今日は寝坊をしてあわててお仕事へ・・まあ、間に合ったから良いけどね。
どうも眠りの周期が3時間という節は正しいようで、確かに夜中に目が覚めて・・あらまだ4時だと思って再び眠りのそこへ・・気がついたら7時過ぎです。
いつもよりは1時間も寝坊です。まあ、余裕がある起床時間なのですが、この時間になると余裕がなくなりタダバタバタと。で、なんとか間に合いました。
でも、お布団の中って気持ち良いのよね・・あとお風呂の中。
最近はお風呂で居眠りがでてきて怖いkおばちゃんです。
○5月29日(水)
ビドゴシュチのオペラでのバレエ鑑賞を終えたkおばちゃんです。
お子ちゃまいっぱいの公演でした。親につれられて来ていた子どももいましたが、このように団体さんで来ていた子供達も。
まあ、先生も大変ですね。
そうそう、劇場自体はそれほど大きな器でもないかも。
全体でこんな感じです。
終演後表にでましたが、当然ながらまだ明るいです。だって多聞午後7時くらいかしら?
で、キア君も返してしまったのでぶらぶらとお散歩しながら戻ることにしました。
さっき見かけた歩道を渡って見ます。
歩道の欄干にはご覧の通りびっしりと・・
鍵・・かぎ・・カギ・・
世界中はやりのようですね。このカギ・・一体最後はどうなるのでしょうね。
橋の途中からオペラ劇場を振り返って見ました。あら。素敵ですね。
橋を渡りきったところにもまた、流れがあり、広場になっています。
こちらは博物館の島とでもいうところのようです。
穀物倉庫を改造した建物などが
てんざいしてそれぞれ違う分野の展示をおこなっているみたいですが・・
緩やかな流れは、散歩コースにもってこいです。
博物館を見学しなくてもここで過ごすだけでも気持ちのよい場所です。
ここからすこ町の中心と思われる方向に歩いて行きました。
なんだか広場がまたありそうです。
辿り着いたのは・・こんな空間でした。
よく見られる市場広場といった感じですね。
広場をぐるり取り囲む古い家・・
でもね、なんだか違和感がありました。
これは、広場の端にあった建物。市庁舎でしょうか?
その違和感がなんだかわからないけど・・とにかくしっくりこなかったんです。
しっくりこない原因は、このとき感じたのは『広すぎる』という感覚でした。
この規模の町の旧市街の広場にしては・・なんか広すぎる・・
そしてこの広場の片隅にあったこの像もとても気になりました。
どう見ても、楽しい像ではありません。何かメッセージを持っているのは確かです。
何かに対して・・無抵抗であることを示しています。なんだろう・・
気にはなったけど・・ガイドブックもなにも持ち合わせていません。
だってね、それこそこの町に立ち寄ったのは『オペラ劇場がある』という理由だけでしたから。
気になっていたので、お得意の・・帰国してから調べて見ました。
すると、この町の歴史もわかってきました。
ここビドゴシュチも、この地勢からドイツとポーランドの挟間で歴史に翻弄され続けている場所だということです。
そして近年ではあの第2次世界大戦の時にとても悲しい事実があったということです。
事のはじまり・・それこそ卵が先か鶏がさきか・・のような話ではあると思います。
『ビドゴシチ住民殺害事件・Krwawa niedziela血の日曜日』と呼ばれる1939年9月に起こった悲劇です。
発端はドイツ系の住民に対するポーランド人の憎悪から来ているとされています。
ポーランドへのドイツ軍の侵攻への抵抗に呼応するかたちで、ビドゴシュチに在住していたドイツ人の迫害、リンチ、さらに殺害が行われたとされています。それが9月3日。
そして、次に起こったのはビドゴシュチの町に侵攻してきたドイツ軍によりひきおこされた、報復ともいえる悲劇です。
それが9月9日から9月10日(日曜日)にかけて起こりました。だから『血の日曜日』なのでしょう。
先の事件で犠牲になったドイツ人は100~300人といわれています。
そして報復と言われる事件で犠牲になったポーランド人はこの2日間だけでも、200〜400人問割れれているそうです。そしてそれは始まりにしか過ぎなかったということです。
この第2の事件には犠牲になったポーランド人に最後の聖餐の儀を行おうとした聖職者にまで及んだと言うことです。
この事件で犠牲になったという人々の数に関しては諸説あって、真実はまだわかっていないということですが、kおばちゃんは『数』の問題も大切ですが、そこにあった犠牲になった人達の人生は数では物語れないものだと思っています。
突然に人生を終わりにされてしまった人達の思い・・それは数では表せない無いと思うからです。
そして、この事実を知った時に、あの時kおばちゃんが感じた『違和感』の正体がわかりました。
それは・・やはりあの広場は広すぎたのです。なぜならば元々は別の建物もあったからなのです。
その別の建物というのは『教会』です。
Kościół pojezuicki pw. św. Ignacego Loyoli w Bydgoszczyイグナチオ教会がそこにはあったのです。
しかしあの血の日曜日事件をきっかけに、翌年1940年には解体されてしまったということです。
そう、旧市街のシンボルでもあったのでしょう。教会がこの空間に丸まる一つあったのです。
それがなくなってしまったから・・なんだかkおばちゃんが『違和感』を感じるような空間になってしまっていたのですよね。
解体された教会の跡には、あの『血の日曜日』の丁度30年後の19699月5日年に、この『ビドゴシチの闘争と殉教記念碑Pomnik Walki i Męczeństwa Ziemi Bydgoskiej』の除幕式が行われたということです。
調べて、違和感の謎が解けて良かったのですが・・・とんでもない悲劇まで知る事になりました。
あの空間は『悲しみの空間』だったのだと、改めて思うとともに人間がひきおこす悲劇にはどうしようもない思いになったkおばちゃんです。
どうも眠りの周期が3時間という節は正しいようで、確かに夜中に目が覚めて・・あらまだ4時だと思って再び眠りのそこへ・・気がついたら7時過ぎです。
いつもよりは1時間も寝坊です。まあ、余裕がある起床時間なのですが、この時間になると余裕がなくなりタダバタバタと。で、なんとか間に合いました。
でも、お布団の中って気持ち良いのよね・・あとお風呂の中。
最近はお風呂で居眠りがでてきて怖いkおばちゃんです。
○5月29日(水)
ビドゴシュチのオペラでのバレエ鑑賞を終えたkおばちゃんです。
お子ちゃまいっぱいの公演でした。親につれられて来ていた子どももいましたが、このように団体さんで来ていた子供達も。
まあ、先生も大変ですね。
そうそう、劇場自体はそれほど大きな器でもないかも。
全体でこんな感じです。
終演後表にでましたが、当然ながらまだ明るいです。だって多聞午後7時くらいかしら?
で、キア君も返してしまったのでぶらぶらとお散歩しながら戻ることにしました。
さっき見かけた歩道を渡って見ます。
歩道の欄干にはご覧の通りびっしりと・・
鍵・・かぎ・・カギ・・
世界中はやりのようですね。このカギ・・一体最後はどうなるのでしょうね。
橋の途中からオペラ劇場を振り返って見ました。あら。素敵ですね。
橋を渡りきったところにもまた、流れがあり、広場になっています。
こちらは博物館の島とでもいうところのようです。
穀物倉庫を改造した建物などが
てんざいしてそれぞれ違う分野の展示をおこなっているみたいですが・・
緩やかな流れは、散歩コースにもってこいです。
博物館を見学しなくてもここで過ごすだけでも気持ちのよい場所です。
ここからすこ町の中心と思われる方向に歩いて行きました。
なんだか広場がまたありそうです。
辿り着いたのは・・こんな空間でした。
よく見られる市場広場といった感じですね。
広場をぐるり取り囲む古い家・・
でもね、なんだか違和感がありました。
これは、広場の端にあった建物。市庁舎でしょうか?
その違和感がなんだかわからないけど・・とにかくしっくりこなかったんです。
しっくりこない原因は、このとき感じたのは『広すぎる』という感覚でした。
この規模の町の旧市街の広場にしては・・なんか広すぎる・・
そしてこの広場の片隅にあったこの像もとても気になりました。
どう見ても、楽しい像ではありません。何かメッセージを持っているのは確かです。
何かに対して・・無抵抗であることを示しています。なんだろう・・
気にはなったけど・・ガイドブックもなにも持ち合わせていません。
だってね、それこそこの町に立ち寄ったのは『オペラ劇場がある』という理由だけでしたから。
気になっていたので、お得意の・・帰国してから調べて見ました。
すると、この町の歴史もわかってきました。
ここビドゴシュチも、この地勢からドイツとポーランドの挟間で歴史に翻弄され続けている場所だということです。
そして近年ではあの第2次世界大戦の時にとても悲しい事実があったということです。
事のはじまり・・それこそ卵が先か鶏がさきか・・のような話ではあると思います。
『ビドゴシチ住民殺害事件・Krwawa niedziela血の日曜日』と呼ばれる1939年9月に起こった悲劇です。
発端はドイツ系の住民に対するポーランド人の憎悪から来ているとされています。
ポーランドへのドイツ軍の侵攻への抵抗に呼応するかたちで、ビドゴシュチに在住していたドイツ人の迫害、リンチ、さらに殺害が行われたとされています。それが9月3日。
そして、次に起こったのはビドゴシュチの町に侵攻してきたドイツ軍によりひきおこされた、報復ともいえる悲劇です。
それが9月9日から9月10日(日曜日)にかけて起こりました。だから『血の日曜日』なのでしょう。
先の事件で犠牲になったドイツ人は100~300人といわれています。
そして報復と言われる事件で犠牲になったポーランド人はこの2日間だけでも、200〜400人問割れれているそうです。そしてそれは始まりにしか過ぎなかったということです。
この第2の事件には犠牲になったポーランド人に最後の聖餐の儀を行おうとした聖職者にまで及んだと言うことです。
この事件で犠牲になったという人々の数に関しては諸説あって、真実はまだわかっていないということですが、kおばちゃんは『数』の問題も大切ですが、そこにあった犠牲になった人達の人生は数では物語れないものだと思っています。
突然に人生を終わりにされてしまった人達の思い・・それは数では表せない無いと思うからです。
そして、この事実を知った時に、あの時kおばちゃんが感じた『違和感』の正体がわかりました。
それは・・やはりあの広場は広すぎたのです。なぜならば元々は別の建物もあったからなのです。
その別の建物というのは『教会』です。
Kościół pojezuicki pw. św. Ignacego Loyoli w Bydgoszczyイグナチオ教会がそこにはあったのです。
しかしあの血の日曜日事件をきっかけに、翌年1940年には解体されてしまったということです。
そう、旧市街のシンボルでもあったのでしょう。教会がこの空間に丸まる一つあったのです。
それがなくなってしまったから・・なんだかkおばちゃんが『違和感』を感じるような空間になってしまっていたのですよね。
解体された教会の跡には、あの『血の日曜日』の丁度30年後の19699月5日年に、この『ビドゴシチの闘争と殉教記念碑Pomnik Walki i Męczeństwa Ziemi Bydgoskiej』の除幕式が行われたということです。
調べて、違和感の謎が解けて良かったのですが・・・とんでもない悲劇まで知る事になりました。
あの空間は『悲しみの空間』だったのだと、改めて思うとともに人間がひきおこす悲劇にはどうしようもない思いになったkおばちゃんです。
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