12月18日から22日までスリランカへ視察に行った。平野前官房長官からのお誘いでなかなかハードなスケジュール。日程の都合で途中離脱であったが、それでも新しい発見があり、貴重な視察であった。今後の外交問題解決のために参考となるであろう。本当はもっと沢山の写真と、視察成果について記したいところであるが、膨大な量になってしまったのでブログではかなり掻い摘んで記すことをお許し願いたい。
まずは、コロンボからゴールへ。途中2004年のスマトラ沖大地震の大津波で壊滅した地域を視察。
ここには、日本の援助7000万円で警察が建てられていた。スリランカは昔から大変な親日国家。インドと共にイギリスの植民地で戦後独立。暫くは日本が最大の援助国だったが、今は中国が最大。ODA削減もここに影響が出てきている。
ゴール市内には世界遺産、「ゴール旧市街」。あの東インド会社の倉庫が残っていた。400年前のもの。植民地政策の用意周到さ、戦略、利点、悲惨さなど松原衆議院議員と語り合う。
スリランカには高速道路がない。これを日本と中国の借款で建築している。3区間に分かれており、南から、熊谷建設、大成建設、中国政府と請け負う。
2日後の日本法人の皆さんとの意見交換会に出てくることだが、ここでも中国の勢いは凄まじい。人件費だ。スリランカ政府も中国政府も認めていないことだが、どうも服役囚を中国から連れてきて働かせているらしい。要は人件費が要らないということ。凄まじい。
帰りのバスで、インド洋の夕日を拝むことが出来た。
夕刻は各大臣との意見交換会と懇親会。私は公共大臣と1時間程意見交換をした。驚いたことに、「真珠の首飾り」という認識が甘いように感じた。スリランカのハンバントタ港では、100%中国資本の深さ17mの港が作られている。津波の復興援助だ。「そのうち暫くしたら5万人規模のチャイナタウンが出来るかもしれませんよ」といったら、「中国は資金援助と公共事業を提供していくれている、重要な友好国だ」と話が少々かみ合わない。「インド洋の平和があり、日本もシーレーンが確保され心から感謝している」に対しては話が弾んだ。生活インフラが緊急の課題であり、まだまだ公共事業が必要。我国としても官民一体となって支援したいと思うのだが、後の日本法人の皆さんとの意見交換会を聞くと少々事情が違うようだ。
翌日は軍のヘリで30年間続いた内戦で最も激戦地であった北部地域を視察した。どう考えても「これはロシア製だよなぁ」と不安を隠しながら、実践経験豊かな軍のパイロットに命を預け移動。燃費が悪く、えっ途中で給油?・・・・・無事到着。
アジア全体としてはシンハラ人よりタミル人が多い。ところが、イギリス占領下では2割しかいないタミル人を下級官僚に重用し、8割を占めるシンハラ人を相当虐げていたようだ。独立後は、立場逆転。シンハラ人はタミル人を差別するようになる。そして、「タミル・イーラム解放のトラ」反政府ゲリラ軍との内戦勃発となる。タミル人はヨーロッパにユダヤネットワークにも似た大変なネットワークを持っている。賢く、手先が器用で、民族愛に満ちている。よって、ゲリラ軍を資金的に後方支援するようになる。一方のシンハラ人のバックは?私は中国が相当手を貸したのではないかと思っている。現政権が武力で制圧し、内戦が終わる。現政権は225議席中160議席を確保。
現地では、住居を追いやられ、再定住する人達を支援する各国の団体が大変な活躍をしてくれていた。現地日本NGОの方々とも意見交換をした。この劣悪な環境でのご尽力本当に頭が下がる。この再定住地は地雷が取り除かれているが相変わらず危険地帯であることに変わりはない。因みに我々が移動する相当の長い距離の道路を、軍が1キロ毎程度に監視体制を取ってくれていた。ほんと、視察のためにどれだけの方々が動いてくれたのかを考えると気が引き締まる。
「子どもの笑顔だけが家族の救い」。あぁ、日本は便利で平和である。衣食住が確保されていることがどれだけ有難いことかを頭でわかっているつもりでも、此処で痛感するとは情けない限りである。
そして、地雷原。すぐそばには学校がある。地雷はテロ組織が自分達で作る。資金は前述したように豊富。
この日の夕食は、スリランカ日本大使公邸で懇親会。豪華な食事会?晩餐会?そんな時代ではない。確かに建物は豪華でしたが、日本食のお弁当でした。豪華な食事は税金の無駄遣い。当然、大使のレクチャー付きで、2時間、レジメ、資料を見ながらみっちり勉強。
翌朝、また「あのヘリ」でトリンコマリーへ。広大な砂浜でイルメナイトが採れる。採った分は海から打ち寄せられる。はは、すげぇ。レアアースにも、核燃原料にもなる。
この工場を作ったのは某日本企業。内戦で工場を手放した。今はスリランカ政府が経営している。素人が見ても実に古い機械ばかり。日本の経済産業にも役立てることが出来るようその方法を日本に帰り模索。
夕刻は日本法人の皆さんとの意見交換会。やはり社会主義国家という点、植民地支配が長かった為、少々自立心に乏しいか?日本現地法人とスリランカ政府との間では必ずしも全てが上手くいっているというわけでもなく、今後、日本政府として交渉する必要がある部分も散見された。外交上、民の力も必要な為、撤退を余儀なくされるようではいけない。そして、中国の進出が著しい。この辺りも論点である。
私はここで離脱。宴席の後、深夜1時過ぎのバンコク行きに搭乗。お土産を買う時間がなかったので、バンコクで買う羽目に。でも、セイロンティーを沢山頂いたのでこれで許してもらおう。
紅茶が美味しく、皆さん視線が合うと満面の笑みを浮かべて応えてくれる。そんな国だった。記し切れないほど多くの方々にお世話になった。これら感謝は本番報告にて。
以上。
まずは、コロンボからゴールへ。途中2004年のスマトラ沖大地震の大津波で壊滅した地域を視察。
ここには、日本の援助7000万円で警察が建てられていた。スリランカは昔から大変な親日国家。インドと共にイギリスの植民地で戦後独立。暫くは日本が最大の援助国だったが、今は中国が最大。ODA削減もここに影響が出てきている。
ゴール市内には世界遺産、「ゴール旧市街」。あの東インド会社の倉庫が残っていた。400年前のもの。植民地政策の用意周到さ、戦略、利点、悲惨さなど松原衆議院議員と語り合う。
スリランカには高速道路がない。これを日本と中国の借款で建築している。3区間に分かれており、南から、熊谷建設、大成建設、中国政府と請け負う。
2日後の日本法人の皆さんとの意見交換会に出てくることだが、ここでも中国の勢いは凄まじい。人件費だ。スリランカ政府も中国政府も認めていないことだが、どうも服役囚を中国から連れてきて働かせているらしい。要は人件費が要らないということ。凄まじい。
帰りのバスで、インド洋の夕日を拝むことが出来た。
夕刻は各大臣との意見交換会と懇親会。私は公共大臣と1時間程意見交換をした。驚いたことに、「真珠の首飾り」という認識が甘いように感じた。スリランカのハンバントタ港では、100%中国資本の深さ17mの港が作られている。津波の復興援助だ。「そのうち暫くしたら5万人規模のチャイナタウンが出来るかもしれませんよ」といったら、「中国は資金援助と公共事業を提供していくれている、重要な友好国だ」と話が少々かみ合わない。「インド洋の平和があり、日本もシーレーンが確保され心から感謝している」に対しては話が弾んだ。生活インフラが緊急の課題であり、まだまだ公共事業が必要。我国としても官民一体となって支援したいと思うのだが、後の日本法人の皆さんとの意見交換会を聞くと少々事情が違うようだ。
翌日は軍のヘリで30年間続いた内戦で最も激戦地であった北部地域を視察した。どう考えても「これはロシア製だよなぁ」と不安を隠しながら、実践経験豊かな軍のパイロットに命を預け移動。燃費が悪く、えっ途中で給油?・・・・・無事到着。
アジア全体としてはシンハラ人よりタミル人が多い。ところが、イギリス占領下では2割しかいないタミル人を下級官僚に重用し、8割を占めるシンハラ人を相当虐げていたようだ。独立後は、立場逆転。シンハラ人はタミル人を差別するようになる。そして、「タミル・イーラム解放のトラ」反政府ゲリラ軍との内戦勃発となる。タミル人はヨーロッパにユダヤネットワークにも似た大変なネットワークを持っている。賢く、手先が器用で、民族愛に満ちている。よって、ゲリラ軍を資金的に後方支援するようになる。一方のシンハラ人のバックは?私は中国が相当手を貸したのではないかと思っている。現政権が武力で制圧し、内戦が終わる。現政権は225議席中160議席を確保。
現地では、住居を追いやられ、再定住する人達を支援する各国の団体が大変な活躍をしてくれていた。現地日本NGОの方々とも意見交換をした。この劣悪な環境でのご尽力本当に頭が下がる。この再定住地は地雷が取り除かれているが相変わらず危険地帯であることに変わりはない。因みに我々が移動する相当の長い距離の道路を、軍が1キロ毎程度に監視体制を取ってくれていた。ほんと、視察のためにどれだけの方々が動いてくれたのかを考えると気が引き締まる。
「子どもの笑顔だけが家族の救い」。あぁ、日本は便利で平和である。衣食住が確保されていることがどれだけ有難いことかを頭でわかっているつもりでも、此処で痛感するとは情けない限りである。
そして、地雷原。すぐそばには学校がある。地雷はテロ組織が自分達で作る。資金は前述したように豊富。
この日の夕食は、スリランカ日本大使公邸で懇親会。豪華な食事会?晩餐会?そんな時代ではない。確かに建物は豪華でしたが、日本食のお弁当でした。豪華な食事は税金の無駄遣い。当然、大使のレクチャー付きで、2時間、レジメ、資料を見ながらみっちり勉強。
翌朝、また「あのヘリ」でトリンコマリーへ。広大な砂浜でイルメナイトが採れる。採った分は海から打ち寄せられる。はは、すげぇ。レアアースにも、核燃原料にもなる。
この工場を作ったのは某日本企業。内戦で工場を手放した。今はスリランカ政府が経営している。素人が見ても実に古い機械ばかり。日本の経済産業にも役立てることが出来るようその方法を日本に帰り模索。
夕刻は日本法人の皆さんとの意見交換会。やはり社会主義国家という点、植民地支配が長かった為、少々自立心に乏しいか?日本現地法人とスリランカ政府との間では必ずしも全てが上手くいっているというわけでもなく、今後、日本政府として交渉する必要がある部分も散見された。外交上、民の力も必要な為、撤退を余儀なくされるようではいけない。そして、中国の進出が著しい。この辺りも論点である。
私はここで離脱。宴席の後、深夜1時過ぎのバンコク行きに搭乗。お土産を買う時間がなかったので、バンコクで買う羽目に。でも、セイロンティーを沢山頂いたのでこれで許してもらおう。
紅茶が美味しく、皆さん視線が合うと満面の笑みを浮かべて応えてくれる。そんな国だった。記し切れないほど多くの方々にお世話になった。これら感謝は本番報告にて。
以上。