半蔵門線「九段下」から壕に沿って靖国通りの九段坂を左折すると田安御門の二の門(櫓門)。江戸城の一角、北の丸の入口で門を潜ると左側に日本武道館が構えている。
江戸城は家康・秀忠・家光の3代に渡って完成する。中心となる本城、将軍の隠居所となる西城、その外郭の一つに北の丸がある。従って北の丸は将軍家の居所でも政治の場でもなく、大名の屋敷地であった。振袖火事(1657年)で江戸城が全焼した後は屋敷の再建を禁止し、火除け地の空き地とした。
<フミヤのイヴェントの行列は日本武道館から九段坂下まで連なっている>
将軍の跡継ぎは直系男子を旨としたが、それが叶わぬ場合は御3家(尾張・紀伊・水戸)から将軍を迎える事になっている。それが繰り返されると血縁はどんどん疎遠になっていく。
それを憂慮した8代将軍吉宗は新たに御三卿の制を設けて<田安家・一橋家・清水家>を創設した。と言っても自分の2男:宗武(むねたけ)が田安家、4男:宗尹(むねただ)が一橋家、孫:重好(しげよし)を清水家としたのだから、暴れん坊将軍吉宗してやったりである。しかも空き地になっていた北の丸全域(現在の北の丸公園)を田安家と清水家にくれてしまった。
幕府滅亡と共に明治政府に没収されたが、この田安門・清水門がその名残となっている。
<武道館向かって左側が田安殿、右側が清水殿の広大な屋敷が連なった>
武道館から旧清水殿の屋敷を進むと吉田茂の銅像がある。銅像左下に清水御門がある。一族とはいえ門を別にしたことが分かる。NHK大河ドラマ「篤姫」でもう一人のヒロイン14代将軍家茂(いえもち)に降嫁した皇女和宮が、江戸に入って最初に逗留したのが、この清水屋敷である。
なぜ、清水家なのか。ここに清水が湧き出していたからだと…オソマツ。敵の侵入を迎え撃てるように四角いマスのような構造になっている門構えは1658年再建の2代目である。
<典型的な枡形門(ますがたもん)。門を登る砂利道は江戸時代の地形である>
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