宍戸さんと最後に会ったのは、私の会社を畳んで合併する記者会見の場だった。彼は遅れて来た。気になる記者だったから覚えている。記者会見後のパーティーで少し話した。翌日の日刊工業新聞の情報欄には、一つの時代が終わった、という文字が躍っていた。私の期待記事ではなかったが、確かに、自分に引導を渡させる記事だった。
池袋の蕎麦屋で飲んで食べて。なじみのバーイレブンでゆったり。
宍戸さんは、日刊工業新聞に入社して、当時の花形雑誌「事務管理」の記者としてスタートした。当時はソフト会社もなく、メーカもハードを売るのが仕事だったから、コンピュータをどう使うかはユーザ自身が考えることだった。彼は走り回って取材していた。そのうち日経BPから日経コンピュータが創刊され、宍戸さんは日刊工業新聞で「プロンプト」という雑誌を立ち上げる。その後新聞の編集に移った。私は宍戸さんのすべての局面でお付き合いさせていただいてきた。そして最後が会社を畳む記者会見だった。そして今日の再会。宍戸さんは、私のことを、ちっとも変わらないと言うが、宍戸さんもちっとも変わらない。現在フリーのジャーナリストとして活躍している。
池袋の蕎麦屋で飲んで食べて。なじみのバーイレブンでゆったり。
宍戸さんは、日刊工業新聞に入社して、当時の花形雑誌「事務管理」の記者としてスタートした。当時はソフト会社もなく、メーカもハードを売るのが仕事だったから、コンピュータをどう使うかはユーザ自身が考えることだった。彼は走り回って取材していた。そのうち日経BPから日経コンピュータが創刊され、宍戸さんは日刊工業新聞で「プロンプト」という雑誌を立ち上げる。その後新聞の編集に移った。私は宍戸さんのすべての局面でお付き合いさせていただいてきた。そして最後が会社を畳む記者会見だった。そして今日の再会。宍戸さんは、私のことを、ちっとも変わらないと言うが、宍戸さんもちっとも変わらない。現在フリーのジャーナリストとして活躍している。