経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

功名が後に-4

2007年01月02日 | Weblog
現在、私の「功名が辻」(司馬遼太郎著、文集文庫)の、読み直しは、第2巻、中程である。読書の進捗から離れて、この稿を続けたい。
サブタイトルを「一豊とリクルート」と置く。

戦国時代、信長が天下統一を画し動いていた頃の、主人と武士の雇用関係は、今とまったく変わらない。武士は、主人を選び、見切ることも自由に出来た。当然であろう。自分の命だけではなく一家の命丸ごとの雇用関係であるから。だから良い主人を選ぶために、退職を何度も繰り返した武士も珍しくなかった。最適の就職先、主人が見つかるまでニートをやっていた。

 この雇用関係が信長株式会社だけが、例外であることはありえない。むしろ武田株式会社と違って、信長KKは新規企業。それも急成長している。いくらでも人が欲しい。だから見込んだら夜盗も乞食も採用した。

組織を成長させるためには、人、それも人材が不可欠なことは、この時代も今も変わることはない。ましてや全国統一を目指していた信長KKであれば、なおさらのこと。 過酷な労働環境、条件の会社に人が集まるはずはない。

「あの会社は高給で出世も早い能率給だが、社長が凶暴でちっとしたミスでも切腹させられる」といった評判の会社に、人材が集まり、人材が育つわけはない。これまた今と少しも変わらない。
 
 何を言いたいか。信長が凶暴で、部下に過酷な命令を下し、といったイメージは、昨日も触れたように、信長の敵対位置にある輩(やから)のデマ。そのデマをもとに小説家が、それをおもしろくおかしくするため創作した、といったところだろう。

 そのことは、繰り返し司馬さんの著書の中でも出てくる。一豊も求職活動し、信長KKに就職した。たまたま分社の上司であった秀吉支社に出向したが、彼が独立法人の子会社の社長、殿様になったのを機会に、千代と相談し、本社を辞め秀吉株式会社の社員になった、会長は信長、社長は秀吉、この頃の一豊は部長クラスということである。

 彼が、本社出向社員(与力)から、本社を辞めて、この子会社にかけたのは、将来、秀吉が本社社長になる、のではという千代さんの読みとアドバイスもあったとされる。その折、後継者は信長の子がいたし孫もいたし、さらに専務には柴田勝家がいた。もしこのとき柴田や明智へついていたら、山内一豊のこの物語は無かった。そのまま本社に残っていたとしてもどうだったろう。

 人、ここでは上司を選ぶ目もさることながら、著者も言っているとおり、幸運もまたリーダーの資質に加えなければ、説明がつかないことが多い。
秀吉は、信長に賭け、一豊は、信長にかけた秀吉に賭けた。

 著者が軽妙な語り口に乗せて、繰り返し指摘していることは、一豊はけして優れた武将ではなかったということである。
 では凡庸な彼が、なぜ一国一城の主となり、維新時の賢候の一人として名をはせ、明治になっても伯爵として残ることが出来たか。著者が、一豊に関心を持ったのはこの点であろう。それで夫人同伴の物語が本となった。

 そもそもこの時代で、夫人と二人三脚で、と功名を目指す、といった武将が他にいたであろうか。逆説的にいえば、そのこと自体、当時の人々の目線でみれば、彼が凡庸な武将であったことを証明するものでる、と考える。
 
 むろん、そうした夫婦二人三脚で、といった発想そのものに、秀吉をして「一豊は、奇人(ここでは、武人としてはおかしげな夫婦のありかたよ、といった風な意味で使っている)よ」といわしめた点であれば、それは独創性かもしれないが。だがそれすら千代の影の方が大きい。
 
 次、その5は 「一豊は外野手だった」というサブタイトルで、論を進めたい。

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