歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

「奥州合戦」における鎌倉幕府軍の構成(その4)―歴史雑感〔9〕―

2014年03月25日 00時14分14秒 | 日本史(古代・中世)

(その1)一、東山道軍の交名一覧

(その2)二、交名の国別構成

(その3)三、交名の門葉構成

(その4)四、交名の武士御家人構成

 

四、交名の武士御家人構成

門葉に次いで、武士御家人の配列構成の分析です。武士御家人では21の三浦義澄がトップです。34の南部光行・35の平賀朝信の門葉を別として、以後、一部に文士御家人を夾みますが、武士御家人となります。義澄に次いで三浦義村・佐原義連・和田義盛・和田宗実・岡崎義実・岡崎惟平・土屋義清と、28までの8人が相模国三浦一族関係です。29の小山朝政から、長沼宗政・結城朝光・下河辺行平・吉見頼綱(武蔵国吉見郡が名字の地といえる吉見頼綱は『結城系図』〔続群書類従第六輯下系譜部所収〕に小山政光養子として見えます。よって、『吾妻鏡』文治五年七月二十五日条に小山政光「猶子頼綱」と見えるのは吉見頼綱のことです。以上、吉見頼綱は小山氏族関係です)と、33までの5人が下野国小山一族関係です。次の36の小山田重成・37の榛谷重朝、と武蔵国畠山一族関係(兄弟)です。38の藤九郎盛長、39の足立遠元は後で述べます。40の土肥実平・41の土肥遠平と、相模国土肥一族関係(父子)です。42の梶原景時から、梶原景季・梶原景・梶原景茂・梶原朝景・梶原定景と、47までの6人が相模国梶原一族関係です。48の波多野義景・49の波多野実方と、相模国波多野一族関係です。以上、武相両国の有力御家人が配列されています。このように、ここまでの配列記載は鎌倉幕府を代表する有力御家人一族が連続して纏まって記載されています。

50以下でも、52の中山重政・53の同為重の武蔵国中山氏、58の豊島清光・59の葛西清重・60の同十郎の武蔵国豊島一族、61の江戸重長・62の同親重・63の同重通・64の同重宗の武蔵国江戸氏父子、75の佐貫広綱・76の同五郎・77の同広義の上野国佐貫氏、79の工藤景光・80の同行光・81の同助光の伊豆国工藤氏父子、83の伊佐為重・84の同資綱の常陸国伊佐氏、85の加藤光員・86の同景廉の伊勢国加藤氏兄弟、87の佐々木盛綱・88の同義清の近江国佐々木氏兄弟、93の天野保高・94の同則景の伊豆国天野氏、95の伊東三郎・96の同成親の伊豆国伊東氏、98の新田忠常・99の同忠時の伊豆国新田氏兄弟、101の堀藤太・102の同親家の伊豆国堀氏、107の中野助光・108の同能成の信濃国中野氏、138の河匂政成・139の同政頼の武蔵国河匂氏、と一族が纏められて配列記載されています。一族が分離されて配列記載されているのは、下野国の50の阿曽沼広綱・78の佐野基綱の兄弟と、伊豆国の91の宇佐美祐茂・97の工藤祐経の兄弟のみです。以上、中小御家人でも一族単位の配列が基本となっているのです。当時の軍事編成が一族単位でなされていたことを考えれば、一族関係が纏まって行列し、これが配列記載となったのは当然です。

以上考えてくると、38の盛長の前は畠山一族の重成・重朝兄弟、39の遠元の次は土肥実平・遠平親子となっており、両人とは異なる氏族によって夾まれています。従って、武相両国の有力御家人と吾して盛長と遠元のみが別氏族でそれぞれ単独で行列したと理解するより、盛長と遠元が同族であるから連続して記載されていると理解する方が自然です。以上から、一部例外もありますが、武士御家人の配列は一族単位でなされていたことになります。

武士御家人の配列記載順を見ると、第1位が三浦氏族関係、第2位が小山氏族関係です。第3位が畠山氏族です。奥州合戦の勝利を引っ提げて頼朝が上洛し、鎌倉幕府成立上の一劃期となった建久第一次上洛の翌年、すなわち1191年(建久二)年の『吾妻鏡』に初見し、これ以後恒例となる正月垸飯において、1日千葉常胤、2日三浦義澄、3日小山朝政、4日畠山重忠(推定)、5日宇都宮朝綱との沙汰人序列(佐久間広子氏「『吾妻鏡』建久二年正月垸飯について」『政治経済史学』446号2003年10月参照)と比較すると、ベストワンの千葉常胤が東海道大将軍として当然ながら交名に姿を見せていないことから別として、その順は一致しており、本交名の配列構成が武士御家人の実力と幕府における位置を如実に反映しているといえましょう。

次ぎに、足立氏族、土肥氏族、梶原氏族、波多野氏族と、49までは一族単位で配列されており、これらの氏族は上記の3氏族に続く有力武士御家人であることを示しています。そして、これらの氏族がすべて武相両国御家人であることは、頼朝が直卒する鎌倉幕府軍の中核が武相両国であることも示しています。

51の小野寺通綱の上野国御家人を始めに、51以下となると、単独参加の氏族が配列されてきます。その武士御家人115名の内、単独参加総数は44名です。51から99までは武士御家人43名中11名であり、ここには複数参加氏族が12氏(29名)あり、複数参加氏族が過半となっており、両者を合わせた出身国も伊豆・相模・武蔵・上野・下野・常陸の東国の外、近江・伊勢・伊予と西国が入っています。すなわち、交名中段では参軍武士範囲も関東全体に広がるのみならず、治承寿永の内乱時から頼朝傘下に入った佐々木・加藤・河野・橘氏といった鎌倉幕府の西国を代表する御家人が参軍することで、今回の動員がその全力を果たしていることを表示しています。

そして、100以下では武士御家人40名中単独参加数は33名で、複数参加氏族は3氏(6名)と、単独参加が圧倒的多数となり、その内、100の熊谷直家を始とする、武蔵武士が21名と過半で、これには西党・猪俣党・児玉党・丹党・村山党といった武蔵七党が含まれ、武蔵国の郷村級武士が行列の後半の主力となっていることを示しています。

以上、武士御家人の交名配列を見ると、前段が武相両国を中心とした有力御家人、中段が中堅御家人を主体として、東国のみならず西国を含む武士御家人の全力動員を示し、後段が武蔵国を主力とした小御家人という構成であることが理解できます。

最後に文士御家人(6名)と僧侶(2名)です。文士御家人の役割は勝利後の処理を見据えた軍政官としてのものであるといえます。全141名の行列の中にわざわざ6名の文士御家人を加えたことは彼等に軍事行動であることを自覚させ、この意味での役割を果たさせるとともに、軍事編成自体が単なる軍事進攻ではなく、奥州を鎌倉幕府勢力下に繰り込むことを明らかにしているものです。最上位は14の式部大夫藤原親能です。門葉配列の中に含まれ、この諸大夫級の最後に位置しています。親能は、治承寿永の内乱に於いて、1183(寿永2)年の源義経上洛に同行(『玉葉』寿永二年十一月七日条)して以来、対平家戦に参加して、源範頼軍の一員として九州に進攻している(『吾妻鏡』文治元年正月二十六日条)、戦争の場を踏んでいる特異な文士御家人です。また、中原(大江)広元・三善康信と並ぶ文士御家人の代表的存在です。以上のことから、奥州軍参加となり、その最上位に配列されたことになります。門葉諸大夫の次ぎに諸大夫級文士御家人が配列されることは、勝長寿院落成供養交名に見られ(『吾妻鏡』文治元年十月二十四日条)、順当なところです。主計允二階堂行政以下の5名はそれぞれの幕府内に於ける地位に応じた配列順といえましょう。

僧侶です。141の昌寛の『吾妻鏡』初見は、大姫第等の作事のため安房国在庁への工匠進上命令の奉行人として見える、ものです(養和元年五月二十三日条)。これで明らかなように、僧侶の役割は文吏僚、すなわち文士としてのものです。それに昌寛は対平家戦で源範頼軍に従軍しており(『吾妻鏡』文治元年正月二十六日条)、また昌明は比叡山僧兵の経歴を持っており(『吾妻鏡』文治四年六月十七日条)、これらの面も合わせた起用と考えます。

(おわり)

(2014.03.25)


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