今日は一日雨らしい。春だからしょうがないけど、明日から連休だとおもうと憂鬱。
連休中は・・ちょっと用事がたくさんありすぎて・・でもきっと何も出来ない気もするけどね。
なんとかしたいkおばちゃんです。
○8月7日(日)
アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウBrzezinkaの見学は続きます。
とにかく敷地は広大です。
第一収容所ではことたりなくなり、この広大な第2収容所をつくったけれども、ここも手狭になった・・というのだからどれだけの人がここに送り込まれてきたのでしょうね。
かろうじてブロック?煉瓦?で出来ていた収容施設を見た後、先になにかあるようですので進んで見る事にしました。
何か記念碑が建っています。
そしてその先の方に・・半ば崩れかけた建物の屋根がありました。
これはクレマトリウムと一般的に呼ばれているところのようです。
クレマトリウムとはKrematoriumsのことだと思いますので、火葬場と言う意味だと思いますが・・ここにあったものは火葬場だけではなかったそうです。
言い方が変かもしれませんが、火葬にする『材料』を作り出していたところでもあるのです。
つまり大規模な『ガス室』も併設されていたのだそうです。
何でも、毎日到着する4000人近くの収容者に対して番号が付けられる・・つまり生存者として受け入れられるのはその2割にも満たないほどだったと言う話もあります。
残りの8割は、収容施設に収監されることもなく、一直線にこの場所、つまりクレマトリウムに連れてこられたということらしいです。まさに『死の工場』がここにあったというとこです。
何と本当の意味で『非生産的な』工場だったのですよね。
こんな瓦礫になっているのは、ナチスが撤退するときに証拠隠滅を計るために破壊して行ったからだときいています。
それら全ての、卑劣な行為を忘れない為にもそのままの姿をとどめているのでしょう。
その概要は傍らにある説明碑でも判るようになっています。
このあたりは、あの引きこみ線からまっすぐに来たつきあたりにります。
まさにターミナル、終着駅です。現在は国際犠牲者記念碑の並ぶ所となっていました。
そしてそれぞれが、考える場所になっているようです。
ア、もちろんファインダーを覗いてらっしゃるかたもおりました。
ここから先に人生の繋がっていない人々がおりたっていったのですね。
この線路脇に続く収容地区行きに選択された人はまだ幸せだったのでしょう。真っ直ぐ進むよりは。
それでも、紙一重の生活が延々と続いてのでしょう。生きるも地獄でしょうから。
ここにある画像は到着したばかりの様子だそうです。そして、この場で選別が行われていったということです。まさか、それが生死の選別だとは思わないでしょうね。
現在の風景からは想像できません。
もう、5時を回ってしまっています。段々薄暗くなってきました。もうそろそろ切りあげました。
出入り口のゲートの脇に広がっているのは木造のバラックのある地区です。
先程の煉瓦ブロックに比べると、もっとひどい環境ですね。こんなところで冬は越せないのではないでしょうか。・
それにしても・・こんな時間にもかかわらずプライベートガイドツアーと思しきご一行様がぱらぱらといらっってます。
何時まで・・見学で切るんでしょうね?
さて、kおばちゃんは実はここからまた200キロ以上移動しなければいけません。
もっと見るべきところはあるのでしょうけれども、このあたりでお暇する事にしました。
外に出て、ヒュンダイ君のところに戻ろうと思ったのですが・・ちょっと気になるところがあって歩いて見ました。
それは、この先です。さっき何気なく通ったのですが・・
ここです。この線路。
これが、あの収容所に続く線路なのです。
正面からあのゲート『死の門』といわれている入り口を望むことが出来ます。
中で繰り広げられていた・・信じられないような行為。
その行為も人間のしわざです。『する』ほうになるのか『される』ほうになるのか・・どちらもいやです。
そのような状況に導かれることのない世の中にしないと行けないと思ったkおばちゃんです。
ヒュンダイ君の所に戻ると、突然大粒の雨が降ってきました。昼間はあんなにお天気がよかったのにね。
駐車場には見学にいったお客さんを待つワゴンが何台も止まっていました。
さあ、今晩の宿泊地に向けて・・出発です!
連休中は・・ちょっと用事がたくさんありすぎて・・でもきっと何も出来ない気もするけどね。
なんとかしたいkおばちゃんです。
○8月7日(日)
アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウBrzezinkaの見学は続きます。
とにかく敷地は広大です。
第一収容所ではことたりなくなり、この広大な第2収容所をつくったけれども、ここも手狭になった・・というのだからどれだけの人がここに送り込まれてきたのでしょうね。
かろうじてブロック?煉瓦?で出来ていた収容施設を見た後、先になにかあるようですので進んで見る事にしました。
何か記念碑が建っています。
そしてその先の方に・・半ば崩れかけた建物の屋根がありました。
これはクレマトリウムと一般的に呼ばれているところのようです。
クレマトリウムとはKrematoriumsのことだと思いますので、火葬場と言う意味だと思いますが・・ここにあったものは火葬場だけではなかったそうです。
言い方が変かもしれませんが、火葬にする『材料』を作り出していたところでもあるのです。
つまり大規模な『ガス室』も併設されていたのだそうです。
何でも、毎日到着する4000人近くの収容者に対して番号が付けられる・・つまり生存者として受け入れられるのはその2割にも満たないほどだったと言う話もあります。
残りの8割は、収容施設に収監されることもなく、一直線にこの場所、つまりクレマトリウムに連れてこられたということらしいです。まさに『死の工場』がここにあったというとこです。
何と本当の意味で『非生産的な』工場だったのですよね。
こんな瓦礫になっているのは、ナチスが撤退するときに証拠隠滅を計るために破壊して行ったからだときいています。
それら全ての、卑劣な行為を忘れない為にもそのままの姿をとどめているのでしょう。
その概要は傍らにある説明碑でも判るようになっています。
このあたりは、あの引きこみ線からまっすぐに来たつきあたりにります。
まさにターミナル、終着駅です。現在は国際犠牲者記念碑の並ぶ所となっていました。
そしてそれぞれが、考える場所になっているようです。
ア、もちろんファインダーを覗いてらっしゃるかたもおりました。
ここから先に人生の繋がっていない人々がおりたっていったのですね。
この線路脇に続く収容地区行きに選択された人はまだ幸せだったのでしょう。真っ直ぐ進むよりは。
それでも、紙一重の生活が延々と続いてのでしょう。生きるも地獄でしょうから。
ここにある画像は到着したばかりの様子だそうです。そして、この場で選別が行われていったということです。まさか、それが生死の選別だとは思わないでしょうね。
現在の風景からは想像できません。
もう、5時を回ってしまっています。段々薄暗くなってきました。もうそろそろ切りあげました。
出入り口のゲートの脇に広がっているのは木造のバラックのある地区です。
先程の煉瓦ブロックに比べると、もっとひどい環境ですね。こんなところで冬は越せないのではないでしょうか。・
それにしても・・こんな時間にもかかわらずプライベートガイドツアーと思しきご一行様がぱらぱらといらっってます。
何時まで・・見学で切るんでしょうね?
さて、kおばちゃんは実はここからまた200キロ以上移動しなければいけません。
もっと見るべきところはあるのでしょうけれども、このあたりでお暇する事にしました。
外に出て、ヒュンダイ君のところに戻ろうと思ったのですが・・ちょっと気になるところがあって歩いて見ました。
それは、この先です。さっき何気なく通ったのですが・・
ここです。この線路。
これが、あの収容所に続く線路なのです。
正面からあのゲート『死の門』といわれている入り口を望むことが出来ます。
中で繰り広げられていた・・信じられないような行為。
その行為も人間のしわざです。『する』ほうになるのか『される』ほうになるのか・・どちらもいやです。
そのような状況に導かれることのない世の中にしないと行けないと思ったkおばちゃんです。
ヒュンダイ君の所に戻ると、突然大粒の雨が降ってきました。昼間はあんなにお天気がよかったのにね。
駐車場には見学にいったお客さんを待つワゴンが何台も止まっていました。
さあ、今晩の宿泊地に向けて・・出発です!