経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

人対人の関係に

2011年05月10日 | Weblog
経営革新の第一の重点として
個々の消費者に対し、作り手・売り手側も、
一個の人間として如何に対応できるか、
という新たな命題への取り組みが必要であることと、
その理由について、述べた。

次に、経営革新の第二の重点として、
私は、守成を堅めよ、ということを挙げたい。

守成こそ経営の大部分を占める根本である。
が、にも関わらず、起業・創業時はむろん、
その後も、その認識が希薄という点である。

事業は継続性を命題としている。
存続し続けてこそ、生き続けられてこそ
高邁な理念を果たし得て、社会にも貢献できる。
起業がゴーイングコンサーンである、と言われる所以である。


しかし創成と攻撃に懸ける強い情熱と意欲に比べて、
守成には関心も意欲も総じて乏しい。

確かに守成は、創成と比したら平凡で単調である。
だからこそ守成に軸足をおいた理念と戦略を
構築しておく必然性があるのだが、これが見あたらない。

またかりに高邁な理念と戦略が構築されていても、
組織全体、とりわけ消費者との接点部分に浸透されていない。
つまり消費者に見える、感じる、共感されるよう
様々な方法で具体的に示され、見える形化
されなければならないが、これが希薄である。

企業から見たら「消費者接点」、
これを消費者からみたら、「企業者接点」になろう。

この接点が、消費者が購買選択の意志決定をする際の
判断材料になるのだが、ほとんどの企業では、
企業者接点には、企業者はいない。
代わりにその接点にいるのは、「企業の論理」
だけ、といって良い企業が、ほとんどではなかろうか。
その接点は、消費者の方は、「者」、
すなわち人間であるのに対し、企業側では
「者」、すなわち人間ではなく企業の論理、

すなわちせいぜい「もの」か、
レコーダーかロボットに代役をさせている。

これでは、企業にとって致命的ではないか。
ならば、これを「者」対「者」、
つまり「人対人」の関係に持って行くこと。

このことが、
「守成を固める」という経営革新の
第二の重点になる、といいたいのである。

一個の人間として

2011年05月08日 | Weblog
これまで優良と思われていた企業が続々不振に陥っている。

経営の本質は、もとより
「如何にユーザーから支持されるか」
という側面にある。

だがほとんどの経営者の建前はともかく、
本音は当面の自社の業績を伸ばすことに、
関心とエネルギーが集中している。


立派な経営理念を掲げ、
口では顧客第一主義とか現場主義だと言っている。

だが文字通り言っているだけ。
消費者からは、「それは彼らの売る手段のひとつ」
第一に大切なのは我が身、次に我が企業、
と看破されている。

そのいい例がクレーム事件で見られる
あのパターン化された謝罪セレモニーである。

まず広報が出てきて、
人間性などみじんも感じられない対応。
最後に渋々トップ、それも3人ぐらいの引き連れて
頭を下げる、といったおなじみの儀式の
繰り返しが、消費者の記憶蓄積となる。

その結果、消費者は、次の2点に疑義を抱き、
その儀式を見つめることになる。
1に今、消費者の立場で考え、具体的に行動しているか。
2に買った後はどうなのか。冷たくなることはないか。

そうして、さらにその後の企業なりお店なりの選択の
選球眼を厳しくしているのだ。

つまり、他山の石、人ごとから我が身に起き換えて
行動することになる。
そしてその自分の抱いた疑義が払拭されない限り、
その企業に背を向ける。

こうしたことは、畢竟、
法人格で如何に着飾ったとしても、
消費者は、法人格の云々ではなく、
その仮面と着飾りを脱いだ経営者の人間性を
見るようになった、ということだ。

人間として、人間に要求や不満をぶっつけ、
聞いて欲しいと行動し始めた、ということだ。


だから個々の消費者に対し、作り手・売り手側も、
一個の人間として如何に対応できるか、
という新たな命題への取り組みが
経営革新の第一の重点になる。

力とは

2011年05月06日 | Weblog
力とは何なのか。
徳とはなんであるのか。

私の、そもそもの関心はここにある。


政治においても経営においてもと思うが、政治は知らない。
だから経営では、ということで、考えていることを述べる。

押すことにより相手が押さえ込まれる、といったように、
その力にひれ伏す、ということで、
戦略は語られてきている。

が、これでは相手も押し返してくることもあるし、
こちらの力に恐れをなし、相手が逃げ去ることもあろう。
こうなればまた、逃げ足を上回る追い足の力、
という新しい問題も出てくる。

引けばどうかといえば、
相手から離れ、相手もまた離れてしまう
といったこともあるが、逆に寄ってくることもある。

これを徳(の力)というのではないだろうか。


ここで徳とは、漠然と目に見えない引力、
すなわち魅力と解しておきたい。
 
力により押す経営を、徳を用いないありかた、
あるいは徳のない経営とするなら、
私は、相手が魅せられ、寄ってくる経営のあり方を
ライフワークにしている。

寄ってくること、それが徳の力であるとしたら、
徳のある経営を行えば、その事業は、得する、というのが、
私こと、凡夫の考える小理屈なのである。
23の時、当時ニチイの社長、西端行雄氏(故人)の
経営のあり方を知り、矢も楯もたまらず、鹿児島の会社を辞め、
大阪のニチイに入った。

57年、西端市長死去後、氏の徳の考えは払拭され、
力の経営に代わった。
変わったのでなく代わったのである。

その年、私はニチイを退社。今の道に入り、
お客様が「寄ってきて、支えて下さす」経営の具現を目指している。



考える人

2011年05月04日 | Weblog
ふと考えたことだが、
人は「ものを考える」といったとき、
どういう姿勢をとっているのだろうか。

ロダンの「考える人」のように、顎に手を当て
額にしわを寄せて。なんだろうか。

私はあれは「嘘」に思える。
人は、困ったとき「頭を抱える」といった言い方をするが、
どうだろう。

私の体験、記憶でいうなら、
自分がひとりで悩んでいるとき、顎に手や、
頭を抱えた経験も記憶は全くないのだが。

事実、ここのところ、多忙でたくさんの処理を
同時処理しなければならない。追いつかない、
といった状況の日が続いている。

列車ではメールしたり、書類を読んだりするが、
車もときはそうもできない。
では、問題を考えているかというと、
まったくそうではない。
要は、ぼーっとしているのである。

事務所ではどうか。
確かにばたばたはしているが、
やらなくてもいい部屋のレイアウトをいじったり、
急がなくていいホームページの工事をしたり、した。
あまりたまっていないのにスクラップもした。
眠たいのに夜更かししビデオもみる。

これは私の場合だけかもしれないが、
あるいは私の癖であろうか。

考えるときは、決まっていろんなことを、
並行してやることで体を動かしているのだ。

ふと、そう考えた、というかそのことに気づいた。
人は人に見せるポーズと、自分だけの時のポーズは
違うのではなかろうか。

だから映画や舞台の俳優さんたちみたいな言葉や動作、
たとえば大きく首や手を動かし、
顔の筋肉を振るわせて言動をする。
たとえば「考え込んでいる」という姿を、頭を抱え込む、
小走りで部屋をせわしく動き回る。

これらは見せるポーズであり、
まず私たちの日常生活では、
普段見られないものではないか。

予測力を付ける方法

2011年05月02日 | Weblog
当てずっぽうでもいいから、
当たり障りのないことを読むことで、
驚くほど情勢判断力はパワーアップする


脳のシクミ上、こ
の道、あの道、どちらを選ぶか、といったシナプスも、
この人と結婚するか、あの人とするかのシナプスも、
道路で1円落ちている。
拾うか、無視するかの判断シナプスも、
首をくくるか、くくるまいかのシプナスも、
かかる負荷の違いはあっても同じ回線、同じことである。

これ、一事が万事といってよい。

だから、反省は、あくまでおきたこと、あったことを
認めた上の「反省」でなくてはならない。


ましてや「このこと、なかったことに」
といったことはありえないし、万が一あったとしても
それは認めてはならないのである。



次に、それはどうしておきたのだろう、
という理由を明確にし、客観的に押さえた上で、
できれば複数の対応策を考える


そうした日常での何気ない些細なことを
繰り返すことで、脳の回線が作られる。

こうしたことでの脳の回線つくりこそ、
脳力開発、情勢判断力の狙う研鑽、
と私は考えている。

それを心の負担を避けるためにか、
あるいは逃避的に、ただ「反省」といったことでは
その反省は、言葉で終わり、
その判断違いは、まず繰り返されることになる。

確信犯的判断違いも少なくない。
その典型が、談合事件。
その繰り返しを見よ。

繰り返しつつ、
さらに、些細なミスすらも、
「ひとつ間違えば命取り」、
「ひとつ間違えば、俺の会社でも起きること」、
といったように重さを加え、「反省」をすることで、
将来(さき)に起こりえる命取りを救う確率が、
高くなっていくのである。

これが予測力、情勢判断力の真髄である。