Kおばちゃんのつぶやき

日々徒然に思うことの備忘録

リスト少年(ライディング)

2011-10-10 23:59:36 | オーストリア
今日もお休み・・だけれどもすっきりとした青空ジャなのよね。
遅く起きてお布団干したら・・・直ぐ日が陰ってしまって残念!せっかく近所猫を追い払ったのに。
野良ちゃんは追い払いませんよ。でも飼い猫じゃ『お家で日向ぼっこしなさいね』といってしまいます。

連休中のお楽しみは近所の百円ショップのお買い物。思いっきりお買い物してしまった。それと久々の髪の毛のカット!ああ気持ちが良い!

小さな幸せ!

それにしても・・最近朝起きて何が食べたいか思い浮かばないのがさびしい限り・・

○5月2日(月)

ライディングのリストの生家の展示を見物するkおばちゃんです。
家に入ると最初に目に入ったのはこのようなピアノでした。


大きなお部屋は3つだったかな?もう忘れてます。
右側のお部屋にはいると・・たしかリスト少年の誕生まで・・ではありませんがそんな感じの展示でした。

これはリストのお父さんアダム・リストLiszt Ádám氏だそうです。


音楽をたしなむ彼は、1809年、エステルハージ公の約5万頭に及ぶヒツジの群れの監督官としてライディングの荘園に赴任してここで1810年の夏知り合ったアンナ・ラーガーMarie Anna Lager女史と結婚。でフランツ・リストが生まれる・・ということにあいなったようです。

これは父アダムが領主のニコラス・エステルハージに贈ったテ・デウムなんかのカタログだったような・・


これが母アンナの肖像でしょうか。たしかパリからの手紙だと思いました。


これがご領主さまのニコラスⅡ・エステルハージNikolaus Fürst von Esterházy(エステルハージ・ミクローシュ)


これは、たしか父アダムも弾いたチェロだったと思います。彼は一時エステルハージ公の楽団でチェロを弾いていたんですって。


当時のこの家・・の風景だとおもいました。今とそんなに変わりませんね。


音楽好きで自らも演奏したり作曲したりするような父のもとに生まれたリスト少年。


そんな環境のなか、幼いうちから才能を発揮していたようです。
当時ウイーンの音楽界の最高峰にいたヨハン・ネポムク・フンメルJohan Nepomuk Hummelの教育を受けようと奮闘しますが、それはかなわなかったようです。


こんな机が展示されていました。この当時のものなんでしょうね。


父アダムは息子の才能を伸ばそうと奔走したようです。領主宛の手紙が何通か展示されていました。


1822年にはウィーンに移住し、ウィーン音楽院でカール・ツェルニーおよびアントニオ・サリエリに師事するようになったようです。
そのころの絵でしょうか?ベートーヴェン氏に抱擁される小さなピアニスト、リスト君といったところのようです。


冒頭の画像もそうですがその一年後1823年ころのリスト君です。12才ころですね。


両親の愛情を一身にうけて・・前途洋洋といったところでしょうね。かわいい!

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