泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

中世の大和豪族「越智氏」の跡(前)

2021年09月03日 17時38分45秒 | 歴史

奈良県高取町越智には、中世の大和豪族「越智氏」に関わる跡が残っています。

高取町は、明日香村のお隣の町で高取町越智へは、近鉄飛鳥駅から車で約7~8分の所です。

今回は、中世の大和豪族「越智氏」の跡(前)を散策してきましたので、2回に分けて紹介したいと思います。

中世、越智氏は十市氏・箸尾氏・筒井氏と並び「大和四家」と呼ばれていました。越智維通の代に「多武峯の戦い」に敗れて衰退しましたが、維通の子である越智家栄は河内守護・畠山氏の支援により再興し、筒井氏を圧倒するほど勢力を回復しています。しかし織田信長の勢力が大和に及ぶようになると降伏しました。

〇越智氏(おちし)(中世の豪族)の館跡

越智氏は、大和国高市郡越智荘を支配した豪族です。大和郡山市を本拠地とした筒井氏と対立し、大和国の覇権争奪戦を繰り広げた中世の豪族です。三大山城の一つである「高取城」の礎を築いたことでも知られています。また、中世の芸能を代表する能楽「越智観世」もまた、越智氏の庇護によって育まれました。越智氏の出自は諸説ある中、清和天皇を祖とする大和源氏であった説が有力のようです。最も勢力が盛んだったのは、室町時代の後半とされます。

現在高取町越智には、家中屋敷跡には越智の落ち着いた集落があります。集落の横にある谷間の場所には、「越智館」跡が残っています。残念ながら、今は畑となっており説明板等もありませんでした。

        

〇貝吹城(越智氏の詰城)

橿原市と高取町の境目に位置し、標高は210.3mです。山頂には麓の人々が雨乞いをした「牛頭(こず)天王の塚」と呼ばれる直径約3mの円墳があり、南北朝時代には越智氏の山城が塚の上に築かれました。山城は元々、越智居城の詰め城であったが、後に本城となって高取城を詰め城にするまで発展しました。貝吹の名は、ホラ貝を吹き、敵襲を知らせたことに由来しているそうです。現在城址には、土塁や堀切などの遺構を確認することができます。

以前から、行ってみたいと思っていた「貝吹城」です。登り道がよくわからなかったのですが、ようやくガイドの方と春先に一緒に行くことができました。

高取町のカンジョウ古墳(一辺35mの方墳で県史跡)のすぐそばに、登り口がありました。

土塁や堀切などの遺構の説明板等があればよかったのですが、残念ながらありませんでした。主郭周辺は、整備されていました。主郭までは、途中に竹藪等がありなかなか登るのが大変でした。

                   

 
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