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ローマ帝国の450年間

2022年08月05日 | 高2用 授業内容をもう一度

前133年からの『混乱の1世紀』を終わらせたのは前31年のアクティウムの海戦であった。この海戦でオクタヴィアヌスはアントニウスに勝利し、元老院と表面上は共存する道を選んだ。だが、全ての権力はアウグストゥスに集中し、以後、事実上の帝政が始まった。これをプリンキパトゥス(元首制)と呼ぶ。
 彼に続く約200 年間にローマは領域を最大に(最大版図)拡げた。このローマ帝国の豊かさを支えた経済力の基盤が奴隷制に立脚したラティフンディウムであったラティフンディウムは征服地を有力者が貸与されて経営するものであるから、当然、その多くは属州で経営されるものであった。したがって、ローマが「パクス・ロマーナ」と呼ばれるような安定期に入ると、しだいにラティフンディウムが多く存在する属州に、ローマ帝国の経済活動の中心が移るようになった。つまり、イタリア半島のローマ市の政治面・経済面での吸引力は次第に低下し、属州に帝国の中心が移行していくことになる。
 また、領域の拡大は新しい強力な外敵との敵対関係をもたらし、それらに対する防衛を余儀なくされ、ローマ帝国の軍事力を地方(属州)に拡散せざるを得なくなっていった。そのため、いっそう属州の重要性が高まったのである。


このような中、属州の経済力・軍事力を背景に皇帝位を奪取する者が現れたり、軍事クーデタによって政権をとった皇帝(軍人皇帝)が乱立するようになり、ローマ 世界は分断され社会秩序を失って混乱を極めていく。
 そのような社会不安の中、従来のローマの神々への不信感をつのらせたローマ の下層民達は新しい希望へ走った。すなわち、その希望こそがキリスト教である。しかし、ローマ の混乱は3世紀末に収束に向かった。最後の軍人皇帝でもあるディオクレティアヌス帝の登場である。軍事力によって再びローマ を統一したディオクレティアヌスであったが、皇帝の概念は変化し皇帝崇拝を強要し官僚制に立脚したドミナートゥス 制の時代に入っていった。さらにコンスタンティヌス 帝以後、帝国維持のためにキリスト教が利用され、392 年にはテオドシウスによってキリスト教は国教とされた。
 一方、ローマ の混乱はラティフンディウム 経営の基盤となる奴隷の獲得に大きな障害をもたらした。奴隷という再生産されない労働力に見切りを付けた大土地農場経営者達は、移住や転職の自由を持たない小作人(コロヌス)として奴隷に財産を与え、育児出産を可能にした。これが3世紀頃から広まったコロナートゥス 制である。しかし、移住・転職の自由の制限が他の経済活動にも波及し、古代市民的自由が法的にも制限されるようになると、ローマ 経済は低迷し始め、やがて都市への課税強化なども原因して、前7世紀から続いていた貨幣経済は消滅していくことになる。そのような中、大帝国ローマ は395 年の東西分裂後、新しい歴史の段階に入った。


元首制の下における元老院

2022年08月05日 | 高2用 授業内容をもう一度

【アウグストゥス】はイタリアと一部属州の統治や国庫の管理を元老院から皇帝の手に移っていった。元老院議員の就任にも皇帝の意思が貫徹した。しかし元老院議員はしだいに世襲となり、帝国の高級官僚はほとんど元老院議員の占めるべきものとされ、皇帝と結び付いて帝国統治の要となった。
 元老院と皇帝との関係では、皇帝は元老院議決を自己の思うままに決定させて、元老院の独立性はほとんどなかった。しかし、その一方で、皇帝の死去あるいは殺害に際しての後継皇帝の決定は元老院の手に握られていた。
 皇帝は、【属州総督の任命権】・【軍団指揮官の任命権】を担当した。それらは元老院議員から任命され、その他の公職は、軍務を果たしたのちに昇進した騎士身分の者が任命された。そのため彼らが皇帝を補佐して帝国を統治するようになり、その役割がしだいに大きくなった。


古代ローマ史 ラティフンディウム

2022年08月05日 | 高2用 授業内容をもう一度

ローマはイタリア半島統一戦争を【マグナ=グレキア】を征服して達成していく間、半島内に広大な【征服地】を獲得しました。この征服地の分配は【元老院】で決定しましたから、多くの征服地は【パトリキ】(貴族)達の手に渡りました。また、征服活動ではもうひとつローマが得たものがあります。それは【奴隷】です。戦争に勝って【捕虜】を捕らえると、彼らを奴隷商人に売り渡すわけです。そして、パトリキたちはこの大量に獲得した奴隷を使って広大な農地を耕させる。そんな農業経営が始まりました。この「【奴隷制大土地農業経営】」を【ラティフンディウム】です。【前2世紀】ころから広まりました。
 ラティフンディウムでは、穀物のほかに【ブドウ】や【オリーブ】が生産されました。特徴的なのはこれらの農作物は「商品作物」として売られるものであると点です。ラティフンディウムは、【ポエニ戦争】で【属州】が拡大すると、その属州にも拡大していきます。その結果、中小規模の農業経営しかできなかった【プレブス】(平民)の暮らしを圧迫しました。彼らの作る農作物は小規模であるがために、大量生産されるラティフンディウムの【安価な農作物】に太刀打ちできなかったのです。【中小自作農】の収入は減少。生活が苦しくなりました。彼らは【ファランクス】というローマ軍の主力を担っていましたから大変です。武器を自分で買ったり、手入れをしたりする余裕などなくなっていきました。こうしてローマ軍が勝てなくなると、奴隷の値段が上がったり、公有地の分配が難しくなったりしました。困ったのはラティフンディウムを経営する貴族たちです。


ローマの共和制

2022年08月05日 | 高2用 授業内容をもう一度

古代地中海世界を統一した大帝国が,紀元前1世紀後半すなわち【前27年】,皇帝【アウグストゥス】のもとに誕生しました。その中心となったローマは,イタリア中部にラテン系の人々が建てた都市国家で,伝承によれば,その建設は【前8世紀】の中頃、【ロムスル】と【レムス】という双子の兄弟によるものとされています。
 当初ローマは,【】イタリア北部に勢力を張っていた先住民である【エトルリア】人の強い影響を受け,7代にわたってエトルリア人の王に支配されていたものと考えられています。ローマの歴史が明らかになってくるのは,前6世紀末(【前509】年)と伝えられる共和政の開始後のことです。

 共和政となったローマでは,【パトリキ】と呼ばれる貴族と【プレブス】と呼ばれる平民の身分差がおおきく,当初は,王の代わりに設置された役職の【コンスル】をはじめとする要職は貴族が独占していました。コンスルは共和制が始まったときに、それまでの国王が持っていた権限を【2】名で分け合うためにおかれた官職です。一人が戦争の指揮を時に内政の安定を図るためにもう一人を必要としていた面もあります。彼らが独裁者になることを防止するために、任期は【1】年としました。古代社会においても独裁者の出現を予防する方策がとられていました。ただし、非常事態が起きたときは、【ディクタトル】(独裁官)が任命されました。この官職は任期を【半】年とし、独裁化を防ごうとしました。

 しかし,プレブス(平民)は,【前494】年の聖山事件をきっかけに、貴族の議会である【元老院】やコンスルの決定に対する拒否権をもった【護民官】職の設置に成功し,また,【平民会】の設置も貴族に認めさせました。さらに、【前367】年に制定された【リキニウス・セクスティウス】法により2名の【コンスル】のうち1名は平民から選ばれる体制を実現した。また、貴族の占有地を【500】ユゲラ(現在の【125】haにあたる広さ)に制限しようとしました。

 その80年後の【前287】年に制定された【ホルテンシウス】法では,平民会の決議が貴族をも拘束することが決まり、貴族と平民は政治的には同権となったといえます。ただし,それ以後も,貴族の政治的な重要性は長く維持され,初代皇帝となった【オクタヴィアヌス】も【元老院】の権威を尊重しています。