京都市内中心部から、車で約30分の距離にある勧修寺は、山号を亀甲山(きっこうざん)と称し真言宗山階派の大本山です。平安中期の昌泰3年(900)
醍醐天皇が母(宇多天皇の妃)の菩提を弔うために、母の生家・宇治郡の大領(統治者)宮道弥益(みやじのいやます)の邸宅を寺に改めたと伝えられて
おります。 お寺の名前は、勧修寺(かじゅうじ)と読みますが、町名は(かんしゅうじ)と読むそうです。
寺号は天皇の祖父にあたる藤原高藤(たかふじ)の謚号をとって勧修寺と名付けられました。こうした関係から勧修寺は皇室との関係が深く宮門跡とし
て品格も維持し、鎌倉時代には後伏見天皇の皇子寛胤法親皇が十六世として入寺されてからは門跡寺院となりました。尚、江戸時代には、徳川家綱・
綱吉の帰依を受け、伽藍の整備が進められたと伝わっております。
山門を入りますと、左手に拝観受付の入口の中門があります。
中門を入ったところの右側に宸殿があり、この宸殿は延宝4年(1676)造営の明正院御所対面所を元禄10年(1697)に明正天皇から下賜されたものです。
宸殿前の参道の左手にある「さざれ石」とは、「君が代」に「さざれ石の巌となりて」と詠まれた岐阜県春日村産の「さざれ石」は岐阜県の天然記念物に
指定されており、「さざれ石」の名称は、平安朝の姫君の名前で「さざれのきみ」というお伽草子の中の話がもとになっているという説があります。しかし、
「さざれ石」というのは元来「細石」と書き、小さな石のことであり、石質は各地様々で外観上小さな石の隙間が炭酸カルシュウムや水酸化鉄等で埋め
られ固化した石を一般に「さざれ石」と呼んでいるそうです。
参道を直進いたしますと、芝生の広がる池に面した庭園に出ますが、拝観順路に従い宸殿の南側を通り書院に進みます。
宸殿の裏手(西側)に書院が建ちます。
宸殿南側のモミジの新芽
書院と左下の「偃柏槇(はいびゃくしん)」の古木 偃柏槇は、ひのき科の植物で書院前の一面が一本の木の枝が地を這うように四方に広がっており、
樹齢は750年と云われ京都市の巨樹名木の一つに数えられている古木です。
梅の花がまだ残っておりました。
この枝もすべて、先ほどの偃柏槇のものです。
「臥竜(がりゅう)の老梅」 江戸時代に御所から移植した梅で、親子孫と三代が連なっています。
書院前の偃柏槇の中に佇む灯篭は、黄門さんの名で親しまれている水戸光圀公が考案され寄進されたものといわれており勧修寺型燈籠といいます。
書院前庭園のさらに南側に広がる庭園は、氷室池を中心に池泉回遊式庭園になり、氷室池の左手に突き出た樹は、千年杉と呼ばれ約100㍍の高さが
あり京都の庭園の中にある樹木の中で最高の高さを誇ります。
正面、桜に隠れておりますが、池のほとりに観音堂が建ちます。
書院のさらに西側に本堂が建ちます。 本堂前は苔に覆われた空間に桜やモミジの木が配置されております。
本堂は、寛文12年(1672年)に霊元天皇の仮内侍所を下賜されたもので、元は近衛家の建物であったと云われているたてものです。本尊の千手観音
立像は醍醐天皇の等身像と伝えられておりますが、現存の像は室町時代頃の作だそうです。
桜の蜜を求めミツバチが飛び回っております。
本堂前の石仏、5月になりますと手前の紫陽花が咲き新緑に染まります。
左手、本堂と右手、五大堂。
五大堂の正面にには、真言宗の開祖、弘法大師像が建ち、石像の周りには、四国八十八箇寺の石が並べられ2分で霊場周りが出来るようになってお
ります。
弘法大師像の前の観音堂とその先には、氷室池が広がります。
八幡宮之道 観音堂の裏を通り池を周遊することが出来ます。
自己責任でお進みください。
風も無く鏡のような水面でした。
周遊路の途中にある弁天堂です。
五月に入りますと睡蓮の葉で埋め尽くされます。
池の淵には杜若の鉢が配置され、五月上旬から見頃を迎えます。
昭和6年建造の観音堂は、「大斐閣」とも呼ばれております。 白い観音像が印象的です。
芝生ももう少しすれば、青々となってくると思います。
ツツジも数日で咲き出しそうです。
馬酔木の新芽です。
2010年5月の勧修寺の花菖蒲
http://blog.goo.ne.jp/kappou-fujiwara/e/87ae20ca428e5f72f3413cd6b10fbe03
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