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アメリカ独立革命の前提として知っておきたいこと

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

アメリカ独立革命は北米大陸に建設されたイギリスの13の植民地が本国議会に反旗を翻して独立を果たしたという事件です。まず前提として知っておきたいことは、13の植民地は全く別々の目的で別々の時期に建設されたということ。そして2点目は、そこに住んでいる人々は、自分たちのことを
「イギリス人」だと思っていることです。
したがって
、彼らは本国と同じように自分たちの議会(植民地議会)をそれぞれの植民地ごとに持ちました。しかし、植民地ごとに全体をまとめるような議会は作りませんでした。この辺が中南米にできたスペインの植民地や北米にできたフランスの植民地との大きな違いです。例えばばスペイン植民地では、ペニンスラールという本国生まれの破棄人が役人などといった支配者として派遣され、現地で生まれた白人derるクリオーリョや混血のムラートを支配下においていました。つまり、クリオーリョたちもスペイン本国の重商主義支配に組み込まれているという自覚があったと思われます。
 一方、13植民地人はそうではありません。彼らはインディアンたちを追い出して手に入れた土地を自分たちの所有地としており、事実上、本国議会からの支配は受けていなかったのです。


アメリカ独立宣言の重要事項とその限界

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度
アメリカ独立宣言の特徴は「幸福の追求」を権利として認めている点にあります。しかし、重要事項としては、以後の様々な宣言に大きな影響を与えている点をあげる必要があります。

1、基本的人権を主張している点。この権利を神から与えられた自明(当然)の権利としています。基本的人権の中に「幸福の追求」をする権利も含めている点が特徴的です。この考え方は以後の様々な憲法に影響を与えました。

2、統治する権力は統治される人々の同意に基づいて行使される必要がある、として点。この考え方は「人民主権」の考え方を示しています。「人民主権」の思想は民主主義の大原則ですが、合衆国憲法にも採用されています。まさに近代民主政治の基本理念を宣言したと言えます。

3、抵抗権(革命権)を認めている点。もし政府(統治する権力)が人々の同意を無視して政治を行った場合、その政府を倒して(革命)新しい政府を作ることを認めています。此の考え方は、名誉革命を正当化したJロックの思想を受け継いだものです。

4、ただし、この独立宣言には「奴隷制度」を否定する考え方や、先住民の生活権を無視している点は問題として残ります。また男女同権の考え方も見ることはできません。この点がアメリカ独立革命の限界と言えます。

アメリカ独立革命の大陸会議

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

第1回大陸会議は【1774】年に【フィラデルフィア】で開催されました。革命以前は植民地ごと別々に植民地議会を持っているに過ぎなかったため、【1773】年の【ボストン茶会事件】から始まったボストン(マサチュセッツ植民地)と本国議会との関係悪化に対して、13植民地人がどのような態度を取るべきかを相談する場として、1774年に第1回大陸会議が必要になったわけです。【ボストン港を閉鎖】するという本国議会の強硬な姿勢に対して、大陸会議は本国との通商関係を断ち切ろうと決定しました。つまり、本国の商人とはとは商取引をしないよ、ということです。これを【通商断絶同盟】を結成したといいます。
 【1775】年マサチュセッツ民兵隊がボストン市の【レキシントン】という町で本国からきていた部隊と小競り合いになり、さらに【コンコート】でも軍事衝突が起きてしまいました。このため、13植民地人は第2回大陸会議を開催。このマサチュセッツで起きた軍事衝突をどうするかについて議論され、最終的に【ワシントン】を総司令官とする【大陸軍】の創設が決定しました。つまり、独立戦争を行うということが決まったわけです。
 この大陸会議は独立戦争中のアメリカ側の臨時政府の役割を担っていたといえます。


フランス革命の始まり

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

18世紀のヨーロッパではフランス絶対王政が,【ルイ14世】期以来の膨大な戦費負担などによって財政的危機を迎えていた。ルイ16世は財政の立て直しをはかるため銀行家の【ネッケル】を登用し,【免税特権】をもつ聖職者(第1身分)や貴族(第2身分)にも課税しようとした。
しかし、これに反対する貴族は,王権を制限するため【1615】年以来【175】年間も開かれていなかった【全国三部会】の開催を要求した。全国三部会は1789年5月に招集されたが,【議決方法】をめぐって特権身分とブルジョアジーを中心とする第三身分とが対立し,第三身分の議員たちは、第1身分の【シェエス】を中心に自分たちこそが国民を代表すると宣言し,【国民議会】を結成して憲法制定までは解散しないことを誓った。これに貴族の一部などが合流したため国王も認めざるをえず,国民議会は憲法制定議会と改称した。
しかし,国王は保守的な貴族と結んで,武力で議会を弾圧しようとした。これに対して手工業者や商工業者は激しく抵抗し,物価上昇に苦しんでいたパリの民衆も圧政の象徴であったパリの【バスティーユ監獄】を襲撃した。この動きはパリ以外の都市にも波及し,農村では農民が領主の館を襲う「大恐怖」が発生した。これをおさえるため議会では【領主裁判権】や教会への【10分の1税】などの「封建的特権の廃止」が8月4日に決議され,さらに【ラ=ファイエット】らの起草した「【人権宣言】」が採択された。そこでは【ルソー】などの思想を基本理念として,【財産権】や自由権を中心とする権利が,圧政にも対抗できる不可侵の権利として認められ,それを保障するのが政府の目的であると明示された。


バスチーユ牢獄襲撃事件

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

1789年7/14にバスチーユ牢獄襲撃事件が起こりました。フランス革命の幕あけです。この暴動はパリの大銀行家が裏で動き、パリ市民すなわちサンキュロットたちが絶対王政の象徴と考えられていたバスチーユ牢獄を襲撃した事件でした。この直前、国王ルイ16世が改革派財務長官ネッケルを罷免したことで、パリの大銀行家たちは危機感を募らせ、ネッケルを復職させるために起こした事件です。


 ネッケルはスイス出身の銀行家で、重農主義の経済政策を採用することを目指しました。それは、フランスの財政再建を宮廷貴族などに負担を強いることで実行しようとする政策です。すなわち貴族年金の廃止、貴族が持っていた免税特権の廃止などです。とうぜん宮廷貴族は猛反発しましたが、宮廷貴族の再建策は、大銀行家などの商人層に強制的に赤字国債を購入させるというもので、強制借款制度を実行するものでした。財政破綻直前のフランス政府が発行する赤字国債を買っても、利息を付けて返してもらえるはずはありません。大銀行家たちはネッケル罷免であわてたのも無理はなかったわけです。


 バスチーユ牢獄襲撃事件で(憲法制定のための)国民議会を国王が承認しましたが、これにより事実上絶対王政は終焉したといえるでしょう。この革命的事件の勝者はパリの銀行家に代表される大ブルジョワジーで、敗者は財政再建の負担を担うことになる宮廷貴族であるといえます。


アンシャン・レジーム

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

この絵は「アンシャン・レジーム」というフランス革命前の身分制度を説明するときのよく使われています。第3身分の人々が税負担を負っていて、第1・第2身分は特権に甘んじているという説明でしょう。しかし、この絵を良く見ると、下敷きにされている第3身分も「キュロット・パンツ」を穿いていることが分かります。当時、キュロット・パンツを穿くのは特権階級の人々だけでした。下の絵がその姿です。
一方まさに第3身分の平民たちは、「キュロット・パンツをはかない」という意味で「サン・キュロット」と呼ばれていました下の絵がサン・キュロットたちです。この絵は志願兵として登録を待っているサン・キュロットの様子を描いたもので、フランス革命はこのサン・キュロットたちの力で進められました。

つまり、最初の絵は、絶対王政の時代、特権階級の中で第3身分の特権階級であるいわゆる大商人が重商主義の担い手として特許料を負担し、第1身分の聖職者や第2身分の貴族階級は大土地所有者として免税特権をもって税負担を免れていたことを意味しているわけです。
すなわち、フランス革命の開始は重商主義が行き詰ったとき、ブルボン王朝はこれまで免税特権をもって税負担を免れていた第1・第2身分にも税負担を負わせるべきか?否か?の論争から始まったわけです。

大土地所有者である第1・第2身分にも税負担を負わせるべきであるという考え方を「重農主義」といいます。


革命と臨時政府の関係

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

革命が成功すると、古い政府が倒されます。古い政府に参加していた人は処刑されたり、難を逃れることができれば亡命や田舎に逃れる。一方、ちゃんとした政府ができるまでの間、革命を闘った人々の中からリーダー的な人々が臨時政府を樹立します。この臨時政府の仕事(役割)は、憲法を制定することと、政治的な空白を埋めて国内の安全を守ったりする政府としての機能を維持することです。
 臨時政府は憲法を制定すると解散し、憲法にのっとって総選挙が実施されます。総選挙の結果、正式な議会が誕生し、そこから正式な新政府がスタートするわけです。


フランス革命が打ち立てた人権

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

アメリカとフランスを先駆として登場した人権保障の制度は,身分による独占に対抗するための自由権中心の制度であり,人々の平等という価値観も形式的な平等の保障にとどまり,豊かさや教育を受ける権利などといった社会的・経済的不平等を積極的に是正しようというものではなかった。
参政権についても,納税額によって選挙権に制限を加える制限選挙制度をとり,所有する財産の額に関わらず投票権を持つ現在のような男子普通選挙ではなかった。もちろん女性には選挙権が認められなかった。
その後のさまざまな政治的・社会的運動はこうした制約を乗りこえ,人権保障を拡大し補強する方向をたどることになる。そして今日,人権は,その欧米中心主義的な性格が疑問視されながらも,あらゆる国内政治や国際政治の中でいっそう重要な位置を占めつつある。


統領政府

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

政治権力を分散した【総裁政府】は、サンキュロットの反乱や王党派からの攻撃に見舞われ、政治的混乱は拡大していった。この社会不安や混乱を収拾する強い指導力が望まれるなかで登場した【ナポレオン=ボナパルト】は,【1799】年11月の【ブリュメール18日のクーデタ】を通じて【統領政府】を樹立し,自らが第1統領に就任することで、独裁的権力を掌握した。彼を支えていた勢力は主に武器商人に代表されるブルジョワジーである。
まずナポレオンは国内政治の案手に勤め、1800年に中央銀行にあたる【フランス銀行を】創設、さらに1804年には革命の成果の集大成である「【ナポレオン法典】」を制定した。一方、イギリス政界で【小ピット】が総選挙で敗北したため、彼に代わってアディントンが首相に就任していたことを利用し、【1802】年【アミアンの和約】を結び、【第2回対仏大同盟】に対しては外交交渉で解決した。


人権の歴史 2008年慶應(文)から

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

 21世紀は人権の時代だといわれる。冷戦の終結とともに東西の対立は重要性を失い,それに代わって経済・情報のグローバル化や地球環境の問題とともに,人権が世界の主要な関心事となっている。人権問題に対する関心の高まりは,国境を越えた広がりを見せる反面,内政干渉を嫌う主権国家の抵抗や,著しい南北格差に反感を抱く途上国の反発を生んでいる。このような抵抗や反発を克服せずに,人権は世界の普遍的価値にはなりえないだろう。


 もともと人権の思想はヨーロッパに生まれたといわれている。文書によって「国民」の権利を保障する制度の確立を人権保障のはじまりとすれば,それはジョン王治世のマグナ=カルタに遡ることができる。ジョン王は,フランス国王フィリップ2世との戦いで大陸領地の大半を失い,教皇インノケンンティウス3世と争って破門された。さらに財政難から,これまで諸憲章や慣習法によって封臣に認められてきた「古来の権利と自由」を無視し,重税を課したため,これに不満をもつ貴族らが結束して国王に反抗しマグナ=カルタを認めさせた。それによって貴族らは「古来の権利と自由」を回復するとともに,新たな課税には高位聖職者や大貴族の会議による承認を必要とすることなどを認めさせ,将来にわたる法の支配を保障させた。もちろんマグナ=カルタによる権利の保障が,国王によってつねに遵守されたわけではない。しかし,重大な権利の侵害がおこなわれる度に,マグナ=カルタの原則が再確認され,さらに新たな権利や自由が加えられていった。ただし,マグナ=カルタは「古来の権利と自由」の制度的保障を国王と封臣との間で文書により確認したものではあっても,「人間が生まれながらにしてもつ権利」や「立法権に対抗できる権利」のような近代的人権の性格をもつものではなかった。近代的人権が誕生するためには,ロックやルソーなどによって展開された自然権思想の助けが必要であった。


 ジョン・ロックは,イギリスの政治思想家ホッブズの社会契約説を批判的に継承し,政治社会の成立を自然状態から説きおこした。ロックによれば,自然状態において人間はすべて独立・平等で,生命・自由・財産にかんする一定の権利を賦与され,労働や貨幣を通してさらなる財産の形成をするという。そこでは人々の間の紛争を解決する機関も権力も欠けているから,人々は人権を内外の侵略者から守るために,各人が自然状態で保有していた権利の一部を政治社会に譲渡して共通の政治権力を形成することになる。しかしながらこの政治権力はもっぱら生命・自由・財産にかんする権利を擁護するためのものであるから,政府が信託目的に反してこれを侵害する場合には抵抗権が認められ,新たな政府を創ることができるという。このようにロックは,生命・自由・財産という立法権によっても侵されない権利を論じ,政治権力を契約によって成立するものとして位置づけた。


 これに対してルソーは,政治社会と権力の成立を同じく社会契約によって説明するものの,その契約は各人が天賦の人権の一部を譲渡するのではなく,生命・自由・財産にかんする権利をふくむすべての人権を来るべき政治社会に委譲すべきものと考える。そうしてはじめて,人々の意思は単一の国家意思となることができるという。もし人々が人権の一部を,とりわけ財産権を個人に残しておくとすれば,自然状態末期の不平等を来るべき政治社会に持ち込むことになり,平等な社会を築くことはできない。社会契約によって成立する国家の意思は人々の全体の意思であり,その権力は人々の権力である。それは分割されえず,また代表されえない。それは全市民の参加により,全市民の利益のために行使されなければならない,とルソーはいうのである。


 このような思想を背景として近代的な人権保障の制度がアメリカとフランスで生まれた。七年戦争後イギリスは財政危機に対処するため植民地支配を強化した。印紙法による大規模な課税政策が打ち出されると,植民地人は「代表なくして課税なし」の主張のもとに強く反発し,さらに東インド会社にアメリカにおける茶貿易独占権が与えられると,東インド会社の船荷を投棄するボストン・ティー・パーティー事件をひき起こした。これに対してイギリス本国が懲罰的行動に出たため,1774年,植民地側はフィラデルフィアで大陸会議を開き,抵抗する姿勢を強めた。翌75年にレキシントンとコンコードで武力衝突が起こると,ワシントンを総司令官に任命し戦闘態勢を整えた。そして植民地13州の代表はロック的な自然権思想に基づいて,1776年7月4日大陸会議においてジェファーソンの起草した「独立宣言」を採択した。この宣言は,人間が神から一定の不可譲の権利を与えられ,その擁護のために被治者の同意を得て政府がつくられたことを明らかにし,立法権によっても侵されない人権とともに,人権を侵す政府に対してはそれを転覆する権利を人民に認める点で,画期的であった。ただし,各州の憲法や,のちのアメリカ合衆国憲法の基本となるこの「独立宣言」の人権保障は,あくまでヨーロッパ系移住者の権利であって,先住民や黒人奴隷はそこから除外されていた。


 他方,同時期のヨーロッパではフランス絶対王政が,ルイ14世期以来の膨大な戦費負担などによって財政的危機を迎えていた。ルイ16世は財政の立て直しをはかるため銀行家のネッケルを登用し,免税特権をもつ聖職者や貴族にも課税しようとした。これに反対する貴族は,王権を制限するため1615年以来開かれていなかった全国三部会の開催を要求した。全国三部会は1789年5月に招集されたが,議決方法をめぐって特権身分とブルジョアジーを中心とする第三身分とが対立し,第三身分の議員たちは自分たちこそが国民を代表すると宣言し,国民議会を結成して憲法制定までは解散しないことを誓った。これに貴族の一部などが合流したため国王も認めざるをえず,国民議会は憲法制定議会と改称した。しかし,国王は保守的な貴族と結んで,武力で議会を弾圧しようとした。これに対して手工業者や商工業者は激しく抵抗し,物価上昇に苦しんでいたパリの民衆も圧政の象徴であったパリのバスティーユ監獄を襲撃した。この動きはパリ以外の都市にも波及し,農村では農民が領主の館を襲った。これをおさえるため議会では領主裁判権や教会への10分の1税などの封建的特権の廃止が決議され,ラ=ファイエットらの起草した「人権宣言」が採択された。そこではルソーなどの思想を基本理念として,財産権や自由権を中心とする権利が,圧政にも対抗できる不可侵の権利として認められ,それを保障するのが政府の目的であると明示された。こうして革命とともに登場した人権保障の体制は,国民を主権者とすることで特権と身分制を否定し,国民を法の下に平等とし,国民と政府の新しい関係を生み出したのである。


 しかしながら,アメリカとフランスを先駆として登場した人権保障の制度は,自由権中心の制度であり,平等も形式的平等の保障にとどまり,社会的・経済的不平等を積極的に是正しようというものではなかった。参政権についても,制限選挙制度をとり,女性には選挙権が認められなかった。その後のさまざまな政治的・社会的運動はこうした制約を乗りこえ,人権保障を拡大し補強する方向をたどることになる。そして今日,人権は,その欧米中心主義的な性格が疑問視されながらも,あらゆる国内政治や国際政治の中でいっそう重要な位置を占めつつある。


 21世紀は人権の時代だといわれる。冷戦の終結とともに東西の対立は重要性を失い,それに代わって経済・情報のグローバル化や地球環境の問題とともに,人権が世界の主要な関心事となっている。人権問題に対する関心の高まりは,国境を越えた広がりを見せる反面,内政干渉を嫌う主権国家の抵抗や,著しい南北格差に反感を抱く途上国の反発を生んでいる。このような抵抗や反発を克服せずに,人権は世界の普遍的価値にはなりえないだろう。


 


 


5月30日の革命

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

 1792年に発足した国民公会では、立法議会時代から議員をやっていたジロンド派議員が国民公会発足時期の議会を運営していました。普通選挙によって田舎から出てきた新人議員たちは、ジロンド派議員を見てびっくりしたようです。というのも、ジロンド議員のなかにはかなり贅沢な生活をしており、新人議員から見ると不正が横行しているように感じたわけです。普通選挙ですから新人議員の多くは貧しい人々、つまり農民やサンキュロットの代表だと自負していたでしょう。そのような中、新人議員たちはジャコバン=クラブに出入りし、ロベスピエールやダントンなどから強い影響を受けていきました。国民公会ではロベスピエールもダントンも議員になっています。彼らは新人議員たちと階段状になっていた議場の上段に陣取って、ジロンド派議員を激しく攻撃していました。そのような彼らを、議場の高いところにいたので「山岳派」すなわち「モンターニュ派」と呼ばれました。


 ジロンド派に分類される議員はおよそ150人、モンターニュ派は150人、どちらにも分類されない議員(平原派といいます)は300人くらいでした。国民公会の政治課題は、ルイ=カペ(元国王ルイ16世)をどのように処遇すべきか?という点です。議会は1793年1月にルイ=カペを処刑しました。このことが革命政府を新しい危機に追い込むことになったわけです。周辺各国はフランスを「国王殺しの国」と断定し、イギリス首相小ピットが提唱した「第1回対仏大同盟」を結成しました。「92年の危機」が墺普2カ国との戦争だったのに対し、「第1回対仏大同盟」はイギリスを加えた全ヨーロッパが敵です。さらに戦争が始まると物価は急上昇。ジロンド派国民公会は、この戦争を戦い抜くために「徴兵制度」を実施しました。しかし、農民の多くは徴兵に反発しました。とくにヴァンデ県の蜂起やフクロウ党の乱などがおこり、反徴兵制運動も危機をさらに悪化させました。つまり、全ヨーロッパとの戦争と激しいインフレに加え、反徴兵制暴動を「93年の危機」といいます。


 「93年の危機」をのりこえるためにモンターニュ派議員は「革命独裁」の必要を訴えました。独裁を行うことで危機を乗り越えようというわけです。平原派議員もこれを容認せざる得ないと考えていきました。これを受けてモンターニュ派のダントンはパリのサンキュロットを率いて議場に乱入し、ジロンド派議員を逮捕・追放した事件を「5月30日の革命」といいます。もっとも、ジロンド派議員の多くは事前に情報を察知し、パリを脱出していたので大した混乱もなく、モンターニュ派が政権を奪い取ることに成功しました。


 「5月30日の革命」は「93年の危機」を乗り越えるために、モンターニュ派が「革命独裁」を実施するために起こした事件です。国民公会からはジロンド派議員はいなくなり、モンターニュ派議員と革命独裁を我慢しつつ受け入れた平原派議員が議場に残りました。モンターニュ派の指導者エベールやダントンやロベスピエールなどが政治を牛耳る「革命独裁」の1年間を政治に反対したり、逆らった多くの人々がギロチン台に送られたために「恐怖政治」と呼びます。「恐怖政治」によっておよそ60万人が処刑されたとも言われています。「おお自由!汝の名のもとにいかに多くの罪が行われたことか!」という言葉は、この時期にギロチン台で死んだロラン夫人の言葉です。人々は「自由」をまもるために「殺人」を犯し続けた。そんな時代が「恐怖政治」の時代といえます。


フランス革命の概観

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

 18世紀後半のフランスには,中世以来の少数の特権的な第一身分の【聖職者】,第二身分の【貴族】が,全人口の9割以上を占める第三身分の平民を支配する身分制が残っていた。のちに【アンシャンレジーム】(旧体制)と呼はれるようになったこの体制は,産業の発展にとって足枷(あしかせ)と意識されるようになった。また『第三身分とは何か』で高名な【シェエス】などの知識人による体制批判も活発となっていた。
 たびかさなる戦争と宮廷の浪費によって,国家財政が危機にひんしたので,国王【ルイ16世】は重農主義者の【テュルゴー】や銀行家【ネッケル】を登用して財政の改革をはかったが,特権身分の抵抗にあって挫折し,そこで,三部会を招集して危機の打開を目指した。
 三部会は1789年5月に開催されたが,投票方法をめぐって対立が激化し,第三身分の議員を中心にして国民議会が形成され,憲法の制定まで徹底抗戦することが誓われた。しかし,彼らが憲法制定を求めて貴族や国王と対立をつづけているなかで,1789年7月14日,パリの民衆が,ついに不満を爆発させ,専制政治の象徴とみられていた【バスチーユ牢獄】を襲撃し,さらに,全国各地で農民反乱が始まった。こうした民衆の圧力のもとで,国民議会は,封建制の廃止を宣言するにいたり,同年8月26日,「人間と市民の権利に関する宣言」という,いわゆる【人権宣言】を発表した。
 1789年の10月にはパンを求めて女性たちが【ヴェルサイユ】まで大行進をおこない,国王はパリに連れ戻され,国民議会もパリに移った。改革は進行し,1791年9月には一院制の立憲君主政が生まれたが,しかし国王は【ヴァレンヌ逃亡事件】などで国民の信頼を決定的に喪失していた。これは国王が王妃マリ=アントワネットの実家のあるオーストリアに逃亡を試み,失敗した事件である。
 1792年になると王政の廃止を主張する【ジロンド派】が立憲君主主義者をおさえて主導権を握り,オーストリアと開戦した。戦局が不利になり,オーストリア・プロイセン連合軍がパリに迫ると,全国各地からの義勇兵がパリに集結して革命を防衛した。現在のフランス国歌はこのとき【マルセイユ】からきた義勇軍に歌われていた軍歌に由来する。パリの民衆と義勇軍は同年8月に国王を逮捕し,王政の廃止,共和政の樹立が宣言された(第一共和政)。政治の舞台では,【ジロンド派】に代わって急進派のジャコバン派が台頭し,1793年1月に国王は処刑された,こうした革命の進行に衝撃をうけて,イギリスの首相【小ピット】は第1回対仏大同盟を結成して,革命フランスへの包囲網を強化した。こうしたなか,【ロベスピエール】をリーダーとするジャコバン急進派は独裁体制をひき,公安委員会と保安委員会を使って恐怖政治を展開した。しかしこの独裁も長くは続かず,1794年に【ロベスピエール】は処刑されることになる。これを「【テルミドール】の反動」という。


フランス革命 ナポレオン時代 

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

 イタリア遠征軍の司令官として【オーストリア軍】に圧勝し,【第1回対仏大同盟】を崩壊させたナポレオンは,【1798】年,イギリスとインドの連絡を断つため,【エジプト】に遠征して,一挙にその名声を高めた。翌年,イギリスがロシア・オーストリアと第2回対仏大同盟を結成して,フランス国境にせまると,帰国したナポレオンは,【総裁政府】を打倒し,自らを第一統領とする【統領政府】を樹立した。
 独裁体制を確立したナポレオンは,1801年,革命以来フランスと対立関係にあったローマ教皇とも【宗教協約】を結んで和解した。さらに,【1802】年にはイギリスとアミアンの和約を結んで,第2回対仏大同盟を崩壊させて終身の統領となった。【1804】年には民法典(ナポレオン法典)を制定して,フランス革命の成果を定着させ,同年,【国民投票】により,帝位についた。これに対抗して,【第3回対仏大同盟】が結成され,【ネルソン】指揮下のイギリス海軍が【トラファルガーの海戦】でフランス軍を破った。しかし,ナポレオンは,大陸では【アウステルリッツの戦い】でオーストリア・ロシア連合軍を破り,第3回対仏大同盟を崩壊させた。【1806】年には,【ライン同盟】を組織してこれを保護下に置き,【神聖ローマ帝国】を消滅させた。さらに,プロイセンとロシアの連合軍を破って,プロイセンの領土の大半を奪い,ポーランドも実質的に支配下に置いた。オランダ・スペインなどには,それぞれ兄弟を元首として配置し,ロシア以外のほぼヨーロッパ大陸全域に及ぶナポレオン帝国を樹立した。
 他方で,大陸諸国にイギリスとの通商を禁じたナポレオンによる【1806】年の【大陸封鎖令】は,イギリスよりむしろ大陸諸国に打撃となり,各国に反フランス感情が高まった。ロシアが大陸封鎖令を無視して,イギリスとの交易を再開したため,【1812】年,ナポレオンはモスクワ遠征を試みたが,冬季のきびしい気侯などのために敗走した。これをきっかけに,各国はいっせいに反ナポレオン闘争に立ちあがり,1813年に【ライプチヒ】でナポレオンを破って,翌年にはパリを占領した。ナポレオンは退位し,いったん【】エルバ島に流されたが脱出し,帝位に復帰した。しかし,【ワーテルローの戦い】で再び敗れ,【セントヘレナ島】に流されて,その帝国は完全に崩壊した。ナポレオンが没落した後のヨーロッパの国際秩序を決めるために【ウィーン】で国際会議が開かれ,保守反動的なウィーン体制が確立した。
 これに対し,フランス革命とナポレオン支配のもとで目覚めた【自由主義】・【国民主義】の精神は,諸国民の間に抵抗運動を引き起こした。この後,【1848】年までのヨーロッパの歴史はウィーン体制を守ろうとする保守主義と自由主義・国民主義との戦いの歴史であった。


8月10日の革命

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

 1791年の6月事件(ヴァレンヌ逃亡事件)で国王ルイ16世一家がパリのチュイルリー宮殿に連れ戻され、国王に対する市民の信頼は急落したわけです。宮殿にはフランスの軍事機密をオーストリアに漏らした証拠が多数発見されたのも、ルイ16世一家を窮地に追い込んでいました。そこで、妹家族の危機を救うために同年8月、兄の墺皇帝レオポルド2世が普王とともに「ピルニッツ宣言」をだし、革命政府に対して圧力をかけました。


 間もなく1791年憲法が制定され、立法議会が発足しました。立法議会を取り巻く政治課題は、「ピルニッツ宣言」にいかに対応するかです。つまり戦争をするのかしないのか?この時点では国王ルイ16世は組閣権を持っています。誰に政治を担当させるかは国王が決められるわけです。ルイ16世は国境に常備軍を配備してますが、自分を助けに来る軍隊、つまりオーストリア軍やプロイセン軍は自分の味方です。戦争になって早く国境を突破してパリに来てほしいわけです。一方、フィイヤン派のラファイエットは戦争になったら勝てっこないと思っています。だから戦争反対です。戦争になって負けてしまえば、革命の成果はなくなり、もしかしたら自分たちは処刑されるでしょう。彼らが考える革命の成果とは、立憲君主制を守ること、つまり91年憲法死守です。次にジロンド派は戦争賛成でした。彼らはもう少し混乱が続いて共和制まで行きたいと考えている人々です。戦争になったら何か起こるぞ!といった感じでしょう。科フィイヤン派と違ってジロンド派の支持者は政治経験もなく、軍事情報も持っていません。敵がどれだけすごいかも知らないのでそんなことを考えたのでしょう。


 ルイ16世は最終的に回線を主張するジロンド派に政権を担当させました。墺普との戦争が始まると、インフラになり、さらにカリブ海のハイチでは独立運動が始まりました。戦争・インフレ・ハイチといった危機的状況を「92年の危機」と呼びます。戦争はまさに危機的で、墺普軍は国境を越えてパリに迫ります。あわてたラファイエットはルイ16世に妥協を申し出て、国王大権を認める代わりに命乞いをしました。


 この状況でジロンド派議員は議会で「祖国は危機にあり」の宣言を出し、国民に革命を守るための義勇軍を呼びかけました。これを受けて、パリをめざし各地から続々と人々が集まってきました。とくに有名なのはマルセイユ義勇軍とブレスト義勇軍でしょう。


 ジャコバン・クラブのメンバーはこの時を待っていたのかもしれません。パリのサンキュロットと田舎から出てきた義勇兵を率いて、ルイ16世が住むチュイルリー宮殿を攻撃し、ルイ16世一家を逮捕したのです。「8月10日の革命」はこうして起こりました。この時、フィイヤン派議員は早々にパリから逃げ出し、ジロンド派議員は立法議会の議場でただ見ていただけでした。


 「8月10日の革命」でルイ16世が逮捕されたので、ジロンド派だけが残っていた立法議会は、ルイ16世の王権を停止し、普通選挙の実施に踏み借りました。その結果、1792年9月に国民公会がスタートしました。王権は停止していますから、国民公会は国王がいない政体である「共和制」といえます。


ウィーン体制とは

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

 フランス革命は自由主義と国民主権こそが正しい社会のあり方だと考えたといえます。自由主義というのはそれまで生まれや身分によってその人ができることに制限があったのに対して、努力をすれば様々な可能性が広がっているのだ、という考え方といってよいでしょう。また、国民主権は国王が決定権を持っていた絶対王政に代わって、フランスに住む抱いた済む9割以上の人々が、自分の意思を政治に反映したほうが、優れ結果を出しやすいと考える考え方です。
 フランス革命で正しいと考えられた国民主権は、ドイツにある国王や諸侯にとっては危険な思想でしたが、その一方で、ドイツではもう一歩手前から考える必要がありました。そもそもドイツ語を話し、同じ歴史を共有し、文化面でも同じ詩を読んできた人々にとって、「国民」とは誰なのか?という問題です。ザクセン公国に住む人々はザクセン人なのか?ドイツ人なのか?プロイセン王国に住む人々はプロイセン人なのか?ドイツ人なのか?フランス人と戦ったかれらは、自分たちをドイツ人を認識したのです。
 ドイツ人と考える人々にとって、領邦に分裂したドイツは統一する必要があります。すなわち国民主権実現の前に、ドイツ統一を目指すわけです。このような動きを「国民主義」といいます。フランス革命の国民主権の考え方は、そもそも「国民」が存在しないヨーロッパ各国では、国民主義という形で現れることになりました。
 しかし、支配階級にとって国民主義は、それまであった国家の枠組みを壊すことになります。ザクセン公国はドイツ国民主義の前には消えてなくなり、「ドイツ」という国が成立すると、「ドイツ」の一地方に過ぎなくなります。その場合、ザクセン王国の支配所階級は、それまでの特権を失ってしまいます。したがって、各君主国の支配階級は協力して「国民主義」を打倒しなければいけません。そのために成立した君主国の協力関係を「ウィーン体制」というわけです。「国民主義」を目指す人々の動きを軍事力で弾圧する仕掛けが「4国同盟」でした。