【ディオクレティアヌス】帝は【皇帝崇拝】を強要してキリスト教徒を大弾圧しました。これに対して、約40年後に登場した【コンスタンティヌス】帝は、【313】年にキリスト教を【公認】しています。しかし、両者の間にはれほど大きな差はなかったともいえます。つまり、コンスタンティヌス帝が【アタナシウス】派に絞ってキリスト教を保護し、アリウス派を弾圧したことは、皇帝の権威を強化することを意図したと考えられるからです。皇帝が定めた神のみを信仰する、とうい点で両者は共通しているわけです。
一方、「【背教者】」といわれる皇帝が【ユリアヌス】帝です。彼はコンスタンティヌスの甥で、ギリシアで軟禁されたまま養育されました。軟禁生活の中、彼が唯一自由に行えたのはギリシア哲学を学ぶことだけであったようです。この頃、彼は多神教に触れて育ち、その結果、帝国の一神教化への危機感などから、キリスト教に反感を抱くようになったと考えられています。
内戦を終結させて皇帝になったユリアヌスが真っ先に行ったのは、ギリシャやローマの伝統的な宗教を復活させ、キリスト教徒によって破壊されていたそれらの神殿を再建することでした。また、【ミトラ】神へのいけにえの儀式を盛んに行ったいます。
キリスト教を禁止したわけではありませんが、キリスト教の聖職者の持っていたさまざまな特権をとりあげました。当時から既にキリスト教会は教義をめぐる宗派争いが多く、さまざまな特権を利用して、かなり聖職者たちが好き勝手なこと行なっていることに対する不快感も強かったようです。しかし、後世の人たちは彼を『背教者』と呼ぶようになりました。
【テオドシウス】帝については、整理すべきポイントは2つあります。一つ目は、【392】年キリスト教以外の宗教の信仰を禁止したこと。このことをもって、キリスト教の【国教化】といいます。ちなみに、ギリシアの古代オリンピックはこの頃までおこなわれてきましたが、392年以降、異教であるギリシアの神々に捧げる祭典であるという理由で、392年以後は開かれなくなりました。
つぎに、彼がなくなる【395】年、17歳の長男アルカディウスに東方帝国を、10歳の次男ホノリウスに西方帝国を継承させました。この二人はあまり有能な人物ではなかったようです。これによってローマ帝国は【東西に分裂】しました。西ローマ帝国(西方帝国)は【476】年に滅亡し、東ローマ帝国は【1453】年にイスラム教のオスマン帝国によって滅ぼされるまで、約1000年間続きました。
ニケーア公会議においてコンスタンティヌス帝が会議をリードし、教会が抱えている問題(イエスとは何者か)に決着をつけたことは、中世西欧世界を教皇と皇帝のどちらが指導的立場に立つかという問題のきっかけになった。
古代の公会議のチェック・ポイント
①4~5世紀に開催された公会議4つの名称は?
=ニケーア公会議
=コンスタンティノープル公会議
=エフェソス公会議
=カルケドン公会議
②各公会議が開催された年は?
ニケーア=325年
コンスタンチノープル=381年
エフェソス=431年
カルケドン=451年
③各公会議で異端とされた一派は?
ニケーア=アリウス派(イエスに人性のみを見る。つまりイエスは人間である。)
コンスタンティノープル=アリウス派(ニケーア公会議を追認)
エフェソス=ネストリウス派(イエスに神性と人性の両面を認める)
カルケドン=単性説派(イエスの神性を特に強調する。東方教会で広まった)
④ニケーア公会議で正統とされた宗派は?
=アタナシウス派(イエスを神の子と考える。カトリックのこと)
⑤アタナシウス派の説は?
=三位一体説(神・神の子イエス・聖霊が不可分な存在である)
⑥異端とされた宗派の、その後の動向は?
=アリウス派はゲルマン人に布教した。
=ネストリウス派は東方に布教し、ササン朝ペルシアで保護され、さらに唐代の中 国に伝播。長安に「大秦景教流行中国碑」が建立された。大秦=ローマ帝国
【プリンキパトゥス】(元首制)
【オクタヴィアヌス】はエジプトを制圧すると、それまで元老院に認めさせていた「非常大権」を元老院に返還しました。その代わり、元老院はローマ軍が駐屯している「属州」に対する命令権をオクタヴィアヌスに認めます。これによって、オクタヴィアヌスは事実上、ローマの軍事権を掌握したことになりました。残りの属州は元老院が統治することにして、両者の共存を図りました。しかし、元老院の統治する属州に対しても、軍事権に関しては元老院の決定権を覆す権限を持つことになったので、まさに全属州の支配権を獲得したといえます。
さらに、オクタヴィアヌスは、【護民官】の権限と、【コンスル】の権限を、【終身】で獲得しました。細かいことですが、これらの「権限を獲得した」ということと、その「職務に就く」こととは違います。ローマでは一人の人物が同時に複数の官職に就くことは許されていなかったのです。すなわち、ここに、共和制の時代から続いていた制度やシステムには何ら変更が加えられずに、一人の人間(元首)が数多くの権限を集中的に持つ体制が完成したわけです。しかも、その数多くの職務を兼任するのではなく、実際にはその職に就くこともない。さらに、ローマのすべての軍事権を一人で掌握し、最高の神官地位も得ています。そのような元首による政治を【プリンキパトゥス】と呼びます。
そもそもオクタヴィアヌスは名門貴族ユリウス家の出身者ですから、平民出身者であることを条件とする護民官には就任できなかったわけです。しかし、護民官の職務の中に、「あらゆる行政上の措置に対する拒否権の保持」という項目があったことを思い出してください。オクタヴィアヌスがコンスルの権限を持ったとしても護民官が拒否権を行使すれば無意味になってしまうわけです。オクタヴィアヌスは元老院との交渉で、護民官にはなれないので権限だけを獲得したといえます。帝政時代にも護民官という官職は残りました。しかし、名誉職として形骸化しています。
一方、元老院は政治的権力を大きく失いました。しかし、「元老院が元老院議員の中から元首を選出し、権限を委任する」という形式的な権威は残りました。また、元首は護民官の職責も持っているため、民衆も形式的には元首を選んでいることになります。そもそも、前494年以来、【護民官】は【平民会】が選出するものだからです。したがって、形式上は民衆も元首を選んだ頃になるわけです。
最後に「詳説世界史B」の記述を載せておきます。「彼は、カエサルとちがって元老院など共和政の制度を尊重し、市民の中の第1人者と自称した。だが、実際にはほとんどすべての要職を【兼任】し、全政治権力を手中に収めました。
ローマ の独裁者となった【オクタヴィアヌス】のローマ軍が【後9】年にゲルマン人たちとの戦いとなった【トイトブルクの森の戦い】に敗れたため、ローマ はエルバ河まで進出することを断念した。そして、【ライン】川をローマ領の北限としてゲルマン人が住む地域との国境線とし、【ドナウ】川もゲルマン人との国境線とした。つまり、【ライン】川と【ドナウ】川を結ぶ線がローマ帝国とゲルマン人との境界線になった。
一方、【ガリア】(現在の【フランス】にあたる)から来たに逃れて現在の【スコットランド】に住み着いていた【ケルト】人との国境線は、5賢帝時代の【ハドリアヌス】帝のときほぼ決定した。ハドリアヌス帝はブリタニアに「【ハドリアヌス】の長城」を建設し、イングランドとスコットランドの境界としたのである。この長城のさらにのちに、北方には「【アントニヌス】の長城」が建設された。
ゲルマン人に関する記述としては、【カエサル】が【ガリア遠征】のときに書いた『【ガリア戦記】』や【2】世紀の歴史家【タキトゥス】が書いた『【ゲルマニア】』がある。タキトゥス は『【年代記】』も著し、【共和政治】を称賛している。
【パクス=ロマーナ】の時代は、前【27】年から【180】年までの約【200】年間を指します。前半は皇帝位は世襲されていました。それぞれの皇帝の時代を抑えておきます。
まず、オクタヴィアヌスは「【ラテン文芸の時代】」を支えた皇帝です。彼の時代には、親友の【リヴィウス】が『【ローマ建国史】』を著し、ローマ建国伝説から紀元前9年までの歴史を残しました。また、詩人【】ヴェルギリウスが「ローマのオデュセイア」といわれる『【アエネイス】』を書いています。一方、外交面では紀元後【9】年に【ライン】川を越えて進攻してゲルマン人と戦いましたが、この【トイトブルクの森】の戦いでは、彼の軍隊は完敗してしまいました。この戦いの結果、ローマ帝国とゲルマン人居住地域との国境線が定められ、【ライン】川と【ドナウ】川がそのラインになりました。
2代目皇帝【ティベリウス】の時代は、ほぼイエスが生きた時代と重なります。イエスはユダヤ総督【ピラトゥス】の命令で処刑されました。紀元後30年のことです。イエスの弟子に【12使徒】がいますが、その一人【ペテロ】を処刑したのが第4代皇帝【ネロ】です。【64】年の【】ローマの大火の責任を追及されることを恐れたネロは、その原因をキリスト教徒に押し付けたのだ、といわれています。ペテロと同時に【パウロ】もローマで処刑されました。
2世紀は、政治的にも安定する大帝国がユーラシア大陸の東西に君臨していた時代です。この2つの大帝国の支配者たちは、異国の珍しい物産を求めて高値で買い付けました。ユーラシア大陸西側に君臨していたローマ帝国は、【五賢帝時代】にあたる最盛期でした。ローマの金持ちたちは中国でしか製造できない【絹】に高値をつけました。
中国の絹とローマの【金貨】、インドの【象牙】などが交易され、各地の商人たちは、ローマからイランの【パルティア】を経て、インドの【サータヴァーハナ】朝、カンボジアの【扶南】、南ヴェトナムの【チャンパ】を経由して、ヴェトナム中部の【日南】(現在の【ユエ】)に到達するルート上にバトンリレーのように商品を売り買いしていったわけです。また、ローマの金貨がデカン高原のサータヴァーハナ朝や、カンボジアの扶南、南ヴェトナムのチャンパなどから発見されます。
【166】年にローマ皇帝【マルクス=アウレリウス=アントニヌス】の使者がこの【日南】郡まで来た、という記録が『【後漢書西域伝】』に書かれています。そこにはローマ帝国を「大秦国」、またマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝を「【大秦王安敦】」と書き記しています。
【1~2】世紀頃「【エリュートラ海航海記】」という本が、【ギリシア】人によって書かれました。この本にはインド洋の【季節風】の存在が記述されています。この季節風を【ヒッピアスの風】と呼んでいます。当時の人々は、この発見によって「【海の道】」を作り上げました。夏にアフリカ東岸を出向し、アフリカからインドに向けて吹いている季節風に乗ってインドに到着します。そして、帰路は逆、にインドからアフリカに向けて吹く季節風に乗っていくわけです。この季節風は15世紀の末、【1498】年に【ヴァスコ=ダ=ガマ】の艦隊を乗せて、インドに彼らを運んだ風でもあります。
【ペテロ】は【12使徒】の一人で、イエスの死後にキリスト教の活動を始めました。イエスの生前にはイエスを真に理解していたとは言いがたいのですが、イエスの死の彼は65年に皇帝【】ネロによって処刑されました。そのペテロの墓の跡に建てられたとされるのが「ローマ教会」です。したがってローマ教会の大司教は、他の教会の大司教とは別格であるとして、「教皇」と呼ばれます。 一方、【パウロ】は敬虔な【ユダヤ教徒】でキリスト教徒を迫害していました。もちろんイエスの弟子ではなく、12使徒でもありません。彼は【ローマ市民権】を持っていたため、改宗するとローマ帝国内を広く布教して回ることができました。その意味で、現在のキリスト教にとって、彼の功績は多大なものがあります。
【トラヤヌス】帝は、五賢帝時代の2人目の皇帝です。彼は、【ドナウ】川を越えて領土を広げ、属州【ダキア】を征服しています。これによりローマ帝国は最大となったわけです。ダキアは現在の【ルーマニア】にあたります。トラヤヌス帝は【最大版図】を現出した皇帝です。なお、版図という言葉は、国境がはっきり定まっていなかった時代の王国の領土のことであると、考えてください。
【ハドリアヌス】帝は、五賢帝時代の3人目の皇帝です。彼は「【ハドリアヌスの長城】」を建設したことで知られる皇帝です。この長城は現在のイギリスにある世界遺産ですが、【カエサル】が【ガリア遠征】(前【58】年から)の際に建設した属州【ブリタニア】を防衛するために、皇帝【ハドリアヌス】が建設させました。長城の北方に住む【ケルト】人の攻撃を、長城で防ごうとしたものです。
【マルクス=アウレリウス=アントニヌス】帝は、五賢帝時代の最後の皇帝です。彼は【ストア】哲学の学者としても知られ『【自省録】』を【ギリシア】語で著しました。また、中国の『【】後漢書西域伝』に「【大秦王安敦】」として記録されている皇帝でもあります。それによると、彼の使者が【166】年、中国の【後漢】の最南端に位置する【日南郡に】到達したようです。日南は現在のヴェトナム中部の【ユエ】に位置します。ヴェトナム北部は約1000年の間にわたって、中国の諸王朝が支配し続けました。その間、ヴェトナム南部には【チャンパ】という独立国が存在しています。この国はインドの文化的影響を受けた国です。
【前27】年【オクタヴィアヌス】は【元老院】から【アウグストゥス】(皇帝)の称号を与えられ、事実上の【帝政】が始まった。ローマ帝国の成立である。しかし、彼のスタンスは独裁者として振舞うのではなく、「【第1の市民】(プリンケプス)」として振舞うというもので、あくまでも市民みんなに推されて政治を任されているという立場を取った。このようなスタンスは彼の後継者たちにも受け継がれたので、その時代を【プリンキパトゥス】(元首制)と呼ぶ。
アウグストゥスはイタリアと一部属州の統治や国庫の管理を元老院から皇帝の手に移っていった。誰かが元老院議員になるときも、その決定には皇帝の意思が大きな決め手になった。しかし元老院議員はしだいに世襲となり、帝国の高級官僚はほとんど元老院議員の占めるべきものとされ、皇帝と結び付いて帝国統治の要となった。
元老院と皇帝との関係では、もともと自分の言うことを聞く人が元老院議員になっているから、皇帝は元老院の議決を自分が思うように決定することができたので、元老院の独立性はほとんどなかった。しかし、その一方で、皇帝の死亡するあるいは殺害されたと期は、次の皇帝を誰にするかを決定するのは元老院議員たちの議決であった。
皇帝は、【属州総督】の任命権・遠征などにおける【軍団指揮官】の任命権を担当した。それらは元老院議員から任命され、その他の公職は、軍務を果たしたのちに昇進した騎士身分の者が任命された。そのため彼らが皇帝を補佐して帝国を統治するようになり、その役割がしだいに大きくなった。
ローマはイタリア半島内の都市を征服した後は、分割統治という方法で支配します。文字通り分割して統一します。各都市が協力してローマに抵抗することを防ぐ為です。そのために支配のレベルに差を付けています。つまり、ある都市には完全な自治を認めるが、別の都市には自治を認めない。そのような差を付けられるとなかなか協力するのは難しそうです。
自治市の上層自由人はローマ市民と認め市民権を与えますが、同盟市には市民権を与えません。しかし戦争で兵士を提供する義務はあります。
義務だけがあって権利は認めないという方法は厳しいようですが 古代世界では戦争に敗れた人々は殺されるか、奴隷にされるのが一般的でしたから、ローマは非常に寛大だといえます。勝ったローマが負かした人々を自分の仲間つまりローマ人にしてしまうなど、当時は異例だったのです。
半島統一戦争でプレブス達がファランクの重装歩兵として活躍しました。それに合わせてプレブス達の政治的権利も向上して、身分闘争が進んだ。
それまでパトリキによって構成されていた元老院が決めたことに全ての市民つまりプレブスとパトリキが従うが、プレブスの代表で構成されていた平民会の決定にはプレブスだけが従い、パトリキは無関係でした。
つまり元老院の決定と平民会の決定が対等になった。
そもそも平民会は聖山事件で公認された民会です。
その結果、プレブス出身だがコンスルのような高位役職を経験した人物と従来のパトリキ層とでノビレスという新貴族が形成されていきます。プレブス出身の高位経験者も元老院議員になりm
さらにリキニウス達は、占有地の分配を500ユゲラに制限することに決めました。
ここで占有地とは何かを知っておく必要があります。
ローマは戦争で勝利して得た征服地を公有地にしました。つまり、その土地を誰かの土地にするのではなく いったんみんなの土地にしたわけです。その上で、公有地を元老院で誰が管理するか?を決定していく。簡単に言えば公有地を元老院議員で分配する。そしてそのようにして分配された土地を占有地と呼びました。
リキニウス法ではこの占有地の広さを500ユゲラまでにして、多くの人々が戦争の恩恵に預かれるようにしました。
ここでさらに注意すべきは、リキニウス法では占有地を制限しても、もともとプレブスが所有していた領地には制限を加えていない点です。
古代ギリシア人は【ポリス】という都市空間に住んでいました。さらに、そのポリスは都市であると同時にひとつの国家のしての機能を持っていました。彼らはポリス的人間(ポリス人)として、それぞれのポリスで完結する暮らしをしていたわけです。彼らにとってポリスとは忠誠を誓う対象であり、戦争をしてでも命を懸けて守るべき対象であり、生活の基盤として暮らしに必要な商品を買う場であり、家族と暮らす場であり、そのように感じている人々とともに「ポリス人」として生きるすべてであったわけです。
しかし【前431】年から約【100】年間も続いたギリシア世界の内戦により、兵役の負担を増やし、ポリスによった生活も不安定になってきました。兵士の不足を傭兵で補うポリスも多くなったりしました。その結果、ポリスに対する忠誠心は薄れていったのです。そのような時代の後に北方の【マケドニア】王国がギリシア世界を征服しました。さらにアレクサンドロスによる東方遠征で、ギリシア人たちはポリスを離れてオリエント世界に乗り出し、かれらギリシア人がオリエント世界の支配者階級を形成していったのです。
ヘレニズム国家はオリエント式の統治体制を採用しましたから、ギリシア人は「ポリス人」という感覚を失い、帝国の支配者として、ポリスには依存しない「自己」を認識したわけです。このポリスから離れは「個人」が、広大な帝国の支配者の一員として自己を認識するという、新しい世界観が成立したのです。このような人々の新しい感覚を「【コスモポリタニズム】」すなわち「【世界市民主義】」といいます。
つけくわえるとギリシア人がヘレニズム国家においてもなお、都市生活を続けたことから、「世界市民」という表現を使用するわけです。
古代ローマ史特有の単語を答えなさい。
1. 貴族のこと。職業は農業経営。ローマ軍団を指揮。
2. 平民階級のこと。職業は中小自作農。ファランクスを構成。
3. 徴税請負人のこと。属州の商業権や徴税権で富裕化した平民。
4. 新貴族のこと。富裕化した平民と貴族たちを指す。
5. 閥族派のこと。元老院貴族の多数派。スラが領袖。
6. 平民派のこと。ノビレスやエクイテス の発言力を背景とした。マリウスが領袖。
7. 執政官のこと。任期1年で2名。リキニウス 法で1名は平民から。
8. 独裁官のこと。任期半年で1名。非常時のみコンスルから任命。
9. 「ローマ第1の市民」の意味。オクタヴィアヌスが自称した。
10. 元首制の意味。前27年から始まった実質的な帝政。
11. 尊厳者の意味。前27年に元老院がオクタヴィアヌスに送った尊称。
12. オリエント 的専制君主制の意味。ディオクレティアヌス帝から始まった。
13. イタリア半島外のローマ支配地域のこと。最初はシチリア島。
14. 奴隷制大土地所有制度。前3世紀から発展。果樹園経営が主。
15. 移動の自由のない農奴的農民のこと。3世紀から急増。
16. 奴隷制農業から発展したコロヌスを使用した農業経営。
正解
⑴パトリキ ⑵プレブス ⑶エクィテス ⑷ノビレス ⑸オプティマテス ⑹ポプラレス⑺コンスル ⑻ディクタトル ⑼プリンケプス ⑽プリンキパトゥス ⑾アウグストゥス⑿ドミナートゥス ⒀属州 ⒁ラティフンディウム ⒂コロヌス ⒃コロナートゥス