花耀亭日記

何でもありの気まぐれ日記

ケルン大聖堂。

2023-02-19 23:20:06 | 海外旅行

ドイツのケルンは2009年6月に、ブリュッセルからタリスに乗って訪れている。当然、「ケルン大聖堂」も見ているのだが、M先生の講座で、そーだったんだと、初めて知ったことがあり、いつもながら自分の不勉強ぶりを反省してしまった

4世紀のミラノ勅令でケルンに司教座が設けられ、8世紀には大司教座教会となる。1164年、ミラノから東方三博士の聖遺骨がケルンにもたらされ、1225年頃にニコラス・ヴェルダンが《東方三博士の聖遺物箱》を完成する。

ニコラス・ヴェルダン《東方三博士の聖遺物箱》(1225年頃)ケルン大聖堂

ピンぼけ写真すみませんね。ということで、下↓ 画像をご参考まで。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:K%C3%B6ln_Dreik%C3%B6nigsschrein.JPG

更に、聖ウルスラ伝説によると、ウルスラと彼女に従う処女たちはローマからケルンに向かい、フン族のアッチラに皆殺しにされ、遺体はケルンに埋葬されたとされる。

ゆえに、シュテファン・ロッホナーによるケルンの「守護聖人三連祭壇画」の中央が《マギの礼拝》であり、左翼は《聖ウルスラ》、右翼は《聖ゲレオン》なのだと、今になって了解できたのだよ

シュテファン・ロッホナー「守護聖人 三連祭壇画(三王祭壇画)」(1426年以降)ケルン大聖堂 

※ご参考: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Altar_der_Stadtpatrone-5159_(cropped).jpg

当時、そんな経緯や伝説を知らなかった私は(汗)、この祭壇画を観ながら、ケルン派らしい優しくも美しい祭壇画だなぁ、デューラーもこの祭壇画を眺めたのだろうなぁ(ネーデルラント旅日記)と、ただただ感慨にふけったのであった

さて、シュテファン・ロッホナー(Stefan Lochner, 1400年頃 - 1451年)であるが...

「彼はオランダ出身であるか、おそらくロベルト・カンピ(パ)ンのためにそこで働いていたかもしれない。ロッホナーの作品は、ヤン・ファン・エイクとロヒール・ファン・デル・ウェイデンの影響を受けているようだ。それらのスタイルの要素は、ロッホナーの成熟した作品の構造と色付け、特に彼の最後の審判で検出することができるが、どちらも彼が学んだマスターであるとは考えられていない。」(英版Wikipedia)

M先生のお話では、ブルゴーニュ公(フィリップ・ル・ボン)はケルン周辺を訪れているので、ファン・エイクがお供でケルンに来た可能性は高い。ロッホナーの繊細な写実描写はファン・エイクからの影響を受けているかもしれない、とのことだった。だとしたら、私的に嬉しいなぁ

で、現在に見る「ケルン大聖堂」は1248年から建設が始まり、1560年に中断され、1880年にドイツのウィルム1世の手で完成式が行われた。なぜ中断されたのか?

ケルンはハンザ都市でもあり、1457年に帝国自由都市となったので、ケルン大司教(選帝侯)の首都はボンに移した。大司教はボンの司教館に住むことになり、どうやらケルンの大聖堂建設には興味を失っていったようだ

壮大な威容を誇るケルン大聖堂はゴシック様式といっても1880年の完成なので、フライングバットレスは石造りではなく、なんと鉄筋が使われていて、だいぶ近代的な大聖堂であるようだ

ということで、私の旅ではケルンには一日しか滞在できなかったが、ケルンといえばヴァルラーフ・リヒャルト美術館であり、もちろん行きましたとも。ロッホナー《薔薇園の聖母》もしっかり観ている。

美術鑑賞後の疲れは美術館カフェのケルシュビールで癒したのだったわ

ということで、ヴァルラーフ・リヒャルト美術館の鑑賞記は、またの機会に



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