年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

智恵子惜別・会津

2008-09-06 | フォトエッセイ&短歌
 「智恵子記念館」に等身大の長沼智恵子の写真が架かっている。『智恵子抄』の心身を病んだ智恵子のイメージしかない者にとってはアッと驚く迫力で迫って来る。色白のふっくらした丸味を帯びた健康的な東北美人で青春そのものである。
 女性解放運動のはしりともなった『青鞜』創刊号の表紙絵を描いたブルーストッキイングの「新しい女」と喧伝されるのに不足なき雰囲気を持っている。そして云う。『世の中の習慣なんて、どうせ人間のこしらえたもんでしょう。それにしばわれて一生自分の心を偽って暮らすのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの…』まさに先駆的な発言である。智恵子は明治19年の生まれ、22年に大日本帝国憲法が発布される。

<長沼智恵子の生家の台所土間から玄関に向かう。福島県安達郡油井村>

 彼女の発言は大正デモクシーの民主主義思想による女性解放の波に後押しされたのかもしれない。しかし、『青鞜』創刊の年には「特高」が設置され、主義者が弾圧され、治安維持法が公布されている。
 この事に彼女は多くを語っていない。1923(大正12)年、38歳の時に関東大震災がおこり、東京は廃墟と化し社会不安が起こるなか社会主義者の大杉栄・伊藤野枝夫妻と甥橘宗一が憲兵隊で虐殺された。
 彼女は「婦人の友」に寄せている。『もとより、かかる事件の忌わしい事は、法律にもとるからだけではありますまい。… 他人の生命に手をかけるなんて、何という醜悪な考えでしょう。暴力こそ臆病の変形です。』と国家権力の本質を突いて厳しく批判している。
 彼女は極めて寡黙で口の中で呟いてそれを飲み込んでしまうような話し方をしたという。そんな智恵子の発言だけに、彼女の生涯の光と陰を時代の中にあぶり出している。

<街道から部屋越しに裏の坪庭が見える。当時、使った織機が時代を映す>

 <あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川>智恵子はしばしば光太郎の元を離れてふる里の二本松に戻っている。彼女はそこで心からの安らぎを求めていた。
 彼女は慢性的な湿性肋膜炎を抱えていた。更に精神分裂症の兆候があらわになるのは1931(昭和6年) 46歳の時と云われる。
 症状は悪化の一途をたどる。大きな声で話す事もなかった智恵子が「東京市民よ、集まれ!」交番の近くで大勢の人を前に大声ワケのワカラヌ演説をする。隣家の塀を乗り越えて大声でわめく。連日連夜の凶暴状態が続いたとも記録されている。光太郎は困却し外出するときに戸や窓を厳重に釘づけにして出かけた。
 しかし、この壮絶な狂気に苦しむ智恵子の姿は『智恵子抄』に書かれる事はなかった。1938(昭和13)年、粟粒(ぞくりゅう)性肺結核が進行し最期を迎える。 享年53歳である。
   
<智恵子写真:パンフより。家は清酒「花霞」を醸造する酒造家。屋号は米屋>