる。大事なことは、ほんとうはそうではないのだが商売でやっているということを自覚してやることだと、寺垣武はいう。
レコードに刻まれた芸術を再生しようとしているのに、音響技術者は音を作ろうとする。低音にふくらみがないとか、高音が伸びないとか。生演奏のとき、そんなことを言うだろうか。音響技術者は原音を忠実に再生すればいいのだ。それができれば芸術が浮かび上がる。但し良い演奏であることが前提だが。と寺垣さんは言う。
寺垣さんは、レコードプレーヤーを作ったとき、レコードの溝に刻んである情報を正確に抽出しようとした。それだけを考えた。それは結局、表面粗さ計を作ったことになる。凹凸を計測する装置だ。もしレコードプレーヤーの構造を先に調べてからやったら、いろんな情報に惑わされたに違いない。門外漢だからできた。むしろ情報を遮断して一から考えることによって寺垣プレーヤーはできたのだ。