「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

鱒沢氏の残影

2007-02-22 22:12:11 | 歴史・民俗
鱒沢館・・・宮守町上鱒沢上町(館跡の残される山野)


 さて標題の件・・・・

 遠野の謀反人三人衆・・・鱒沢左馬助・上野丹波・平清水駿河のことを大概は指すことで、遠野の歴史上、実在の人物としては、これほど後々まで不義不忠の輩と呼ばれ、その後裔の人達までも近年までは「系統・まぎ」が悪いとか、血筋が悪いと陰口を叩かれ、その方々の家に何か凶事が起これば「それみたことか、先祖がしたことでの天罰だ」・・・・なんていうこともあったそうです。

 平成の世になってからはナンセンス極まりないことでもありますが、この三人衆、慶長年間(今から約4百年前)に主家である阿曾沼氏をクーデターにより没落させた張本人であり、南部利直から大封を得て、遠野の盟主となったことが語られております。

 鱒沢左馬助は鱒沢氏第4代、鱒沢左馬助広勝といい、鱒沢氏は室町時代中期辺りに本家阿曾沼氏から上下鱒沢と小友の半分、約1千石を分知され分家した家でもあります。

 鱒沢氏は分家ながらも遠野家中随一の大身であり、本家御舎弟鱒沢殿と呼ばれ、代を重ねる事にその力は近隣に響き渡り、主家をも凌ぐ名声と勢力を誇るまでになったといいます。

鱒沢氏関連記事こちら


鞍迫観音・・・荒谷前・・遠野七観音4番鞍迫山福滝寺

 鱒沢歴代にも崇拝され、隆盛を極めていたと伝えられる。

 
 鱒沢左馬助は、遠野の政変での主導者であり、謀反に加わらない諸氏を電撃的に攻め滅ぼし、遠野を手中収めると、気仙世田米に亡命したかつての主家、阿曽沼広長が気仙勢を借り受け遠野奪還の兵を繰り出すとの風評を得ると自ら総大将となって蕨峠を越え、気仙へ攻め込む。

 序盤は気仙勢の大将格、浜田喜六を討ち取る強さを発揮するも、深追いしすぎたのか気仙勢の反撃に遭い、自らも討ち死にしてしまう。

 広勝亡後は、嫡男鱒沢忠右衛門広恒が跡を継ぎ、名を浅沼忠次郎と改め、父広勝の功により、南部利直より2千石を賜り、一躍南部家中の大身となった。

 旧主、阿曽沼広長によるさらに2度の奪還戦を退け、遠野は名実共に南部領となるが、金山経営による嫌疑をかけられ、忠次郎は出奔、太守南部利直の命により、共に遠野盟主となり大封を得ていた上野氏、平清水氏が追ってを発し、遂に捕縛されて切腹、忠次郎の子、千代松も処刑され鱒沢氏は断絶となる。

 後に平清水駿河も嫌疑をかけられ切腹、上野広吉のみ残るも失意のうちに病死とされる。


長泉寺・・・上町

 鱒沢広勝開基、臨済宗寺院・龍興山長泉寺(天正2年・1574)
 はじめ、高館跡(下鱒沢)に開基されるも現在の地へは江戸期の文化文政年間といわれる・・・・東禅寺末寺


 
 鱒沢氏は主家を追いやった謀反人と長らく語られてきた。
 しかし、一方では、南部氏により旧主の阿曾沼氏関連の事績は闇に葬られた痕跡もみられるも、何故南部家側に加担した鱒沢氏等が悪と後の世も語られてきたのか少なからず矛盾も感じられますが、遠野の政変が三人衆のみで行なわれた謀反という理由付けを南部家側が転嫁したものか、さらに鱒沢氏等の事績も闇に葬られたものだろう・・・。

 鱒沢氏は南部氏の策動に乗せられ、主家を追いやるもやはり南部氏によるあらぬ嫌疑をかけられ絶家となる運命を辿る。

 
 2000年4月9日、開基であり大旦那、鱒沢左馬助広勝4百回大遠忌が長泉寺で地元民によって執り行われたようでもあります。
 おそらく、左馬助が討ち死にした際に盛大に葬儀が行なわれたものと思いますが、その後、法要なるものは皆無であったろうと推測され、それこそ4百年余の時が流れての法要だったものと思われます。

 鱒沢左馬助には彼なりの遠野を守る何かがあったのだろう、それが南部家による策動に乗せられたとしても、頑なに守る何かがあったのだろう、その思いは今に生きる地域の人々により新たな息吹を受け、さらに古の領主の事績を偲ぶ姿として永久にその名は語られるのだろうと思います。


下町堰

 隣接の領主、上野広吉と共に鱒沢広勝が築いたといわれる下町堰。
 4百年の時を経ても今もなお上鱒沢地域の美田を潤す水源となっている。


 ※「遠野文化誌5・6・7」遠野物語研究所 千葉氏 著 小冊子一部参考
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4 コメント

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裏舞台を。 (romi)
2007-02-22 22:59:38
鱒沢姓3件、上野姓8件と電話帳では確認できます。
少ないですね~
血縁とは限りませんが辛い時代を超えてきた感じがしますねー。
堰を見て思います。多くの偉人の上に我々が生活している事を、そして忘れてしまっていることを。
遠野を「護る手段」として、傍から見れば「裏切り者」扱いされてしまう・・・・・悲劇の裏舞台を検証してください。
一族でも右左に分かれて「血」を護ってきた皇族然りです。
クーデターには訳があったでしょうからね!
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まさに・・・ (とらねこ)
2007-02-23 15:23:44
romiさん
まさに仰せの通り、我々があるのは先人の苦労や事績の上に成り立っていること、歴史あってこそのこと、また我々も次世代、後世につなげること、これが人の宿命なのかもしれません。

上野広吉の家系は、南部藩士として生き延び、鱒沢氏に関しては、多田氏を名乗ったとか、平清水氏は菊地氏、新谷氏・・・また浅沼姓も阿曽沼氏や鱒沢氏に繋がる姓名でもあるようです。

歴史の裏というか闇の部分、これらこそが大切なことであり、勝者に消された敗者の歴史、歴史という分野に関るものとしては必須なことでもあると思います。

ご教授を賜りながら進めていけたらと思っております。
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闇に葬られた歴史 (藤九郎)
2007-02-23 20:49:50
阿曽沼・鱒沢氏に限らず南部氏によって闇に葬られた武将は多いんだろうなあ、と思いました。

再評価というか、見方が変わるまでに400年という長い時間がかかっているということに歴史の重さと難しさを感じます。

鱒沢氏らの再評価も期待したいものです。
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長い年月 (とらねこ)
2007-02-24 09:12:29
藤九郎さん
勝者によって作られた歴史、闇に葬られた敗者、これは仕方のないことでもあると思いますが、それでも敗者の歴史は静かに口伝として伝えられ、現代の世にて大きく取り上げられる、実に4百年は経過という長い年月を要していること、仰せのように重さと難しさが伴うものでもありますね。

鱒沢氏、上野氏関連では只今本編サイトにて阿曾沼家臣団の再構築をしておりますので、これらを更新した後にでもさらに詳しく取り上げたいと考えております。
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