泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

日本最古の尼寺である 「豊浦寺跡(向原寺)」

2018年08月04日 15時24分56秒 | 歴史

「向原寺(こうげんじ)」は、奈良県高市郡明日香村豊浦にある浄土真宗本願寺派の寺院です。境内地は、百済から日本へ献上された仏像を蘇我稲目が祀った「向原(むくはら)の家」の故地とされ、7世紀には推古天皇の「豊浦宮」や日本最古の尼寺である「豊浦寺」が営まれました。飛鳥時代には、五大寺の一つにも数えられたお寺でした。集落 のなかにひっそりと建つこの寺には、驚くような歴史が詰まっています。

今回は、日本最古の尼寺である「豊浦寺」について紹介したいと思います。

「日本書紀」では、552年に百済の聖明王から金銅の釈迦仏などが献上された際に、物部氏や中臣氏らの反対を抑え、蘇我稲目が向原の自宅に持ち帰り、それを寺として安置したことが始まりとされています。しかし、その後に疫病が流行しました。これを国神の祟りとして排仏派たちは、仏像を難波の堀江に流し寺を焼き払いました。

現在の「向原寺」周辺には「豊浦寺」の遺構が残っています。1957年以降発掘調査が実施されて、塔・金堂・講堂の跡が検出されています。1985年の発掘調査では、現「向原寺」境内から豊浦寺講堂跡と推定される版築の基壇が検出され、この基壇の下層には石敷と掘立柱建物の跡が確認されました。「豊浦宮」の跡に「豊浦寺」が建立されたとする『元興寺縁起』の説が裏付けられました。出土瓦の編年から、豊浦寺講堂は7世紀第2四半期の建立と推定され、その下層の掘立柱建物はそれ以前の建立となります。「向原寺」のすぐ南の集会所のあたりにも建物跡があり、これが金堂跡と推定されています。金堂跡のさらに南の小字「コンドウ」では、1957年の調査で塔跡とみられる14メートル四方の基壇と礎石が検出されています。ただし、塔跡の基壇は金堂跡・講堂跡の基壇とは方位がずれており、伽藍全体がどのような構成であったかは未解明のようです。

ところで、日本最古の尼寺である「豊浦寺跡(向原寺)」には、興味深い話があります。

その1は、「豊浦寺跡(向原寺)」と「座光寺」・「信州善光寺」の話です。

「善光寺縁起」によると、信濃の住人である本多善光が都へ上都の際に「難波の堀江」の前を通りかかると、物部氏に投げ込まれて池に沈んでいた仏像が金色の姿を現し、「善光こそが聖明王の生まれ変わりである」と告げられます。善光はこの仏像を背負って信濃に帰り、自宅の西の間の臼の上に置いて手厚く祀ったといい、それが「善光寺」の始まりとされています。「信州善光寺」を開山した本田善光が最初にご本尊を安置したのが、長野県飯田市にある「座光寺(元善光寺)」です。 

「元善光寺縁起」によれば、信州麻績の里(現在の長野県飯田市座光寺)の住人、本田善光が難波の堀から一光三尊の如来像を発見し「すすぎの滝」で清め信濃に持ち帰りました。自宅西側の部屋の床の間に臼を置き、その上に安置したのが起源とされています。朝夕、如来様を礼拝供養し、そのご利益は広く世間にも知られるようになりました。そこで、小さなお堂を建ててお移ししたが、朝になると決まって元の臼に戻ってしまわれます。 如来様は「たとえ立派なお堂に安置されていても私の名を唱える者がいないところには住めない。私はいつも西にいる。」。本田善光はそれを聞いて41年もの間、臼の上に安置して供養したと伝えられています。
その後、如来様のお告げによって長野に遷座し建てられたお寺が、善光の名をとって「善光寺」なのです。一方で、飯田市にある「座光寺」には勅命によって木彫りの三尊像が残され、「元善光寺」と呼ばれるようになったそうです。

この「向原寺」のすぐ南には、「すすぎの滝」や「難波池」という小さな池があります。ここに物部氏たちが仏像を捨てたとされている「難波の堀江」なのでしょうか・・・ 

「豊浦寺跡(向原寺)」は、「日本最古の尼寺」であり、「百済仏教伝来の寺」であり、「信州善光寺」・「座光寺」の真の「元善光寺」かもしれませんね。

その2は、「向原寺」のお堂の中にある高さ約40cmの「観音菩薩像」です。

昭和の時代まで人々に守られ祀られていた金銅仏ですが、昭和49年に盗難事件が起きました。 何十年も戻ってくることはなかったのですが、2010年にオークションに出品されているのを金銅仏を研究していた大阪の大学院生が偶然見つけ寺に連絡し、「向原寺」の寺宝は36年ぶりにお帰りになられました。
「観音菩薩像」の頭部は、飛鳥時代後期に日本国内で造られたもので、首から下や光背、台座は江戸時代の後補だそうです。この金銅仏が発見されたのは、江戸時代の1772年のことだそうです。「向原寺」のすぐ南にある難波池からこの仏像の頭部だけが発見され、京都の仏師が江戸時代に頭部以外の部分を鋳造して接合して厨子に入れられました。これが、頭部は飛鳥時代首から下が江戸時代という一風変わった金銅仏です。そのお顔は、杏仁形といわれる杏の種のような目、角形ながらもふっくらとした頬、下鼻の膨らみがない鼻の形、口の両端が少し上がったアルカイックスマイルと飛鳥時代の特徴がよく出ています。

どこか飛鳥大仏と共通するようなお顔でした。以前から拝顔したかった「観音菩薩像」でしたので、とても感激しました。

また境内には、模様が描かれている「謎の石」や「講堂の礎石」などを見ることが出来ます。

近くには、蘇我氏邸宅の苑池跡等ではないかとする「古宮土壇」や、謎の「立石」の前に釜を据え煮え湯の中に手を突っ込んで真偽を判断するという「盟神探湯神事(くがたちしんじ)」で有名な、「甘樫坐神社(あまかしにますじんじゃ)」を見ることが出来ます。

「豊浦寺跡(向原寺)」は、飛鳥周遊の中心地ではありませんが、驚くような歴史が詰まっていますので、是非とも立ち寄られることをお奨めします!

                                      

 

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