13日の金曜日・・・この日を狙ったのか、パリで痛ましい殺戮がありました。
つい1ヶ月前、パリにいたkおばちゃん。
今年の一月にも痛ましい殺戮はあったけれども、それは思想的に狙われた感があったような気がします。
でも、今回のは完全なる無作為。人の集まるところ、そして入り易いところを選んだのでしょう。
行動をおこす輩は『退路』を考えていない、所謂体当たり作戦。
その昔の我が国の特攻隊と同じ。一緒にするな・・と言われればそうなのですが、思考は同じだと思っている。
自爆犯は私利私欲のために行動しているとは思っていない。自分達の信条がひたすら正しいのだと信じ込んでいるのです。
だから怖いのです。行動は読めません。
世界中で悲しみにくれている時に、『なんでパリの事件だけ悲しむんだ!』なんて声を上げる輩もいます。
もちろん殺戮はどこででも、起こっています。
でも、身近に感じる場所で起こった悲惨な出来事に哀悼の意を表現する事を批判する神経がkおばちゃんには判りません。
悲しい時は悲しいのです。
その悲しみを忘れず、解決への路を考える事こそが大事なんじゃないでしょうか。
自爆犯だってある意味では無駄に命をつかっているんです。
こんなバカなことをするのは人間だけでしょうね。
動物は、他人を支配しようとか考えを変えさせようとかは思わない。
生きるか死ぬか・・この選択肢しかないのでしょうから。
文明が文化がどんなに発達したと言われても、こんなおろかなことを繰り返す人間の根性をかえることはできないんでしょうね。
○2014年10月5日(日)
kおばちゃんがやってきたやってきたのはAllied Museum連合軍博物館は、それこそ第二次世界大戦敗戦後にこの地を統治した連合国にかんする博物館です。
現在はどこが運営しているんでしょうね?入場無料ですから。
中に入ってまず目に付いたのはこの手作り感あふれる国旗です。
1945年5月8日ドイツは連合国に敗戦します。
1945年6月5日にはベルリン宣言Berlin Declarationにより、ドイツは連合国の支配下にはいるわけです。
が・・当初連合国としてひとくくりされていたのははアメリカ合衆国・イギリス・フランスそしててソ連のことを指していたそうです。
ドイツ、及びオーストリアはこの地図のように分割統治されていたんですね。
右上のピンクの部分を統治していたのが・・・ソ連。
当時ベルリンと言う町は、ソ連の統治領にありながらも連合国全体で統治していたようです。
政治的思想の違うソ連が、ポツダム宣言の「ドイツを経済的に一体とみなす」と言う言葉を無視して統括地で土地改革などをおこなっていたこと、そのことに不信感をもった西側諸国アメリカが新通貨ドイツ・マルクを準備し発酵させたことから決定的に分裂。
ソ連のベルリン封鎖へと繋がって言ったと言われているそうです。
その新通貨だったと思います。
悲しい分断の歴史の始まりです。
周りをソ連の支配地に囲まれているベルリン。6月24日の早朝からは物資の搬入の路(鉄道、道路)を封鎖されてしまい陸の孤島になってしまったようです。
そんな陸の孤島と化した西ベルリンに物資を供給するのには航空機を使用することしかできませんでした。
6月26日には早くも空輸作戦が始まったようです。
こんな感じでしょう。
運ぶ先はベルリンにあるテンペルホーフ空港Flughafen Berlin-Tempelhofが主だったようです。ここがベルリン空輸Berliner Luftbrückeの舞台になりました。
但し、ソ連領の(東ドイツ)の上空を飛行しなければなりません。
許可されていたのは3方向のみ。
細かくルートが決められ、また空輸する連合国側も効率よく大量に物資を運ぶ為に、真中の空路はベルリンからの帰りの便専用としていたようです。
この三方向を示すのでしょうか。空輸の舞台となった各地にこの壁のような記念碑があるようです。
そしてその後、東西の分裂は決定的となり1961年8月13日からはにはあの壁が建設されて行ったようです。
ベルリンの壁って『崩壊』のことは記憶に新しいこともあり、よく報道される気がしますが、『出来た経緯』って詳しく知らなかったな・・と思ったkおばちゃんです。
つい1ヶ月前、パリにいたkおばちゃん。
今年の一月にも痛ましい殺戮はあったけれども、それは思想的に狙われた感があったような気がします。
でも、今回のは完全なる無作為。人の集まるところ、そして入り易いところを選んだのでしょう。
行動をおこす輩は『退路』を考えていない、所謂体当たり作戦。
その昔の我が国の特攻隊と同じ。一緒にするな・・と言われればそうなのですが、思考は同じだと思っている。
自爆犯は私利私欲のために行動しているとは思っていない。自分達の信条がひたすら正しいのだと信じ込んでいるのです。
だから怖いのです。行動は読めません。
世界中で悲しみにくれている時に、『なんでパリの事件だけ悲しむんだ!』なんて声を上げる輩もいます。
もちろん殺戮はどこででも、起こっています。
でも、身近に感じる場所で起こった悲惨な出来事に哀悼の意を表現する事を批判する神経がkおばちゃんには判りません。
悲しい時は悲しいのです。
その悲しみを忘れず、解決への路を考える事こそが大事なんじゃないでしょうか。
自爆犯だってある意味では無駄に命をつかっているんです。
こんなバカなことをするのは人間だけでしょうね。
動物は、他人を支配しようとか考えを変えさせようとかは思わない。
生きるか死ぬか・・この選択肢しかないのでしょうから。
文明が文化がどんなに発達したと言われても、こんなおろかなことを繰り返す人間の根性をかえることはできないんでしょうね。
○2014年10月5日(日)
kおばちゃんがやってきたやってきたのはAllied Museum連合軍博物館は、それこそ第二次世界大戦敗戦後にこの地を統治した連合国にかんする博物館です。
現在はどこが運営しているんでしょうね?入場無料ですから。
中に入ってまず目に付いたのはこの手作り感あふれる国旗です。
1945年5月8日ドイツは連合国に敗戦します。
1945年6月5日にはベルリン宣言Berlin Declarationにより、ドイツは連合国の支配下にはいるわけです。
が・・当初連合国としてひとくくりされていたのははアメリカ合衆国・イギリス・フランスそしててソ連のことを指していたそうです。
ドイツ、及びオーストリアはこの地図のように分割統治されていたんですね。
右上のピンクの部分を統治していたのが・・・ソ連。
当時ベルリンと言う町は、ソ連の統治領にありながらも連合国全体で統治していたようです。
政治的思想の違うソ連が、ポツダム宣言の「ドイツを経済的に一体とみなす」と言う言葉を無視して統括地で土地改革などをおこなっていたこと、そのことに不信感をもった西側諸国アメリカが新通貨ドイツ・マルクを準備し発酵させたことから決定的に分裂。
ソ連のベルリン封鎖へと繋がって言ったと言われているそうです。
その新通貨だったと思います。
悲しい分断の歴史の始まりです。
周りをソ連の支配地に囲まれているベルリン。6月24日の早朝からは物資の搬入の路(鉄道、道路)を封鎖されてしまい陸の孤島になってしまったようです。
そんな陸の孤島と化した西ベルリンに物資を供給するのには航空機を使用することしかできませんでした。
6月26日には早くも空輸作戦が始まったようです。
こんな感じでしょう。
運ぶ先はベルリンにあるテンペルホーフ空港Flughafen Berlin-Tempelhofが主だったようです。ここがベルリン空輸Berliner Luftbrückeの舞台になりました。
但し、ソ連領の(東ドイツ)の上空を飛行しなければなりません。
許可されていたのは3方向のみ。
細かくルートが決められ、また空輸する連合国側も効率よく大量に物資を運ぶ為に、真中の空路はベルリンからの帰りの便専用としていたようです。
この三方向を示すのでしょうか。空輸の舞台となった各地にこの壁のような記念碑があるようです。
そしてその後、東西の分裂は決定的となり1961年8月13日からはにはあの壁が建設されて行ったようです。
ベルリンの壁って『崩壊』のことは記憶に新しいこともあり、よく報道される気がしますが、『出来た経緯』って詳しく知らなかったな・・と思ったkおばちゃんです。
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