花耀亭日記

何でもありの気まぐれ日記

東京都写真美術館「液晶絵画」(2)

2008-09-08 01:43:38 | 展覧会
今回の「液晶絵画」展で一番「絵画」を意識した作品はサム・テイラー=ウッドの3作品だった。

■《スティル・ライフ》サム・テイラー=ウッド
彩りも美しく美味しそうな果物が次第に白カビで覆われていく。時間の経過とともに腐敗は進み、果肉はどろどろに溶け崩壊し、腐液は籠皿からしたたり落ち、周囲へとじわじわ広がっていく。蝿が舞う中、いつの間にか腐液も乾き、果物が朽ちた後は地に還元されて行く存在であることさえ伝わってくる。


サム・テイラー=ウッド《スティル・ライフ》(2001)
(テーブルの上に置いてある青ボールペンは対比として「無機質で腐敗しないもの」の象徴だと思う)

籠皿に置かれた果物は将に「静物画」であり、17世紀においては多分に宗教的なヴァニタス画であったことは良く知られている。カラヴァッジョ《果物籠》の果物や葉の虫食いも、所詮は朽ちて失われてしまう存在として描かれている。現代のアーティストはビデオカメラを固定し、早送り再生することにより、このヴァニタスの意味をじっくりと時間をかけて曝し暴いて行った。

■《リトル・デス》サム・テイラー=ウッド
対象が果物であった《スティル・ライフ》から、今度は小動物であるウサギへと変わる。17世紀ごろの静物画には狩の獲物も良く登場する。しかし、動物ゆえにその変容の様はより衝撃的である。

狩の獲物のように壁に足から吊るされたテーブル上のウサギは内臓から腐敗していく。姿も体毛も崩れ落ち、そのうえ惨たらしくも蛆が湧き蠢き始める。腐敗した体液は壁とテーブルに染み出すが、時間とともに腐液は気化し、干からびた皮衣が残る。小動物とは言え厳粛なる死を見取ったような気さえした。同じく人間も動物なのである。

ヴァニタス静物画全盛時代の「メメント・モリ」(死を想え)という教訓は人生の無常を説くものだが、時の移ろいの前では全てが虚しいものである。サム・テイラー=ウッドは当時の静物画が暗喩として示した腐食部分の先、すなわち描ききれなかった「時の移ろい」=朽ち腐敗する過程と最後の姿まで描き切ったということになる。静物画が画面の中に孕んでいた時間をビデオ映像は解き放ち曝し出したのである。と思う(^^;;;

■《ピエタ》サム・テイラー=ウッド
この作品は本人が聖母役を演じ、キリスト役の男性を抱える映像である。階段にどっしりと座る姿はまさにミケランジェロのピエタである。でも、二人ともポーズをキープするのが大変そうだった(^^;

ということで、また次回に続く予定である(^^ゞ