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眠れない夜の言葉遊び

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、夢小説

私たちの台本

2019-11-30 13:12:00 | フェイク・コラム
「昨日はじめて宇宙人を見てね」
「へー」?
「よさげだったよ」?
「……」
「……」

その先があるのかと思いきや、
どうやら何もないようだ。
あなたはそれきり黙り込んでしまった。
私は相槌を間違えたようにも思う。

私たちはそれぞれに見えない台本を持ち合っている。
共通の台本を持てば、次がどちらの番かは互いにわかる。
それによって会話は円滑に進んでいく。
けれども、台本を読み誤れば台詞に穴が空く。
次の台詞が行方不明になり会話が終わってしまう。

「へー」そこが問題だ。
返しの達人は相手の警戒を解いて台本を膨らませる。
「へー」には少し情熱と真心が足りなかった。
言葉を引き出す力が不足していた。

あなたは宇宙人を見たとしか言わなかった。
本当はもっと言いたいことがあったのでは……。

「えーっ!」
まずは驚きをもっと示すべきだった。
そしてあなたの身を案じるべきだった。

あなたは既にあなたではなくなっているかもしれない。
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短歌のゴールデンタイム

2019-10-25 15:21:45 | フェイク・コラム
 テレビのゴールデンタイムで俳句バラエティーがレギュラー放送されるようになって、茶の間の人々にとって俳句という存在がより身近なものになった。今までドラマの中で見ていた俳優たちや、コントの中でボケていた芸人たちが、多彩な季語を用い豊かな映像を詠む姿を目にすると、それなら自分も挑戦してみようと考えることは自然な流れだった。だが、実際にやってみると見ているようには上手くは作れないものだ。名人の作品と比べればまるでデタラメのような最下位の人の俳句を茶の間で笑いながら見ている分には気楽で楽しいが、では自分もと作ってみればそれに劣るとも勝らないものができる。優しくフォローしてくれる名人や厳しく批評してくれる先生はそばにいないけど、駄目だってことくらいはわかる。
 
やー! 俳句メッチャむつかしー!
 
そこで人々は短歌という存在にも気づくんだよ
隣の短歌って奴はどうなんだと思うんだよ
それから先は話が都合よく進んで
犬がうまい棒を渡るように
短歌の世界に入っていくんだよ
 
与えられたパズルを解くことよりも
自らひねり出して作る楽しみを知った人々は
もう戻れなくなってるんだ
 
季節と映像を望む575の器から
77へと続くもっと自由な世界へと
友人も隣人も男も女もみんな歌人になって
季語なんて調べ上げなくても
夢に見た景色を盛って現したり
自分の感情をストレートに歌うんだよ
短歌のゴールデンタイムが到来したんだよ
 
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喩えはわかりやすく

2019-09-27 17:29:11 | フェイク・コラム
 上手く使えば理屈をつけるよりも速く相手に伝えることができる。比喩は聞く者の中で小さな物語として映像化される。
 しかし誤って使えば、むしろ逆効果だ。
 伝わらない比喩は話を複雑化し、理解の足を引っ張ることだろう。
 
 例えばそれはみんながよく知っている料理などで例えるのが一番間違いがない。計画を立て、食材を調達し、冷やしたり干したり、下準備をし、食べやすいようにカットして、煮たり焼いたり、スパイスを利かし、最初は強火で、あとはじっくり、ちょうどいい皿に盛りつけて、それに相応しいワインと一緒に、愛する人に届けるようにして、お話を作りましょうと言えば、誰にでもよく伝わる。
 
「毎日食べて、毎日作る。お話作りは料理だ」
 
 オーダーを組んで、トップには足の速い奴を入れ、とにかく累に出て、相手を揺さぶって、かき回して、どんどん走者をため込んで、一発ドカーン! 今までまいてきた登場人物を一気に回収する、機動力野球のようにお話をまとめましょうと言えば、誰からも理解される。
 
「走者を溜めて今こそ共感のホームランを」
 
 大駒の通り道を作り、金銀を押し上げて中盤に厚みを築き、玉形はバランスよく、流れ弾に当たらぬように、どちらにも逃げ出せるように、遊び駒を作らず、スピーディーに桂を活用し、構想を練り、隙あらば打って出て、すべての駒が前に前に行くように、そして十分に読みを入れ、銀の頭を叩き、金はむしろ斜めに誘い、角には角で対抗し、下段の香に力を与え、くれぐれも歩切れにならぬように、いつでも金底に歩を用意して、そうして一手勝ちと見れば恐れずに踏み込み、一間竜の如くフィニッシュをお話の最後に持ってこよう!
 
「二枚飛車に追われた夢の話で背筋を冷たくしろ!」
 
 
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フレキシブル棋士

2019-09-25 15:46:59 | フェイク・コラム
「今日は何を着て行こうか」
 人間誰もが経験する悩みである。
 着ないわけにはいかない。行かないわけにもいかない。だから悩ましい。気に入った服がないならば、まずは気に入った服を探しに行かなければならない。気に入った服が揃ったら、まずは準備は完了だ。そこからはコーディネートの問題だ。最も考えねばならないのはコンディションの管理だ。風邪を引いたら大変だ。暑さ寒さが極端な季節はその辺の注意を怠ってはならない。暑さ寒さに見合ったコーディネートを心がけることが肝要であろう。
 その時々の気候について配慮することは当然であるが、道程と目的地のことを両面で考えることが必要だ。その意味で、フレキシブルな発想でコーディネートを実行に移したいものだ。行きはよくても着いたら寒い、帰りはやばいでは困ったものである。
 出かける前に少し先の風景を見通し、一日の中心がどこにあるのかを見極めることだ。行き先はハワイ(イオン)かロシア(古民家)か、近未来を読むことが大切だ。対局室は火星にあるのか、千駄ヶ谷にあるのか。棋士はその辺までは軽く見通している。強い棋士はちゃんと読みが入っているのだ。
 寒さが気になっては良いパフォーマンスが発揮できない。先の先の熱戦を想定し、フレキシブルに調整可能なファッション感覚を身につけておくことが最新形についていく極意であるようだ。そして美濃から銀冠へ、矢倉から雁木へ、中住まいから右玉へ、船囲いからエルモ囲いへと、玉形のファッションのめまぐるしい変化も現在将棋の顕著な特徴である。
 裸の王様では人々の支持を集めることは難しい。いつかは自由を愛する戦士たちによって踏みつぶされてしまうだろう。一分の隙も作らず戦うことは困難だ。思い詰めたままではよい構想は描けないのではないだろうか。時にはネクタイをとき、膝を崩し、気持ちを緩めることも必要だ。
 寒くなったらセーターを着る。暑くなったらセーターを脱ぐ。それこそがフレキシブルな棋士のモダンな棋風と呼ぶに相応しい。
 
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【コラム】(ポエム)「日常を生きる」

2019-08-26 19:40:18 | フェイク・コラム
 ここでは日常のことについて書いていこうと思います。日常を笑う者は日常に泣くと言った人がいます。僕はその人のことを知りません。けれども、日常の中では様々な名言が生まれ、人々の生きる支えとなったり、深く記憶の奥に眠っていたりします。
 
 日常、それはかけがえのない時間。日常、それはかけがえのない風景だ。
 
 ここでは日常のことについて書いていこうと改めて思います。改めて言うまでもないことですが、人は日常の中に生きています。
 
「人は日常の中に生きている」
 
 書くべきことは日常の中にある! 日常を否定しては何も始まりません。なぜなら、あらゆる偉業、お祭り、ファンタジーは、日常の向こう側にあるものだからです。
 もう一度言おう。
「僕らは日常の中に生きている!」
 とんでもないところへ行き着くために、ぽつりぽつりと日々を積み上げていく。どこまでも、どこまでも、果てしなく……。
 日常、それは旅の始まりだ。大それたナンセンスも、途方もないファンタジーも、日常の裏返しだと言うことができる。だからこそ、ささやかな日常の中での発見、気づき、想像といったものが大事になってくるのではないでしょうか。
 もう一度言おう。
 
「僕らは日常の中に生きている!」
 
 どこにでもあるような日常というものが、本当はそこにしかない奇跡の瞬間なのだということを知るのは、ほとんどの場合それを手放した後のことでしょう。それは半分仕方のないことだとしても、少し残念なことでもあります。
 僕らはもっと日常を意識することもできます。それを可能にしてくれるものの一つが、物語の力じゃないかな!
 僕はぼんやりとそんなことを考えながら、ここに生きています。
 ここでは一つ日常のことについて書いていこうと思います。
 
 
 
僕は情けないほど誘惑に弱かった
甘い匂いにホイホイと引き込まれて
小箱の中で死にかけた
 
「あー、ほんとにやばかったよ」
 
夜更けに少し歩いただけで
悲鳴にも似た声を出されて
「出たー!!」
って
僕はお化けじゃないっつうの
 
大女に「撃退」という名のついた
スプレーを向けられた時
恐怖のあまり動けなくなってしまった
(くそーっ。存在の否定かよ)
ピンポーン!
チャイムが鳴って
 
「はーい!」
 
女の関心が日常にかえった瞬間
僕はまた救われた
救世主は突然やってくるものだね
 
そうそう
 
夕べは猫に遭遇して
好戦的でしつこい猫だった
僕は不覚にもパンチをあびて
隅っこに追いやられて
一瞬覚悟までしたけど
 
どうにでもなれ!
 
やけくそみたいに羽を広げたら
 
ピューン!
 
僕って飛べたんだ!
 
あの猫ときたら驚いてたみたい
(ざまあみやがれ)
 
ああっ!
「生きてる!」
 
語気を強めて 僕は言いたかったの
 
 
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将棋チャンネルと将棋メシ

2019-08-13 21:41:00 | フェイク・コラム
 ネットテレビでは将棋の対局が毎日のように中継されている。
 将棋の対局は基本的に長時間に及び、ずっとそれだけを見ているのは気が遠くなる。サッカーやテニスのようにボールがめまぐるしく動くわけではない。ほとんどの時間、何も動かないのだ。映し出される盤面は、難しい局面では、1時間に1センチ、ほんのひとこましか動かないこともある。動きとしては他に、棋士が正座になったり胡座になったり、お茶を飲んだり天を仰いだり俯いてため息を漏らしたりするくらいだ。
 そこで登場するのが解説や聞き手と呼ばれる先生たちである。彼らは対局室とは離れたスタジオにいて、大盤を用いて指し手をわかりやすく解説してくれるのだ。それにしても専門的なことはよくわからない。早繰り銀だ超速銀だ棒銀だ銀冠だと言われても銀が関わるというくらいしかわからない。矢倉だ雁木だ振り飛車だ横歩取りだと言われてもついていけない。ひねり飛車だ猫式縦歩取りだとなるともうさっぱりわからない。
 でも話はそんなに専門的なことばかりではない。大盤は常にそこにあるものの、局面がそう動かないのだから、そんなに解説することがあるわけがない。将棋の話はそこそこ、先生たちはその内に自由に話を広げ始めるのだ。言ってみればそれは長い長いフリートークだ。それならサッカー観戦のようにかじりついて見る必要もない。肩の力を抜いて見ることができる。見るまでもなく聞いていることもできる。

「将棋チャンネルはラジオのように聞くこともできる」

 ランチタイムが近づくと話題は決まってご飯の話になる。対局室に係の人が出前の注文を取りに現れるのだ。メニューをパラパラとめくってこれという物に指をさす棋士。それが将棋メシ(勝負メシ)である。
 勝負メシは後に写真つきで紹介もされる。その頃になるとちょうど見ている側もお腹が空いており、思わず同じものを食べたくなったりする。三間飛車の使い手も相振り飛車のスペシャリストも、自分たちと同じように、うどんを食べ親子丼を食べそばを食べカレーを食べる。今まで遙か遠いところに見えた棋士という存在が、急に身近に感じられる瞬間だ。うどんを食べて戻ってくる棋士を応援したくもなるというものだ。

「関西の丼には一緒にうどんがついてくる」

 腹が減っては戦はできぬ。しかし、問題は無事に空腹を満たした後にも潜んでいるようだ。昼食休憩を終えて対局が再開される、次の一手に悪手が出やすいらしい。棋士も人間、正確な読みの隙間にうどんやそばの一切れが入り込み、誤算を生むのだろうか。勝負メシの後の一手に注目だ。

「メシのあとの悪手にご用心」

 さて、魔の時間帯を無事に乗り越えるといよいよ戦いは本格的な局面に突入する。そうは言っても指し手はバタバタと進むものではない。依然として時間はたっぷりと残っており、解説の先生たちは難しい局面にのみ触れている場合ではない。プライベートな一週間を振り返ったり、朝からの指し手を振り返ったり、昼食の勝負メシを振り返ったりして時間をつなぐ。そうしている内に時は流れ、夕暮れともなると対局室にはメニューを持った係の者が姿を見せる。夜の将棋メシの注文である。長い夜戦を見越してしっかりとエネルギーを補給するのか、あまり胃に負担をかけないように軽いもので済ませるのか、それは局面の状態や考え方にもよる。休憩の間は持ち時間が消費されることはない。しかし、うどんを食べながら考えることはもちろん自由だ。

「長い戦いでは勝負メシは二度ある」

 長時間に及ぶ解説(トーク)も楽ではない。夜遅くなると先生たちも順に出番を終えて帰って行く。勝負は終盤に向かい徐々に終局へと近づく。だいたい最後は玉の頭に金が乗って終わる。しかし、中には例外もある。玉の囲いの周辺で攻め手の金と受け手の金が取って打っての平行線をたどり始めたような場合だ。数手一組の手順を経て同一局面に戻っている。これが一定の回数繰り返されると「千日手」の成立である。

「千日だって繰り返される、それが千日手だ」

 千日手はどちらも負けではない。その瞬間、一旦引き分けとなり、少しの休憩を入れて先後を変え指し直しとなる。深夜になっていたとしても、改めて初手から始まるのである。持ち時間は随分と減っており、そこからは短期決戦だ。

「千日手の後の短期決戦は集中力が試される」

 深夜ともなれば見ている方も疲労が溜まっている。少し睡魔に寄られながら大盤を見ると解説の先生がついに一人になっている。

「ダブル解説からついにシングル解説へ」

 一人で手順を述べ駒を動かし所見を示し頭をひねり駒を動かし……。一人仕事は何かと苦労が多そうで、ここに至って聞き手の存在の大きさを知る。局面は一気に終盤へと向かっていく。詰むや詰まざるや。そこが問題だ。持ち時間を使い果たすと一手60秒未満で指し続けなければならない。画面の端から先生が戻ってきた。再び安定のダブル解説へ。若手の先生は九段の先生を見捨ててはいなかった。

「帰ってきた先生。やはり解説には二人の力が必要」

 ついに手段が尽きて敗者は頭を下げた。
 黙ったまま一日を戦ってきた棋士がぼつりぼつりと話し始める。局面はふりだしに戻り。初手から改めて並べ直す。感想戦の始まりだ。
 今まで言えなかった本音をぶつけ合う二人。それにしても難しい。それはまるで宇宙人の会話のようだ。
「それでは一局を振り返りましょう」
 感想戦にもやっぱり解説があった方がいい。

「頼りは解説。対局者の言葉を翻訳し伝えてくれる」


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アスリート宣言

2019-08-09 08:48:00 | フェイク・コラム
 物書きはアスリートである。
(人間のやることはみんなスポーツだ)
 長く書き続けていくためには、姿勢が大事なのではないかと思う。負担が少なく、疲れにくい姿勢。あるいは勢いを持って書き進められるような姿勢だ。
 みんなはどんな姿勢で物を書くのだろうか。椅子にかけたり、立ったままだったり、ソファーに横になって、ベッドに仰向けになって、歩きながら、壁にもたれかかって……。姿勢は成果に直結する。

 同じアスリートである棋士を例にみてみる。彼らの対局は長い時には持ち時間各6時間もある。双方使い切って秒読み勝負までいくとすると、半日以上も盤を挟んで戦うことになる。彼らの多くは座布団の上に正座していることが多い。長考する場合には胡座になることもあるが、いざ次の一手を着手する時になるとやはり正座に座り直すようだ。中にはほとんどの時間を正座で通す棋士もいる。また、地蔵のように動かず読み耽る棋士もいるということだ。
棋士の頭の中には将棋盤が入っている。その中で金や銀や飛車や角を自在に動かすことができる。本当は目をつむったまま、寝転がったまま、いくらでも先を読むことができる。それでも背筋を伸ばして長い時間、盤の前に座り続けている。きっとそれが彼らが力を最大限に発揮できる姿勢だからだろう。

 F1ドライバーの運転席は実に窮屈だ。それはくつろぐためのスペースとはわけが違うからだ。彼らに求められるのは極限のスピードだ。車窓から移り変わる景色を眺めて楽しむ、そんな日常的なドライブとはまるで走る世界が違う。より人より速く走るために。無駄な要素を切り詰めた空間の中で、ドライバーは驚くべき姿勢をとっている。

 選ぶべき姿勢は目的によって大きく異なる。
 一口に座ると言っても、座る姿勢はみな同じではない。
 物書きとして長く続けていくために最も適した姿勢は何か。日々それを研究し極めていくことが大切だ。
 物書きたちは今日も街に出かけていく。物書き的な実験を広い心を持って許してくれる、そんな環境を探して。
 
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なんばCITYのランチタイム

2019-08-07 17:01:20 | フェイク・コラム
 なんばウォークを横に曲がってぐんぐん歩いて行くと、まもなくそこはなんばCITYだ。
 
みえてきた 秘密の地下空間で見つける味の抜け道
 
 ちょうどお昼時のいい時間。
 目を引く看板に足を止める。美味しそうだしリーズナブルだし。あなたは第一印象に素直に従って店の中に入って行こうとする。
 だが、少し待ってほしい。あなたが目にした看板はたまたまそこで目にしたのだ。あなたはなんばCITYに訪れたのではなかったか。本当にそこでいい? そこがベストの選択か?
 
「早まるな! 一つ選べば他は選べない」
 
 初球をとらえて見事にホームランを打つことはある。だが、最初は見送ってみるのもいい。勝つだけが目的ではない。バッテリーとの駆け引きを楽しむ時間も胃袋を刺激するものだ。
 
「最初のチャンスは見送れ」
 
 正しくシャープな選択は、確かに合理的だが、どこか味気なくも思える。迷ったり見送ったりすれば無駄に時間はかかるだろう。だが、その分だけ思い出となる映像は広がりを持つのではないだろうか。
 一度入店すれば最後、あなたのランチタイムはそこで終わるだろう。人並みの胃袋の持ち主ならば、ランチを何件も梯子できるものではない。だとすれば、それだけ慎重になるべきだ。あなたは寸前で思いとどまる。
 
「ランチタイムは一発勝負」
 
 順番を待っている人がいる。行列を作って待つ人の姿が見える。そこはとびきり美味しい店かもしれない。あなたはそこで立ち止まる。だが、少し待ってほしい。行列は一つの情報にすぎない。それも信頼できる情報ではないのだ。あなたはそこで手持ち無沙汰な時を過ごす覚悟があるか。
 
「行列に並ぶのはちょっと待て」
 
 やっぱりやめておこう。正しい決断をしてあなたは次へ進む。店はまだまだある。簡単に終わらないのがモールの魅力である。あなたは次に行く場所でこれまでにない魅力を感じる。看板のメニューのボリュームと価格に惹かれて店の扉に近づく。何やら薄暗い。カウンターに食材を載せてエプロン姿の女性が黙々と作業をしている。どうやらまだ営業していないようだ。
 
「待て! そこはまだ準備中」
 
 待つには30分。あなたはやむを得ず通り過ぎる。あれもいいこれもいい。だが、まだ決めなくてもいい。満点の店を探しあなたはどんどん歩いて行く。お腹が鳴る。空腹とランチタイムの理想的な合流地点。もう少し、もう少し。
 
「どこまでも行け! 歩く時間も舌は笑っている」
 
 理想を追って歩く内に、空が見える。雲一つ見えない。晴れ渡った青空。あなたは歩道を歩いて行く。心地よい風が吹く。どこまで行くのか。曲がり角まで行ったところで、あなたは行きすぎたことを悟る。
 
「しまった! そこはもうシティじゃない」
 
 あなたは来た道を引き返す。もう一度、なんばCITYへ戻るために。今度はあそこにしようか。戻りながらイメージは固まりつつ。それでも同じ店の前を再び通ることに、あなたは少しの後ろめたさを感じている。本当の自分は何も決められない人間なのではないか。
 
「恥じるな。迷える時こそランチタイム」
 
 一度来た店の前をあなたは次々と通り過ぎる。固まりかけたイメージがぼやけて見え始めた。もっと他にあったようななかったような……。あなたは不意に息苦しさを覚える。来た道を逸れて光の射す方へ逃れた。前とは違う青空があなたを包み込んだ。再びお腹が鳴った。だが、まだ耐えられるとあなたは思う。もっと行こう。あっちにも何かある。
 
「なんばCITYを抜けて。なんばはまだ広がっている」
 
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【コラム】コラムを書こう

2019-08-04 17:51:00 | フェイク・コラム
 人々の関心がどこにあるのか。
 クリエイターなら多少なりとも興味がある問題だ。

とっつきにくい詩?
わかりにくい短歌?
読者を選ぶ小説?
それと並べてコラムはどうだろう。

 私にはさっぱりわからない。
 コラムについてもエッセイについても。
 小説も日記も作文もわからないのだ。

さあ、大変だ!
テーマが行方不明だ!

「待て待てそのコラム! まだ書くのは待ちなさい!」

 コラムを書くに当たっては、まずテーマの選定が大事。
 あなたはいったい何を伝えたいのだ?

ナッシング!
困った。私は空っぽじゃないか!

 コラムの時代である。
 つい数年前まで矢倉の時代。少し前から雁木の時代である。
 振り飛車についてはどうだ。
 それはまた別のテーマである。
 ここで話を元に戻そう。
 コラムの時代であると噂されている。
 町の噂によると「コラムの時代だな」
 というような話がよく聞かれるようになった。
 時代というのはよく移り変わる。
 だいたい乗ろうと思った頃には、遅れているものだ。
 原因は時代を知るタイミングのズレにある。

「気をつけろ! 
 あなたの思う時代は常に10年遅れている!」

 私はコラムを書くことを思いついた。

「思いついたら書いてみよう!」

 それが私のスタンスである。 
 最初は何を書いても上手く行かないものだ。
 だが、それでもあえて書くべきだと私は言いたい。

「書くことでみえてくるものがきっとある!」

 最初は一つの共感も得られないだろう。
 わかりやすく言えば、見向きもされない。
 だが、それがどうした?
 私だってそれは同じだ。

「見向きもされないくらいで凹まないで!」

 書くことは必ずあなたのためになる。
 あなたを洗い落ち着かせ強くする。
 それ自体が素敵によいことなんだ。

「書くことはなんて素晴らしい!」

 そこで私はコラムを書くことに決めた。
 さて、コラムとは何か?
 わからないならコラムのようなものを書くまでだ。

「とりあえずは(ようなもの)とつけておけ!」

 これからどんどんコラムのようなものを書いていくことにする。
 しかし、私はどちらかと言うと詩を書きたい。

「気にするな! 書きたいものから書いていけ!」

 コラムを書きたいと思ったら、ぜひあなたもコラムを書いてみてほしい。自分には書くことがないという人もいるだろう。そういう場合は、別に書く必要はない。当たり前のことである。そして、それは私自身にも心当たりがある。

「気づいたら書くことを忘れてしまった!」

 書いている内に心のあり方も変化していくのである。
 自分の言いたいことを整理するのは難しい。
 コラムを書きたい人はぜひ参考にしてほしい次第である。

「コラム難しい! 書くって大変!」
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スキの熱量

2019-08-01 21:57:00 | フェイク・コラム

 あなたは「スキ」に対してときめいたり驚いたりしたことがあるだろうか。「スキ」に対して疑ったり不安を覚えたことがあるだろうか。

軽いスキ。本当のスキ。振り向きざまのスキ。心を込めたスキ。ぼんやりとしたスキ。衝動的なスキ。手が滑ったスキ。アメージングなスキ。挨拶代わりのスキ。存在を告げるスキ。自動的なスキ。プログラミングされたスキ。猫が触れたスキ。なんとなくなスキ。社交的なスキ。考え込んだ末のスキ。お返しのスキ。人違いのスキ。おもてなしのスキ。何でもないようなスキ。おやすみのスキ。

「ここに現れた(スキ)はどういう(スキ)だろうか」

 突然現れた(スキ)を前にあなたは当惑している。
 もう当然の報酬として受け止められなくなってしまった。
 あなたはぼんやりと(スキ)の周辺に思いを巡らせている。その内に(スキ)は目の錯覚だったと気づく。蛍の光に気づく。取り消されたアクションに気づく。立ち去ったフォロワーに気づく。

 そして、もう一度あなたは考え始める。
 それは「実行されなかった(スキ)」についてだ。
 もう少しで(スキ)だったのに……。
 ほんの少し何かが足りなくて(スキ)じゃなかった。

「現れなかった(スキ)の向こうにも(好き)はある」

 それからあなたは自分を離れて、他人のコラム、他人のポエムの中を、散歩し始める。
 もう難しいことは考えない。
 受けるより与える方がずっと気楽だ。
 思いつくまま、あなたは好き勝手に(スキ)をつけて回る。
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コーナーキック・イノベーション

2019-07-05 03:02:48 | フェイク・コラム
 まずコーナーキックからの失点である。
 これは長年に渡り日本チームが悩まされてきた弱点とも言える。
 印象的には、日本は10本蹴って1点、5本蹴られると1点。それが強豪国と戦った時にみえるコーナーの景色だ。更に、蹴ったところからカウンターをあびる場面も多く見られる。
 
「コーナーフラッグが見つめるかなしい現実」
 
 セットプレーの多くはやむを得ぬファール、必死のクリアによって与えられる。そこからぽーんと放り込まれてズドンとダイレクトで決まってしまうのは、最も恐れているからこそ残念にも思う。崩された気はしないのに。ぽーん、ズドン。タイミングと高さだけで、持って行かれるなんて……。
 
「よーいドンでは負けてしまう。求められる工夫は」
 
 その時、得点者の打点は頭一つ抜き出ている。
 言ってみればそれはモグラ叩きだ。
 ならばゴール前の密集の中で必要となるのはハンマーだ。
 頭一つ高いなら狙いを定めるのも容易だ。
 
「出られるものなら出るがよい」
 
 みんなモグラ対策のハンマーを持って待ちかまえているぞ。痛いぜ。キュッキュッ言うぜ。ああ恐ろしい。モグラになったらやられちゃう。そう思わせることができれば相当なものだ。
 飛ぶのは危険だな。滞空時間控えめにしようかな。打点は低めにしようかな。目立つのやめようかな。あいつら持ってるからな。そこまで思わせたらなかなかのものだ。
 その場で相手が恐れを抱くようになったとしたら、コーナー付近の事情は少し変わってくるかもしれない。
 
 しかしながら、そのようなハンマーを持った選手はまだ現れてはいないようだ。課題は育成にも及ぶ。現在のゲームの主流と言えば、eスポーツを中心としたサッカーゲームだ。そこには当然ながらモグラもハンマーも存在しない。そうなるとモグラ叩きをイメージすること自体が難しくなっている。
 町の憩いの場として存在したゲームセンターは、今また新しい価値観の元で再生を待たれているのである。
 
 
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