泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

明日香村にある中世の城郭3「小山城・雷ギヲン城・奥山城」

2019年07月10日 10時33分56秒 | 歴史

以前、奈良県高市郡明日香村にある中世の城跡を紹介させていただきました。(2017年12月10日:冬野城・畑城・12月14日:雷城・飛鳥城)

前回は、地元の方々と講師の先生と一緒に、明日香村にある中世の城郭の最大規模のお城「冬野城」と最小の「畑城」を歴史散策してきました。その時の講師の先生の詳しい現地解説のおかげで、明日香村にある中世の城に大変興味を持ち、その後明日香村にある中世の城跡を歴史散策してきました。

明日香村には、11の中世の城跡があるようです。これから数回に分けて、明日香村にある中世の城郭跡を紹介したいと思います。

今回は、明日香村にある中世の城郭3「小山城・雷ギヲン城・奥山城」を紹介したいと思います。

橿原市の香久山方面には、小山城・雷ギヲン城・雷城。桜井市方面には、飛鳥城・奥山城・八釣城。明日香村の石舞台方面には、岡城・祝戸城。天武・持統天皇陵方面には、野口植山城・野口吹山城。高松塚古墳付近に平田城。畑方面には、畑城・冬野城があります。

 〇小山城

中世の飛鳥地域の様子です。1467年に始まる応仁・文明の乱では、筒井氏は東軍、 越智氏は西軍に与して戦うこととなりました。やがて、1477年に筒井氏は没落し、越智家栄と古市澄胤が大和国・興福寺の実権を握っていったようです。このようにして台頭し、南大和の最有力勢力となった越智氏は、本拠を越智谷(高取町越智~明日香村真弓の東西の細長い谷)に置いて越智城を構え、越智谷北側には防衛と出撃の拠点として貝吹山城、 越智谷と後背地吉野を結ぶ地には南大和屈指の巨塁高取城などを築きました。また越智氏一族の勢力は、高市郡全域と葛上・忍海両郡の東部に及び、この領域は「越智郷」と呼ばれていました。明日香村域にも、小山城、雷城、飛鳥城、岡城などの多くの砦が築かれており、特に小山城は、越智 氏に従属した国民小山氏によるものと考えられており、内郭(居館)と外郭(集落)の二重構造をとる平城です。しかし、それ以外の城跡はみな小さく、国民より弱小な村落レベルの土豪の城と考えられています。従って、村域には小山氏以外に国民が見当たらず、明日香村域は、西の越智氏等の国民勢力と 東の多武峯との狭間にある独自の在地権力をほとんど育まなかった地域であったといえます。 越智氏が繁栄を極めたのは1493年の細川政元政権成立の頃であったようです。しかし、その後、赤沢氏や柳本氏、木沢氏などの大和国外の武士勢力の侵入によって中世的支配体制が崩壊し、十市氏、筒井氏により大和統一が進められ、松永久秀による大和国の掌握、そして織田信長による領国支配へと展 開し、江戸時代を迎えることとなりました。

小山城は、明日香村にある中世の城跡中では唯一、説明板があります。説明板から、丘の上が主郭と思いがちですが、麓の居館跡を内郭とし丘上を含んだ環濠集落型の城郭のようです。周囲を散策しました。南側には小さな神社があり、本殿がなく小さな古墳(円墳)のようなものがありました。神社の南には、ギヲの丘があり東側には大官大寺跡があります。その向こうには、奥山城を見ることができます。残念ながら立ち入り禁止になっているので、現地での詳しいことが分かりませんでした。
     

〇雷ギヲン城は、ギヲの丘(こちらが雷ギヲン城と思っていました)の南側にあり雷城の北側約300mに位置しています。高さ10mほどの丘に築かれています。

見た目には、まるで「ひょこりひょうたん島」のような形をしており、小規模なかわいい城郭です。上っていくと遺構は残されていました。小さいのに斜面が急で、意外と登るのが大変でした。二つの曲輪からなる縄張りで、主郭と副郭の間には堀切が施され、更に主郭西側には横堀と土塁が設けられています。主郭南東角に虎口が設けられていて、城への進入路は南側からと推定でき、南の雷城との連携を考えての城の構造かもしれません。北側の尾根続きを分断するように、深さ4mほどの堀切が掘られ、また西側に回り込むようにして横堀が設置されています。簡単に訪れることができ、小さな城跡ですが中世の城としての遺構を見ることができました。

        

〇奥山城

奥山城は、飛鳥資料館の裏山の西先端部を利用して築かれた城です。丘陵先端部北側に小公園があり、ここから南側の尾根へ向かって竹藪をかき分けて登ることができます。城主等不明ですが、奥山荘は興福寺の一乗院領であったことが知られ、のち多武峰の影響下にあったと思われ、高市郡に勢力を誇った越智氏の影響力は小さかったと思われます。多武峰防衛の最前線だったのでしょうか。城の縄張りは、丘陵先端部に主郭を置き、東に向かって帯曲輪を伴う二の曲輪、堀切を隔てて三の曲輪となっています。主郭の周囲は空堀が巡らされ、南西部斜面に向かって竪堀が掘られています。二の曲輪東端から大堀切とも思われるような竪堀があり、更に東に堀切を設け、東尾根筋の防禦を固めた城です。規模は小さな城ですが、縄張りも竪堀も見どころたっぷりの城でした。城の西側には、雷ギヲン城・雷城、南側には飛鳥城が見えます。ただ荒れ放題で、全くの未整備状態なのが残念でした。

前回は、講師の先生の詳しい説明と資料がありました。今回は資料等が少なく、実際に明日香村にある中世の城跡に行かれた方の資料等を参考にさせていただきながらの歴史散策となりました。大変参考になり、ありがとうございました!

次回は、岡城・祝戸城・八釣城を紹介したいと思います。

           

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