2024年5月19日(日)午後、武蔵野文化協会主催の「国史跡西東京市下野谷遺跡を探る」で同遺跡を見学しました。本遺跡は、東京都西東京市東伏見2丁目・3丁目・6丁目内に広がる、縄文時代中期(約4~5千年前)の南関東最大級の環状集落の遺跡です。北に石神井川が約7m下に流れる標高51~59mの台地上に位置します。石神井川北側は本来湿地であり葦が茂り、縄文時代には涌水も豊富で水量も多く沼地もあった可能性があります。本遺跡は小谷を挟み東集落(東西約300m×南北約180m)と西集落(直径約150m)に分かれ、集落内には土坑(墓)群のある広場を中心に竪穴式住居・掘立柱建物が囲むように並んでいます。発掘調査により住居跡は400軒以上、建物跡は20基以上、土坑は千基以上管区にされ、これらは約千年に渡っていたといえます。
写真1は、西武線東伏見駅南口広場に設置してある「縄文モニュメント」です。舌のハンドルを20回回転させると本遺跡の音声説明がされます。
写真2は、本遺跡の西側環状集落跡に整備設置された下野谷遺跡公園(東京都西東京市東伏見6丁目4)の入口(南側)の立つ「国史跡下野谷遺跡」石碑です。奥に見える建物は復元された竪穴式住居です。
写真3は、土坑群跡に土を盛り示したものです。
写真4は、正面から見た復元した竪穴式住居(1号住居)で、縄文時代中期中葉のもので、直径5.5mの円形深さ1m弱の穴で5本柱からなり、屋根は茅葺ではなく珍しい樹皮の上に土をかけて固めている土葺です。当然ながら見るように草が生えています。
写真5は、同じ住居を西側斜めから見たものです、
写真6は、住居の中に入り、円形の壁に沿ってテラス状になった部分です。ここに敷物を置き寝所ともしたのでしょう。
写真7は、屋根とこれを支える横木の骨組みです。下が入口で、上が三角の開口部でここから煙が出ます。木々はふじツル等で締められています。
写真8は、上から屋根、細木の骨組み、横木、柱です。柱はご覧農に横木を挟むため先端が自然に二股になったものを用いています。
写真9は、埋甕炉(土器で埋めて炉にしたもの)です。
写真10は、1号住宅の奥にある復元した竪穴式住居(2号住居)で、縄文時代中期後葉のもので、6本柱からなります。
写真11は、同じ住居を右斜めから見たものです。
写真12は、天井と下にこれを支える横木と柱です。
写真13は、柱で自然木を用いていますから、ご覧のように曲がっています。
写真14は、地焼炉(地を単に掘ったもの)です。
写真15は、住居廃絶状態の復元土器溜り(縄文時代中期中葉)です。
写真16は、拡大したものです。
公園での遺跡見学後、西東京市郷土資料室(西東京市西原4-5-6)に移動し、遺跡の埋蔵品を見学しました。写真17は、土器展示で、一番右のはご覧のように歪みがあり、「下手くそな」土器と称せられています。この左のは、口縁部は曽利式土器の特徴、胴部の文様は連弧文系土器の特徴と、異なる複数の特徴が混ざる土器、即ち折衷土器です。
最後の写真18は、石器です。
(2024.05.22)
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