経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

立ち枯れの戦略

2015年03月08日 | Weblog

その後日談とは、家康は
昨日述べた秀吉の戦略を読んで、
あえて自分に一目置かした上で秀吉の配下に
はいった、という話である。




その家康の大戦略とは、秀吉の立ち枯れを待ち、
自分が天下人になるということである。

それは時間差、すなわち自分と秀吉の年齢差を
利用したのである。

私名づけて「立ち枯れの戦略。

[泣かぬなら、泣くまで待とう時鳥]



織田信長、豊臣秀吉、それに徳川家康という
三人の人間性をそれぞれ後世の人が句に詠んだもので、

「泣かぬなら殺してしまえホトトギス」が信長。

「泣かぬなら泣かせてみせようホトトギス」が秀吉、

家康は「泣かぬなら泣くまで待とうホトトギス」とされたもの。



通常は、無理せずに機会がやってくるのをじっと耐えて待つ、
という意味に用いられる言葉である。



「じっと時の経過を楽しみに待つ」に、
家康の戦略があり、ただ我慢、
耐えていたのではないのである。



「臥薪嘗胆」の話を思い出しまでもなく
人は、勝算 (夢。目標) のないところに
我慢はできないものなのである。

忙しい現代人には、
なかなか考え及ばない戦略である。

それだけに、経営的活用には、大いに行かせるし
事実、私自身、多くの企業に活用してきた。

家康さん、ありがとうと御礼を申し上げたい。






くれてやるわい

2015年03月07日 | Weblog


「その戦い、くれてやるわい」


人は行動する瞬間(ここでは勝ちにいったとき)最大の隙が出る。
だから勝つために、隙、弱さを見せてやる。


これを、戦いに活かした典型的例が、小手・長久手の戦い。


秀吉は、小牧の陣で、この戦略をとりました。
家康に負けることで、家康を臣下におく、

家康を臣下に置くことで、念願の「天下取り」が成就
(秀吉の大戦略)。

そして全国の不満分子のぶつぶつを収めることに成功しました。

それは家康を臣下に置けば、天下を得られる、という大戦略が、
さきにあったからです。

戦いそのものにすら、戦術に使っている。
秀吉のまさにすごさといえましょう。

つまりこの場合、家康さえ治めれば天下統一が具現できる。
そのためには、この戦、くれてやるわい、という大戦略。
負けを撒き餌にして、家康を釣る。

繰り返しますがそれは家康をつり上げることで天下をとれる、
という確信があったからに他ありません。


その後、戦をくれてやるだけでは、まだ心許ない、と思い
嫁に行っていた自分の妹(朝日姫(あさひひめ).秀吉の異父妹)
を離縁させ、徳川の第二正室として付けている。

それでも足りないとみて、
実母まで、送り込む、といった徹底ぶりである。
(ちなみに、この二人は、家康への人質ということになる)

常識で考えれば、これは勝者が敗者にとる態度ではない。

いかに秀吉が、大戦略の具現にあの手、この手を
惜しまなかったか、の歴史的事実である。


これには後日談があります。
たぬきの家康、そうした秀吉の戦略を読んでいて、
あえて自分に一目置かした上で
秀吉の配下にはいった、という話があります。



なぜ配下にはいったか。
それは、明日にでもお話したいと思います。






経営者へ2つのすすめ

2015年03月06日 | Weblog
自分は、消費者、お客様のことなど
まったくわかっていなかったのだ、
ということがわかることは、次の2つのこと。

1に、自分が消費者として買い物をするときの気持ちで、
消費者は、我が社を選び、あるいは選ばず、
我が社の商品を買い、あるいは買われないということ。

2に、自分が消費者として買い物をするときの気持ちで、
消費者は他社を選び、他社の商品を購入されているということ。

そんな想いが頭を過ぎるようになったら、
わかったとみていい。

そして自分の組織の連中が、なんと自分たち経営の都合で
ものごとを考え、動いているかに驚くだろう。

それが客観だ。
消費者は、そうした視点で我が社を観ているのだ、と。


おめでとう。脱「経営者」思考!
消費者として仲間入りだ。

組織内に、組織単体という視点だけの部分最適の判断ではなく、
組織とその外をワンセットにした全体最適の判断ができる人が、
組織に1人でもいいから「いる」ことが、
いわば企業の死活を決めると、いってよい。

組織内部では、「部分最適ではなく、全体最適でものを見よ」
と配下に口を酸っぱく言っている経営者も、
彼のいう考える「全体」とは組織全体、組織内部のこと。
外は含んでいないことが殆どである。


真の意味の「全体最適」、すなわち組織全体ではなく、
組織の外まで組み入れ、俯瞰的にものごとを捕らえ、
その最適、最善手を図ることこそ、求められることである。

そんな余裕などない。
それでは企業が損をする、

といった意識、あるいは無意識が、ブレーキとなって、
全体最適の、全体」を狭義に設定し、
それでよしと甘んじていたのかもしれない 。

経営者よ、消費者体験をなされ。
経営者よ、日常生活の中に過ごしなさい。



脳を創る

2015年03月05日 | Weblog



「継続は力」と、言われている。

これは、「やろう」といった計画自体は
いくらでも立てたり口にしたりできても、
いざとなると実行しない。
やっても続かない、ではなんにもならない。

逆に自分や自社の評価を落とすことにもなりかねない、
という含蓄が背景に込められている、と理解している。

継続は難しいことである。
が、それだけに継続をなしたものは評価されるし、
そのことが力となる、ということであろう。

つまりこの「継続は力なり」の意味は、
1にどれだけ継続出来るかどうかが本当のその人の実力だ、
という意味と、2に小さなことでも一歩ずつ一口ずつ続けていけば、
成果という意味での力を得られる、

という2つの意味がある、と考えている。

逆に言えば多くの人が、
なかなか物事を継続ができないということだ。
そうした人間の持つ弱さ、だめ加減を背景にしている
といった皮相的な教訓とも受け取れる。

「継続」が、どうして重要かというと、
1に、人にしろ、企業にしろ、信用・信頼は時間を
経てこそ蓄積されるからである。

その意味で、思いつきにきわどさがあるのは、
こうした時間軸という意味での試練に耐えていないことである。

だから何事でも、「継続」が出来ない人は、
約束や時間を守れない人と同様、周囲から信頼、信用されない。
これは古今東西の定理といってよい。

2に、人間だけではないが、
一定のことを意識して継続することで無意識に出来るようになる、

私は、これを脳の回線作りといっている。
古い習慣を改め、新しい習慣に置き換えていく、
これを習慣の改更という。

企業でいえばこれまでの悪しき組織風土や体質を改めること
すなわち経営革新になろうか。

脳力開発でいえば、
継続できない人、企業は進歩発展出来ない、
ということになる。

継続が脳力を創る、と私が言う所以である。


しきり

2015年03月04日 | Weblog
しきりに私が言っていること。

人はとかく、自分の心に
しきりに「しきり」を描く。


外部や過去からのすりこみであろうと、
それを刷り込ませ、限界を作っているのは自分だ。

経営でも然り。
せいぜい10年構想。
10年で廃業する気なのだろうか。

私は30年構想を必定とし、
かつ毎年これをつないでいく
人生事業計画を進めている。
これは人生100年計画に
事業100年計画を重ねるためのユニットだ。

いかに全体を想定し、最適化を描けるか、
いかに長期の目標を掲げ、長期的な観点から、
最適化を描けるか

いかに俯瞰的に、大きな視野、
大きな全体を描けるかが、
経営者の器の大きさ如何と、申し上げたい。

ならば器を広げればいいのだ。
視野が広がること。大きな全体を描くこと。
、実際にやらねばわからず、やればわかること。
では実際にどう体感したらいいだろう。

以下、私のお勧め、あれこれ。
できるだけ大きな世界地図、日本地図を壁に貼る。
それも国境や行政区分がないものがいい。
(理由は、後述する)

できるだけ小高い丘に上がって、
そこから360度の視野を見下ろす
あるいは見通しのいい平地に立ち、天を見上げる。

海辺に立ち、その向こうのアメリカなり、中国なりの方向をみる。
高層ビルの上から、豆粒みたいな人や車の往来を眺める。
といった、「なんだそんなことを」といったことだ。

なんということはない。
人は、自分自身をちっぽけに感じるとき、
大きな世界をイメージできるし、また大きな世界を描くとき、
自分の小ささを感じることができるのである。

元来、宇宙は広い。世界は大きい。

それを
「自分」という仕切りで仕切る。
「自分の課」という仕切りで仕切る。
「我が社」という仕切りで仕切る。
「我が集落」という仕切りで仕切る。
「薩摩川内市」という仕切りで仕切る。
「鹿児島県」という仕切りで仕切る。
「九州」という仕切りで仕切る・・・・

といったように細切れに仕切るから、
狭くなる、そして縛られるのだ。
自分の思考、行動に仕切りを入れるのだ。

もともと、自分とそれ以外という存在しかない。
その自分も、自分と自分以外のつながりであり、
そこに仕切りがあるわけではない。

その仕切りはすべて人間が、自分が勝手に仕切ったものである。
その証拠に、県境なり、市の堺に実際いってみたらよかろう。
そこには行政のたてた区分版以外、どこにも区分はないのである。
ましてや、思考のなかに仕切りがあるはずはないではないか。

だからせめて、人生や経営を考えるときぐらい、
大きな思考、縛られない考えで考えてみようではないか、
というのが、いいたいことである。

大望

2015年03月03日 | Weblog

「大望」という言葉が、私は大好きです。
韓国ドラマ「大望」のことではない。


辞書を引く。

大望(たいもう)

・大きな望み。たいぼう。「-を抱く」

類語として、

野心 ・ 志望 ・ 大志 ・ 希望(に燃えて) ・ 青雲の志

大きな望み ・ 雄途(につく) ・ 雄図(空しく~)

野望(をもつ) ・ 将来を期す ・ 雌伏する

といった言葉がある。



私が好きな理由は、言葉の響きともに、

あの「太公望」からの連想だ。



釣りをして、魚ではなく国をつり上げた、
ということで釣り好きの人を「大公望」といいます。

父母、家族と自分の国を滅ぼされ、
孤児となった彼、望は、敵への復讐心を
「亡国を再興する」という戦略に置き換える。
個々がすごいところだ。
他の3人の孤児とともに20数年後にはそれを実現した。

この大公 「望」の話です。
すごいです。戦略の凄みです。

彼のように変わらぬ大望をもち、
一つの戦略をも持ち続け、
その戦略を共有する人数をじわじわ広げていったら、
国家さえ作れる。

このように、戦略は大きさと心の広さが大いに関係します。
ここは目先の勝ち負けにとらわれず、勝ちと功を相手に譲り、

それをもって、自分の戦略を成就する、といったことに対して、
「あの人は器量が大きいね」とか
「度量がある」といった言い方がされる。
また「人望がある」とも言われます。

それはその通りなのですが、大望をもち、
その具現のため小異を捨て、功を人に譲るといったことで、
彼の周囲には人が集まる。



こうしたことで他人から見たら器量や度量、人望がある、
とあるように見える、ということでしょう。


逆に言えば、
それは大望、戦略があるからこそ、ということができる。






ああら、不思議

2015年03月01日 | Weblog
ああら、不思議


組織の外、消費者のことまでを経営判断の範疇として、
その全体最適を図ることが、組織のトップだけでも浸透すると、
組織は、次第に活性化してくる。

その理由は、組織内部、我が社のため、わが課のため、
今期、今月の予算達成のため、といった、
「のため」が、実は足かせ、縛りになっていたため
と考えられる。

だから内部と外部の、そうした仕切りが取れると
一気に、視野が広がる。思考が広がる。

よく「先の見通しが立たない」
「先行き不透明だ」
「お先真っ暗だ」
「展望が開けない」
といった言い方をする。

そう言っている人をいちいち調査したわけはないが、
その人たちが位置している場所は、
上空ではあるまい。山のてっぺんではあるまい。

先の見通しが立たないのなら、
見通しが立つ場と位置に立てばいい。
あるいは
眼鏡の度数を上げるか、望遠鏡を使えばいい。

先行き不透明なら、透明化を図る手立てを打てばいい。
それができないなら、見えない先では見ず、
この今見えるところで、仕事をすればいい。

お先真っ暗ならどうするか。
灯りを付けたらいい。
普通の電灯で駄目ならサーチライトでお先を照らせばいい。
明かりで失せない闇はないのだから。

展望が開けない、のであれば、
どこかの山上に行って展望台に上がってみるといい。
展望台と名が付いているところで、
展望が開けないところはないのだから。

そもそも部屋にいて、展望が開くはずはないのだ。

要は、
見通しが立ち、透明で、明るい、展望の開ける
場を探し、自分が手足を動かし変えたらいいのだ。

それを、
見通しが立たない、不透明だ、真っ暗だ、開けない、
と口で言っている。言うことで、「仕切り」を増やす、
といった逆のことをしきりになしている。

自らブレーキを踏んでいながら、
この車、動かなくなった、と言っている。
家の中にいて、外が見えない、といっている。


といったことで、
組織のトップの思考、判断が全体最適化と言った場合の
その「全体」が拡大し、外をも含まれることになれば
当然、外の消費者も見えてくる。

トップの思考、判断の仕切りが取り除かれると、
あら不思議、いや不思議でも何でもなく、
組織は、次第に活性化してくる。

仕切りが外れると、各人、個々、何をなさねばならないのか、
その優先順位までを含めて、見えてくる。
やはり、あら不思議か。