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人間はポリス的動物である

2022年08月05日 | 高2用 授業内容をもう一度
人間はポリス的動物であるというのはアリストテレスの言葉です。ポリスとの関係なしに、言い方を変えれば、ポリスから自立して市民が生きることは、全く考えられないことでした。
ポリス市民として仲間の市民と一体感を、強烈な仲間意識を持って一生をおくったのです。

アテネではプロの政治家はを廃止した

2022年08月05日 | 高2用 授業内容をもう一度
ペリクレス時代には役人はくじ引き(抽選)で選ばれ、任期は1年間でした。彼らは、そのようにして役人になり政治を動かしたので、アテネの役人はアマチュアといえます。現在に日本のようにプロの役人はいなかったのです。

そのため市民はなるべく教養を身につけることが求められ、弁論術の先生について勉強をしました。その先生をソフィストといいます。

たしかにプロの役人や政治家がいると、彼らに決定権が集中してしまい、役人とそうでない人との権力格差を生む可能性が高い。アテネの人々は、プロの役人(公務員)をおくことで発生する問題こそを重視したわけです。市民の平等を守ることが「市民の一体感」を生むと考えたわけです。

しかし、問題もありました。政治家が毎年コロコロ変わり、そのたびに政治の方向性や裁判の方向性が変わってしまう。そこで任期に制限がなかった将軍が政治を担うようになったのです。ペリクレスは将軍という立場で政治を担ったのは、そのような事情からでした。



古代ギリシアのデモクラシーと現在の官僚制

2022年08月05日 | 高2用 授業内容をもう一度

古代ギリシア世界は、オリエントで誕生した官僚制を受け入れませんでした。彼らはまったく別の方法で統治を行ったのです。それは統治する権限をみんなで分担する、という方法です。彼らはこれをデモクラシー(ここでは古代ギリシアの民主制を現在の民主主義と区別するために、デモクラシーとします)と呼んでいました。
 官僚制とは、一部の官僚たちが物事を決定して実行していく制度ともいえます。たとえば税を集める場合、どれだけ集めるのか?何に使うのか?道路建設か?ダム工事か?社会福祉に使うのか?といったことを官僚たちが決定するということです。デモクラシーは違います。その決定をみんなで相談して決めましょう、というものです。一握りの人間に委ねない。みんなで、というのが特徴です。官僚制とデモクラシーとはまったく別の政治のやり方といえます。
 古代ギリシア世界がデモクラシーを生んだ理由は、ペロポネソス半島特有の地形、エーゲ海特有の風土にあります。半島は山が海に迫り、人々が住める場所は狭くてそれぞれが孤立している。したがって農地も狭く多くの人が一箇所に住むことが難しい。しかも年間の降水量も少ないので穀物生産にはむかない。そんな環境の下で、多くは1000人前後の集団で生活しているわけです。その程度の人数ですから話し合いで物事を決定することも可能だったといえます。
 現在はデモクラシーと官僚制という相反する政治方法を、それぞれの長所を集めて政治に用いています。それを実現したのが、モンテスキュー、ロック、ルソーといった思想家たちです。彼らが生きた時代は、国王が官僚階級を率いて好き勝手に税金を使い政治を行っていました。政治権力を分散することを「三権分立」といいます。誰もが官僚になれるようにすべきだと考えたきっかけは、彼らが中国の科挙制度を知ったからです。試験の成績がよければ誰でも官僚になれる。これは身分の良し悪しがすべてを決めていた時代とは大きな差でしょう。彼らは古代ギリシア時代のデモクラシーを参考につつ、官僚制度の欠点である「独占」を取り除くことを主張し、アメリカ独立革命やフランス革命を経て、彼らの主張が実現しました。 現在の民主主義は官僚制度を利用しています。合い入れない両者はなぜ


五賢帝時代

2022年08月05日 | 高2用 授業内容をもう一度
98年から180年までに古代ローマ帝国は全盛期を迎えた。この時代を5賢帝時代という。

五賢帝時代のチェック・ポイント
①5人の皇帝を順にあげると?
②トラヤヌス帝の業績はローマの最大版図を現出したこと。そのときにローマが獲 得した属州は?現在、その属州はどこに当たるか?
③ハドリアヌス帝の業績である「ハドリアヌスの長城」はどこにあるか?
④ピウス帝のときは、著名な歴史学者が2人活躍した。それは?
⑤マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝を中国では何と表記したか?また、彼 が派遣した使者がたどり着いた地はどこか?そこは現在のどこにあたるか?その当時の中国の王朝名は?

ラテン文芸の時代

2022年08月05日 | 高2用 授業内容をもう一度
アウグストゥス の側近ヴェルギリウス はローマ 建国伝説『アエネイス 』や『農耕詩』を著した。他にオヴィディウス の『転身論』『愛の詩』など。ちなみにアウグストゥス の側近には『ローマ 建国史』を書いたリヴィウス がいる。アウグストゥス がいかにローマ の権威を重視し、共和制時代のローマ を尊重したかがわかる。ローマ の歴史書には他にポリビオス の『ローマ 史』があるが、彼は前2Cにローマ に敗れたギリシア人で「政体循環史観」を展開されている。またアウグストゥス の時代に小アジア 出身のストラボン が『地理誌』を書いている。
 禁欲主義で知られるストア哲学は、ローマ皇帝ネロの師セネカ が『幸福論』。ギリシア人奴隷出身のエピクテトスや5賢帝最後の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス『自反録』などが有名。人間がそれぞれ理性を持ち、自然の法則を洞察し、快楽や感情に打ち勝てば幸福になれるとする。人間は本来平等であるという立場に立ったため広い階層に受け入れられた。反対に快楽主義を主張したのがルクレティウス などに代表されるエピクロス派。

属州支配

2022年08月05日 | 高2用 授業内容をもう一度

ローマが最初に【イタリア半島外】の領土を得たのは、第1回【】ポエニ戦争の勝利によってでした。【シチリア島】が最初の【属州】です。半島の外の征服地にはローマから【総督】を派遣し、属州民には【徴税の義務】を負わせました。総督は【元老院】から示された納税額を属州から集めますが、属州民からはその額以上を要求するわけです。その差額が総督の懐に入る仕組みです。
 総督の指示に従って税を集めるのが【徴税請負人】です。じつは彼らも総督に命じられた額以上を集め、その差額を懐に入れる。そのような不正が盛んに行われていました。その結果、徴税請負人は裕福になり、新貴族(【ノビレス】と呼ばれた)として【平民会】をリードする存在になっていきました。


軍人皇帝時代のローマ帝国のさまざまな変化

2022年08月05日 | 高2用 授業内容をもう一度

広義では最初の軍人皇帝を【193】年に即位した【セヴェルス】帝とするが、狭義では【235~284】年までの【】50年間(マクシミリアン帝からディオクレティアヌス帝まで)を指す。この間26人の皇帝が地方の属州軍隊によって廃立され、24人が謀殺された。しかし、この時代から考えられることは多い。
 まず、「地方の時代」すなわち属州がローマ 経済の中心となっていたといえる点。ローマのある半島が経済の中心的存在ではなくなり属州の経済力がこれを凌駕している状態、すなわち、経済の空洞化現象である。
 次に何人もの皇帝が乱立したため皇帝の権威が著しく低下した点。皇帝は「第1の市民」などと呑気なことをいってられなくなった。また、ローマ の政治的混乱は軍事的弱体化を引き起こし、さらに外敵の侵略に備えるために軍事力が一層拡散したことも、この混乱に拍車をかけたといえる。
 このような社会の混乱は下層民に、【キリスト教】への信仰を深めさせもした。彼らは【ミトラ教】に信仰するものもいた。ローマの伝統的な神々に対する不信感からキリスト教への信仰が広まったといえる。
 さらにローマ の弱体化は、戦争で奴隷を獲得し、その奴隷労働力に立脚した【ラティフンディウム】経営を停滞させた。ローマの農業経営は以後大きく転換し、【ゲルマン人農民】や【解放奴隷】などが【コロヌス】として農作業に従事する【コロナートゥス制】が始まっていく。コロヌスという農民は、【移住や転職の自由】を制限された小作人たちで、奴隷とは違う。奴隷は財産や家族を持つことを許されない場合が多かったが、コロヌスは自分の財産をもって家族を養うことが許されていた。
 このように、軍人皇帝時代とは4世紀のローマを準備した重要な半世紀であったと言えるのである。


五賢帝時代に見られた帝国の空洞化

2022年08月05日 | 高2用 授業内容をもう一度

【五賢帝】時代に登場した【トラヤヌス】帝と【ハドリアヌス】帝は、属州【ヒスパニア】(現スペイン)出身の皇帝でした。このことは属州の地位が向上していたことを意味するでしょう。
 当時のローマ経済の中心は「【ラティフンディウム】」という大量の奴隷たちが大規模な農場を働くというものです。ラティフンディウムは属州で展開されていたので、見方を変えると、ローマ経済の中心が【属州】にあったともいえます。また、帝国が拡大すると防衛のために有能な将軍が辺境の属州に配属される必要があります。このことはローマの軍事力が属州に移ったことを意味します。ローマの経済と軍事の中心が属州に移り、ローマ市のあるイタリア半島がその役割を低下させていった、このような現象を「帝国の空洞化」と呼ぶことができます。
 帝国の空洞化は、【193】年から始まる「【軍人皇帝時代】」を準備したといえます。ローマの全盛期であった五賢帝時代に、すでに帝国衰退の原因が芽生えていたということでしょう。


軍人皇帝時代 皇帝とローマの神々への不信

2022年08月05日 | 高2用 授業内容をもう一度

軍人皇帝時代はローマ帝国の転換期になりました。豊かな貴族も貧しい人々も、内戦の恐怖に怯えて日々の生活を送っていました。
 ローマ帝国が拡大すると、属州の総督や将軍たちが強大な軍事力を持って互いに争うようになりました。ローマにいる皇帝も彼らに言うことを聞かせることはできません。彼らは互いに争い、日本の戦国時代の大名たちが京都を目指したように、将軍たちもローマを目指し、皇帝を殺して、自らが皇帝に即位する者が出現するようになりました。彼らを「軍人皇帝」と呼びます。
 軍人皇帝たちは50年間に26人が登場しましたが、そのうちクーデタや暗殺で殺されたのは25人に上ります。皇帝の名声や権威は地に落ちたわけです。このため、この乱世を終わらせたディオクレティアヌスは、皇帝を神として崇めることを人々に強要しました。
 軍人皇帝が登場した時代にも、皇帝たちはローマの神々を祭る祭典を人々に提供しました。しかし、その皇帝は2年もすれば暗殺されてしまう。また、ローマの神を祭っても、内戦は静まらないのですから、ローマの神々に対する人々の不信感は高まりました。そのような中、新しい髪が人々の前に現れたのです。すなわちキリスト教とミトラ教です。人々の信仰はこの2つの宗教に向けられていきました。


4分統治

2022年08月05日 | 高2用 授業内容をもう一度

【ディオクレティアヌス】は【284】年に即位しましたが、やっと統一したローマを4つに分けて、自らと3人の優秀な将軍と、4人で分けて支配することにしました。これを「【4分統治】」体制といいます。4人は東の正帝・東の副帝と、西の正帝・西の副帝として君臨しました。ディオクレティアヌスは【東の正帝】です。
 しかし、ディオクレティアヌスが亡くなると、残った3人の皇帝たちが争い、再び内戦に陥りました。この内戦を終わらせて、もう一度ローマに統一をもたらしたのが西の副帝だった【コンスタンティヌス】でした。


ローマとイランの戦い パルティアとササン朝ペルシア

2022年08月05日 | 高2用 授業内容をもう一度

紀元前【3】世紀から紀元後【3】世紀までイランを支配した【パルティア】は、【アルサケス】が建国した。彼の名からパルティアを中国では「【】安息」と呼んでいる。パルティアはローマと【シリア】を巡って対立し、【第1回三頭政治】の【クラッスス】を戦死させた。
 一方、ヘレニズム国家であるギリシア系の【セレウコス朝シリア】は、パルティアに帝国の東方地域を奪われたが、シリアの【セレウキア】に遷都しつつ延命していたが、第1回三頭政治の【ポンペイウス】によって前【64】年に滅ぼされた。
 次いで【226】年に【アルデシール1世】が建国した【ササン朝ペルシア】は、第2代【シャープール1世】のとき最初の全盛期を迎えた。260年【エディッサ】の戦いでは、軍人皇帝時代で内乱状態にあったローマ帝国の軍人皇帝【ヴァレリアヌス帝】を捕虜にしている。
 ローマは【395】年東西ローマに分裂。東ローマ帝国は6世紀【ユスティニアヌス帝】の時全盛期を迎えた。これに対抗したのが、ササン朝ペルシア第2期全盛期を現出した【ホスロー1世】で、シリアを巡る争奪戦を繰り広げた。


4世紀のローマ帝国

2022年08月05日 | 高2用 授業内容をもう一度

3世紀末から4世紀のローマ皇帝は3人の重要人物+1人の皇帝がいる。4世紀のローマ期は、その後の西ヨーロッパの運命を1000年間左右する重要な時期でもある。
まず、4世紀のローマ皇帝3人のチェック・ポイント

①3人の皇帝とは誰か?
=ディオクレティアヌス、コンスタンティヌス、テオドシウス
②ディオクレティアヌス帝の業績とは?
=ドミナートゥス制
=4分統治
③コンスタンティヌス帝の業績とは?
=キリスト教の公認
④テオドシウス帝の業績とは?
=死に際して、帝国を東西に分裂させた。
=キリスト教国教化


ドミナートゥス制

2022年08月05日 | 高2用 授業内容をもう一度

 ローマの神々にできなかったことを【ディオクレティアヌス】はやってのけました。すなわち、彼は内戦を終わらせ、再びローマに統一と栄光を取り戻させたのです。ローマの人々にとって、ディオクレティアヌスは「神」になるにふさわしい人間であったといえます。
 「【ドミヌス】」は「奴隷の主人」という意味です。ここでいう「奴隷」とは「市民」を指します。【プリンキパトゥス】(元首政)のころの皇帝が「第1の市民」であったのとは大きく異なります。ローマの皇帝は「【オリエント】風の皇帝」になったともいえます。
 神となった皇帝を崇拝できない人々がいました。キリスト教徒とユダヤ教徒です。彼らの神は【唯一神】ですから、多神教世界に住む一般のローマ人とは、大きく異なったのです。この結果、キリスト教徒とユダヤ教徒に対する大弾圧が行われ、ユダヤ教徒はイェルサレムを追われました。キリスト教徒は【カタコンベ】という地下礼拝場で信仰を守りました。


ローマの人々の感性とキリスト教の拡大

2022年08月05日 | 高2用 授業内容をもう一度

 軍人皇帝時代の特徴は厳しい内戦状態が続いたことにあります。実は、ギリシア・ローマの人々は「抽象的に理解する」ことが苦手でしたから、「愛」とか「美」とかといった抽象的な事柄すべてを「神」という「具体的なもの」に置き換えて理解していたのです。つまりヴィーナスは美の神だし、アフロディーテは愛の神といった感じです。
 一方、キリスト教は「愛」という抽象的な事柄を、「具体的な行為」に置き換えています。この点で、キリスト教はローマの人々に受け入れやすかったといえます。もちろん、社会不安が人々をキリスト教に向かわせた、とも考えられます。
 ローマの神々への不信感が広まっていった中、キリスト教や【ミトラ】教が貧しい人々の間に広まり、やがて貴族にも受け入れられていったのです。とくに、【パウロ】が布教した帝国の東方地域には、彼が広めた土壌があったため、3世紀になると急速にキリスト教は広まりました。


ラティフンディウムからコロナートゥス制

2022年08月05日 | 高2用 授業内容をもう一度

前【2】世紀ころから【ラチフンディウム】という農業が広まっていきました。広まった背景には、重装歩兵部隊を中心とするローマ軍が、外国との戦争に勝ち続けたことがあります。ローマの勝利は、大量の「捕虜」と広大な「征服地(農地)」をローマにもたらしました。戦争捕虜は奴隷として売り払われ、多くの奴隷を使って広い農地を耕す【ラティフンディウム】(奴隷制大土地農業経営)が行われたのです。ローマは前272年にイタリア半島を統一し、さらに前【146】年には地中海周辺の地域を統一しました。
 しかし、ローマが戦争を続けていると、戦争に借り出された市民の生活は苦しくなり、追い討ちを買えけるように、ラティフンディウムで収穫される安価な農作物のせいで、市民が作った農作物は売れなくなり、重装歩兵部隊は弱体化しました。前133年から前27年まで続く「【混乱の1世紀】」という時代です。ローマはこの混乱を私兵を活用することで終わらせました。
 前【27】年から【180】年までの【200】年間を「【パクス=ロマーナ】」といいますが、この時期がラティフンディウムの最盛期でした。奴隷の価格が現在の貨幣価値で言うと500円であった時代です。
 しかし、【193】年ころから軍人皇帝時代が始まると、ローマが内戦状態になったことで、ローマは外国と戦争をして捕虜を獲得することができなくなりました。奴隷の値段は高騰しました。奴隷になると多くは10年ほどで死んでしまうので、奴隷を使ったラティフンディウム経営者にとっては何とかしなくてはいけない時期を迎えたわけです。
 そこで奴隷に家族を持たせて子供を生ませ、その子にも農場を耕させる。そんな方法で労働力を確保したのです。その農民(小作人です)を「【コロヌス】」といいます。コロヌスになった人々は、「解放奴隷」のほかに、戦乱で土地を失った「自作農」、ローマ帝国の中に移住してきた「ゲルマン農民」です。
 【コロヌス】による農業を「【コロナートゥス】制」といいいます。【コロヌス】に逃げられない為に、殻らの移住や転職は厳しく禁止されました。