遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『山桜記』 葉室 麟  文藝春秋

2014-04-27 11:14:28 | レビュー
 読後印象を簡略に述べるとしたら、武家社会にあって「純な愛」を育もうとした、あるいは育んだ人々の物語、オムニバスである。著者の作品群をマクロ視点で見ると、一貫して「愛」の在り方をテーマとして追求してきているのではないだろうか。この短編集もその流れの中にある。

 ここには平成23年(2011)9月~平成25年(2013)3月に「オール讀物」に発表された7つの短編作品が収録されている。家の存続維持を目的に政略的な婚姻が当然視されていた武士社会。当事者が投げ込まれた環境において、主体的に純な愛の在り方を追求した人々の姿を著者は結晶させようとしている。それは当時の世相の中では、ある意味で希有な存在の姿だったのではないか。各作品において、その愛の有り様のプロセスが異なり、愛の色調も微妙に変化している。純な愛にもさまざまある、それが著者の提示であろう。
 収録作品について、印象をまとめてみたい。

「汐の恋文」
 a.時 期 文禄2年(1593)7月~慶長3年(1598)8月
 b.当事者 肥前佐嘉の大名竜造寺政家の家臣瀬川采女と妻菊子
 c.発 端 文禄の役で朝鮮に出兵している采女に宛てた菊子の手紙の入った文箱が、便船の難破により博多の津に打ち上げられる。それを浜で拾った漁師が役人に届け出て、祐筆役を経由し、名護屋に在陣中の秀吉の目に触れるところとなる。
 d.過 程 菊子が秀吉の呼び出しを受け、秀吉の面前で己の気持ちを告げる。秀吉は菊子の容貌を見て、梅北国兼の一揆を想起する。梅北一族との関係を疑う。菊子が梅北国兼の妻爽子と自分の物語を秀吉に語る。そして「わたしは愛おしく思う方とともに生きていけるなら、悲しみの涙を流しません」という爽子の言を伝える。菊子の望みは采女を朝鮮から戻してほしいこと。秀吉は采女を呼び戻すと言う。しかし、「それはそなたの身代わりとして処罰を受けさせるためじゃ。それが嫌なら、彼の地に留まるほかないのだ」と付言する。ここから、ストーリーが展開していく。
 e.印 象 生を求めるなら恋い慕う采女に会えない。采女が帰還すればそこには死が待ち受ける。二律背反の発生。菊子の愛の苦悩が始まる。采女の器量が爽やかである。
 「されば、ともに参ろう。ふたりならば、あの世への道も寂しゅうなかろう」
これは、秀吉が登場するまでに山里丸の大広間での采女が菊子に語る言葉。この後のストーリー展開が実に巧みである。


「氷雨降る」
 a.時 期 慶長4年(1599)5月~慶長17年(1612)5月
 b.当事者 九州島原の領主・有馬晴信と妻ジュスタ
 c.発 端 公家・菊亭季持の死後、キリシタンの洗礼を受けたジュスタは、キリシタン大名小西行長の勧めで、信仰正しきキリシタン有馬晴信と再婚する。晴信は先妻ルチアを先年病で亡くしていた。晴信は良き妻を得たと喜び、ジュスタは敬虔なキリシタン夫婦として仲睦まじく暮らせると信じる。
 d.過 程 慶長5年(1600)9月、関ヶ原の合戦勃発。小西行長の催促で大坂に向かった晴信は、長門国赤間関まで行くが西軍に加担しないと決断し、引き返してくる。その後、晴信は川方に付く。加藤清正が小西行長の宇土城を攻める時には、嫡男直純を城攻めに参加させる。日野江城下にキリシタン会堂を建てる一方、家康の命を受け伽羅の交易に乗り出す。ポルトガル船グラーサ号の攻撃も行う。
 晴信はジュスタに言う。「キリシタンであると同時に、わたしは大名でもある。大名であるからには、家を守るのは務めだ」と。その晴信は、本田正純の与力となった岡本大八の甘言に騙される状況に陥っていく。ジュスタは、晴信の処刑、斬首されることを選択した晴信の処刑に立ち合うに到る。
 e.印 象 キリシタン信仰心の篤いジュスタは、キリシタンとしての晴信に対する思いを様々に変転させながら、晴信の生き様を見つめ続ける。その信仰心と晴信への愛の関わりが読ませどころと思う。ジュスタの愛は深く信仰心に根ざす揺るがぬものだったのだ。


「花の陰」
 a.時 期 慶長5年(1600)7月17日~慶長18年秋
 b.当事者 細川忠興の嫡男・細川忠隆と正室千世(前田利家の七女、母は芳春院)
 c.発 端 関ヶ原の戦いの3ヵ月前、大坂方に細川屋敷を取り囲まれた中で細川ガラシャ夫人は死ぬ。その時、同じ屋敷に居た忠隆の妻・千世は隣家の宇喜多屋敷に移り、その後京の前田屋敷に移る。関ヶ原の合戦後、大坂・玉造の細川屋敷に戻った細川忠興は「嫁の身でありながら、姑を捨てて逃げた」と非難し怒る。
 d.過 程 忠興は、明智光秀による本能寺の変後、光秀の娘・ガラシャ夫人(玉子)を疎んじていた。玉子はキリシタンとしての死を選ぶ。一方、秀吉の勧めで忠隆の正室に前田利家の娘を迎えたことを後悔し、離縁させたい腹づもりだった。ガラシャの死に対し千世が生き残っていることを問題視する。忠隆は千世からの手紙で無事だったことを知る。忠興は千世との離縁を督促するが、忠隆はそれを拒絶する。父子の意見の衝突。忠隆は忠興の勘気を被り、遠ざけられ、後に廃嫡されるに至る。だが、それは忠隆と千世の夫婦の関わり方の深まりへと展開していく。千世は「わたしは生涯、ガラシャ様の陰で生きていかねばならないかもしれない」と思う。そして、前田家に二度と戻れぬと覚悟せよと前田利長に諭されたうえで、丹波の大江山山中にある高守城に追いやられた忠隆の許に戻って行く。
 e.印 象 忠隆は父・忠興が己の母・ガラシャ夫人を見殺しにした上で、川家康の歓心を買いたいだけなのだと見る。父とは違う生き方を選択し、千世を大切に思う生き方を取ろうとする。忠隆・千世の二人に関わる周辺の人間関係が興味深い。ガラシャ夫人との関わりの上で、「わたしはいまだなすべきことをなしたようには思えないのでございます」という千世の思いがどう実現されていくか。そこに中心テーマがあると感じる。


「ぎんぎんじょ」
 a.時 期 永禄12年(1569)夏~慶長5年(1600)3月
 b.当事者 九州、肥前の大名鍋島直茂と正室彦鶴
 c.発 端 慶長5年(1600)3月、鍋島直茂の継母慶尼が93歳で大往生する。慶尼が彦鶴に遺した書状があり、侍女がそれを彦鶴に差し出す。そこには一行「如也」とだけ書かれていた。慶尼は何を言い残されたのか。それをトリガーに彦鶴の回想が始まる。慶尼との初めての出会いからの思い起こしである。
 d.過 程 彦鶴は肥前国佐嘉郡下の土豪の娘。嫁ぎ先の夫が戦死したため実家石井家に戻っていた。石井家は竜造寺隆信に仕えていた。あるとき、竜造寺方の部将鍋島信昌が石井館に立ち寄り、兵たちに昼食を摂らせてほしいと依頼する。鰯を焼いて出すにあたり、彦鶴が機転を働かせ、手際よく食膳に出す段取りをつける。信昌は彦鶴に礼を述べるために台所に現れる。それが契機で、信昌が彦鶴に夜這いをかけることとなる。そして、彦鶴が信昌の許に輿入れすることになる。彦鶴を継室にすることを勧めたのは、慶尼だった。その慶尼は、信昌の父のところに押しかけて来て継室となった人だが、竜造寺家の主君の生母でもあった。夫・信昌(後の直茂)を介し、彦鶴と慶尼の関わりが深まっていく。
 e.印 象 信昌の慶尼評がまずおもしろい。「ご自分の心を偽らぬ方であるとわたしは思っている。いろいろとわけがおありなのだろうが、つまるところ、慶様はわが父と夫婦になられたかったのではあるまいか。なにしろ父上は見目好いゆえ、すぐれて女人に騒がれたそうな」。「自分には慶のように揺るぎない覚悟はない。信昌のやさしさに惹かれ、恋焦がれていただけだ」「ひとの言うままに生きてきただけではないか」と思う立場の彦鶴が、おそるおそる慶尼と出会うところから始まる。慶尼の薫陶を受けて彦鶴の優れた資質が現れていくプロセスが読ませどころである。「うわなり打ち」に対する彦鶴の姿勢と、それを評する慶尼の表の顔と裏のこころの内との二面性がおもしろい逸話である。彦鶴は名護屋城の秀吉に呼び出されることになるが、その応対がもう一つの楽しいエピソードである。鍋島家と竜造寺家の微妙な関係の中で、直茂の意を理解して臨んでいく彦鶴の愛と生き方。著者はこの短編を楽しみながら書いたのではないだろうか・・・・。


「くのないように」
 a.時 期 慶長5年(1600)~寛文6年(1666)1月
 b.当事者 駿府城主川頼宣(家康の十男)と正室・八十姫(加藤清正の娘)
 c.発 端 八十姫の誕生。そして、ストーリーは元和3年(1617)に八十姫が川頼宣のもとに嫁すところから実質的に始まる。
 d.過 程 加藤清正は川家康と豊臣秀頼の二条城での会見を実現させ、その後九州に戻る途中で体調を崩す。帰国後の6月20日に急逝した。享年五十歳。家督は八十姫の異母兄忠広が継ぐ。家康による清正毒殺の噂も囁かれる。その噂を八十姫は知る。母・清浄院に八十姫は尋ねるが、そのうわさは承知していると答えるのみ。八十姫は、清正の遺言として清正愛用の片鎌槍を輿入れ道具の一つとして持参することになる。複雑な心境の八十姫に対して頼宣は「わしらは睦まじい夫婦になろうぞ」と囁くのだ。二年後に頼宣は紀州に転封、13年後、家光により熊本藩主加藤忠広は肥後一国を没収され、出羽庄内の酒井忠勝預けで1万石とされ、忠広の子・光正は飛騨配流となる。加藤家没落理由が、八十姫と頼宣の重要な議題となる。片鎌槍を前にした話へと展開する。さらに由比正雪の乱が絡んでくる展開となる。
 e.印 象 江戸幕藩体制の基礎固めから盤石の体制確立という中で、複雑な政略がらみの人間関係が描かれていて興味深い。そして、頼宣・八十姫の紀州川家の位置づけが興味深い展開となる。片鎌槍を輿入れ道具に入れるようにという清正の遺言、片鎌槍がこの短編の底流にあり、その果たす役割と意味合いがポイントになる。八十姫の名前の由来となぜこの槍が輿入れ道具のひとつになったか、それが最後に明かされるところがおもしろい落とし所である。


「牡丹の咲くころ」
 a.時 期 寛永20年(1643)12月~寛文13年(1673)
 b.当事者 柳川藩主・立花忠茂と正室鍋姫(仙台藩伊達忠宗の娘、後の貞照)
 c.発 端 川将軍家光の意向があり、柳川藩11万石・藩主立花忠茂に、伊達藩62万石の藩主の娘が嫁すことになる。家格の違いは明か。忠茂は一旦辞退するが、最後は受け入れる。
 d.過 程 「不憫ではあるが」と言いかける父に、鍋姫は忠茂の人物を問う。それに対して、江戸に近頃出てきた家臣の原田宗輔が落ち着いた物腰で答える。「物静かで落ち着いたお人柄だと承っております」と。原田の顔を見た鍋姫は、国許に居た2年前に、青葉山山麓の丘陵で難儀に遭ったときに助けられたことを思い出すのだ。
 祝いの席の後、寝所で忠茂は鍋姫に言う。「それがしは俗人でござりまするが俗の中にこそ真があると思うており申す。これよりふたりして、真の道を探して参るといたそう」婚儀の翌年、鍋姫は後の三代藩主鑑虎を出産する。鍋姫は承応元年(1652)までの7年間に3男2女を出産する。その段階で、伊達家から付き従ってきた老臣の口から、国許には忠茂の側室に嫡男鑑虎より3歳年長の男子、鶴寿が居ることを知る。鍋姫の心に深い失望が宿り始める。鍋姫の父忠宗死去の後、伊達家では内紛が始まっていく。忠茂は伊達家問題に距離を保ちながらも、深く関わっていかざるを得ない。いわゆる伊達騒動との関わりである。これへの対応が忠茂と鍋姫の絆を再び強くすることにもなる。
 e.印 象 この短編は葉室麟が最も得意とするテーマ領域の作品だと思う。互いの懊悩を含みながらも静かに互いの愛を育んで行く忠茂・鍋姫の日常生活と同時進行的に、藩運営という次元で伊達騒動が忠茂に関わってくる。だがそこには、原田宗輔という深慮遠謀の家臣が居た。その原田は、立花忠茂という人物を見極めていた。そして、ある側面で仙台藩を維持するために忠茂の力を引き出す。その一方、原田には忍ぶ恋の思いが秘められていたのではないかという側面がそこはかとなく感じとれる。牡丹がそれを象徴する。短編の中に、多次元の軸が見える作品だ。
 「わたしひとり、何も知らずに参りました。恥ずかしゅうございます」
 「なんの。御方は甲斐にとって何としても守り抜きたい花であったのだ。花の美しさを守ろうとするひとの心を、花は知らずともよいのではないか」  p218
 このやりとりの意味を、この作品を読み、味わっていただきたい。
 もう一つ、挙げておこう。
 「牡丹を移すおりは根から土が落ちぬよう。そして牡丹が気づかぬようそっと移してほしいのでございます」 p186,p219
 「よきことを申す。なにゆえ、さように思いついたのじゃ」
 「それが花の幸せにございますゆえに」   p219


「天草の譜」
 a.時 期 寛永14年(1637)冬~寛永15年3月(1610年、1632-33年にも遡及)
 b.当事者 黒田忠之、万(浦姫の成り代わりとして登場、だが実は・・・)
 c.発 端 寛永14年冬、天草で島原の乱が蜂起する。幕府から派遣された板倉重昌は鍋島、有馬、立花、寺沢の4藩の兵を率い鎮圧しようとしたが苦戦する。幕閣は老中松平伊豆守信綱を総大将として派遣する。松平信綱が島原に到着する前、翌年元旦に板倉重昌は総攻撃を行い、陣頭指揮の中で討死にする。松平信綱の指揮下で、細川、黒田藩が攻撃に加わることとなる。黒田忠之以下黒田藩は、寛永9-10年(1632-33)の黒田騒動での汚名返上、名誉挽回とこの戦いで奮起しようとする。
 d.過 程 黒田騒動の発生において、忠之には家老栗山大膳に謀られ、面目を失した思いが強い。苦戦している島原の乱は名誉を挽回する好機である。着陣した場に、かつて忠之が重用し、黒田騒動の結果高野山に追放されていた倉八十太夫が黒田美作を介して、陣借りしたいと参上する。彼は浦姫と名乗る女を伴ってくる。浦姫とは慶長15年(1610)に、突如神がかりとなり予言をするようになった武士の妻女だった。人々に浦姫と呼ばれていた。その浦姫が実は忠之の将来を予言していた。十太夫に伴われて来た浦姫と名乗る女は万と称した。万に浦姫が憑依したかの如く、万が忠之に予言する。そして、万の正体が明らかになると・・・・、忠之の行動が決まる。
 e.印 象 この短編、著者が想像力を羽ばたかせた「島原の乱異聞」として楽しめる作品だ。短編の中に島原の乱の根本原因と九州キリシタンの状況、黒田騒動の背景を凝縮させた上で、黒田藩とキリシタンの関わりを重ねて、そこに想像力を羽ばたかせている。島原の乱で活躍した黒田藩が幕府にも一矢報いるという構想が愉快である。
 「・・・わたくしもともに城中に参りとう存じますゆえ、雑兵の身なりをいたしまする」
 「なに、女子の身で兵になると申すか」・・・・・・
 「そなたは恋い慕う男を救うため、わが黒田勢を動かそうというのか」
 「御意にございます」・・・・
 その姿を見遣った忠之は、体を揺らして哄笑した。
 この会話が、実に良い。この短編の山場である。松平信綱と黒田忠之の会話で締めくくったところが、異聞として心憎いし、おさまりがよい。

 「オール読物」初出の短編がこの一冊に収録されるにあたり、発表順ではなくて、順序が入れ替え編集されている。大きく見ると、作品が取り上げた時代の流れにほぼ沿った形に並べられているように思う。場所が江戸というものもあるが、やはり著者のホームベースである九州諸藩の視点から、東に広がっていく。このアプローチを新鮮に感じる。

 この短編集のタイトルは「山桜記」である。収録された7篇において、著者が直接に「山桜」という言葉に言及した箇所が記憶にのこっていない。読了後にスキャンニング読みしても簡単には見いだせなかった。この言葉は直接には出ていないようだ。
 ただ、「花の陰」にガラシャの辞世の和歌が載せられている。
   ちりぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ
 そして、この作品の末尾に近くに、
  「咲かぬ花は散らぬ。花を咲かせたことを喜ぶべきであろうな」という忠隆の言。
 最後の一行が、「庭で桜が咲き誇り、一陣の風に桜吹雪が舞う日だった」である。
 このあたりから、本書のタイトルが生まれてきたのではないだろうか。


 ご一読ありがとうございます。


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本書関連でいくつか関心を呼ぶ語句をネット検索してみた。一覧にしておきたい。

名護屋城跡と陣跡 :「佐賀県立名護屋城博物館」
名護屋城 大陸征服の本営城 :「散歩な気分」
 縄張図と城跡写真が多数掲載されている。
No.050 「 梅北の乱と佐敷城 」 山下 勉 氏 :「ふるさと寺小屋」
梅北一揆 :ウィキペディア
 
竜造寺氏 :「戦国大名探究」
鍋島氏  :「戦国大名探究」
大友氏  :「戦国大名探究」
立花氏 :「戦国大名探究」
伊達氏  :「戦国大名列伝」
 
日野江城 :ウィキペディア
日野江城 金箔瓦が出土した城  :「地域別訪問城&訪問城マップ」
佐賀城 佐賀藩主・鍋島36万石の居城:「地域別訪問城&訪問城マップ」
佐賀城 :ウィキペディア
原城  :ウィキペディア
原城  :「長崎の城」
 
「細川忠隆公と前田千世(ちよ)姫」 :「肥後細川藩拾遺」
-細川内膳家 肥後史料- 廃嫡後の細川忠隆(長岡休無):「肥後細川藩拾遺」
戦国の幽齋とガラシャ、そして廃嫡後の細川忠隆   細川 純 氏
慶尼と握り飯 :「さがの歴史・文化お宝帳」
慶ぎん尼  :ウィキペディア
戦国のゴッドマザー=龍造寺隆信の母・慶尼 :「今日は何の日?徒然日記」
徳川頼宣  :ウィキペディア
八十姫 → 瑤林院 :ウィキペディア
上天草と天草四郎のつながり  :「天草四郎観光協会」
天草四郎時貞 :「宇土市」HP
天草四郎の乱 :「サンタマリア館」
天草島原の乱 :「天草探見」
 

 インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)



徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。


『潮鳴り』 祥伝社
『実朝の首』 角川文庫

===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新2版





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