亡父・長尾修の45歳頃、現役バリバリ当時の姿見。
汗水垂らして働けば報われる時代だったと思う。農家の9男坊が、大分の片田舎から満州に渡り電力マンになり、敗戦を迎え無一文で引き揚げ、土木屋になった。高度成長期の土木屋は自分達が造り上げるものを゛作品゛だと誇りを持っていた。今の我が国に対しては、「箱モノなど造ってタマルかっ」と憂えていると思う。
北関東のダム工事現場での写真(左)、断崖絶壁に立っている。屋久島の工事現場(右)、背景は荒海。よくもまぁ、こんな足場で仕事をしていたものだと感動するしかない。全国の工事現場を駆けずり回っていた。もちろん私はまだ生まれていない。
遊びも上手かったようだ。昭和を代表するムード歌手松尾和子(当時銀座のクラブ歌手だった)とのツーショット。
仕事も遊びもキラキラしていた時代だったのだと思う。
そして、先の大戦を忘れることなく、各種慰霊祭には頻繁に足を運んでいた。自分は結核で死の目前にあり兵役に就くことができなかったからである。
どうする?我々平成の大人たちっ!俺たちは仕事も遊びもキラキラしているかっ?!
汗水垂らして働けば報われる時代だったと思う。農家の9男坊が、大分の片田舎から満州に渡り電力マンになり、敗戦を迎え無一文で引き揚げ、土木屋になった。高度成長期の土木屋は自分達が造り上げるものを゛作品゛だと誇りを持っていた。今の我が国に対しては、「箱モノなど造ってタマルかっ」と憂えていると思う。
北関東のダム工事現場での写真(左)、断崖絶壁に立っている。屋久島の工事現場(右)、背景は荒海。よくもまぁ、こんな足場で仕事をしていたものだと感動するしかない。全国の工事現場を駆けずり回っていた。もちろん私はまだ生まれていない。
遊びも上手かったようだ。昭和を代表するムード歌手松尾和子(当時銀座のクラブ歌手だった)とのツーショット。
仕事も遊びもキラキラしていた時代だったのだと思う。
そして、先の大戦を忘れることなく、各種慰霊祭には頻繁に足を運んでいた。自分は結核で死の目前にあり兵役に就くことができなかったからである。
どうする?我々平成の大人たちっ!俺たちは仕事も遊びもキラキラしているかっ?!