泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

古代豪族・秦氏の一大拠点「京都太秦周辺を歩く」

2018年12月16日 12時00分21秒 | 歴史

奈良県橿原市畝傍町にある 「奈良県立橿原考古学研究所友史会」は、1955年に「大和歴史館友史会」として発足し、その後高松塚・藤ノ木古墳の発掘という考古学上の重要な発見とともに会員数を増やし、現在会員数が1200名余りを数え、考古学の最新の話題満載の講演会と遺跡めぐりを定期的に開催している歴史サークルです。

せっかく歴史の宝庫「大和」に居住しているので、数年前に入会し講演会や歩く例会に時々参加しています。

先日、古代豪族・秦氏の一大拠点「京都太秦周辺を歩く」というテーマにひかれ参加してきました。

今回は、古代豪族・秦氏の一大拠点「京都太秦周辺を歩く」の様子を紹介したいと思います。

古代豪族・渡来系集団・導水施設・木材生産・流通などのキーワードを基に、渡来系集団を束ねた古代豪族「秦氏」の本拠地である京都太秦を中心に橿原考古学研究所の学芸員の先生の案内と解説のもと、全国から約200位の歴史大好きな皆さんと一緒に約13キロを歴史散策してきました。

(行程) ①阪急嵐山駅前(集合)→(渡月橋)→②大井神社→(渡月橋)→③一の井堰→④宗像神社→⑤法輪寺→⑥松尾大社→⑦月読神社→⑧松尾中(松室遺跡)→昼食・休憩(上桂公園)→⑨蛇塚古墳→⑩広隆寺→⑪大酒神社→⑫木島神社(蚕の社)→⑬天塚古墳→⑭太秦天神川駅(解散)

秦氏とは、高度な技術を持っていた集団の一族で、5世紀後半に渡来してきたといわれています。平安京以前、古代の豪族・秦氏が、未開拓地であった嵯峨野の地域で灌漑を造り農業をひろめました。

大堰川に「葛野大堰」と呼ばれている堰をつくり、嵯峨野の地域で灌漑を営んだことは、秦氏が高い技術水準を持っていたことを物語っています。 秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を築堤する際に協力したとされています。山背国太秦は、秦河勝が建立した広隆寺があります。数十年ぶりに広隆寺の弥勒菩薩像を拝顔してきました。また、この寺の近くにある「蛇塚古墳」は、6世紀頃のものであり、年代はさほど遡らないことが推定されます。秦氏が現在の桂川に灌漑工事として葛野大堰を築いた点から山背国太秦の起点は6世紀頃と推定されます。

今回の歴史散策で是非とも見たかったのは、「蛇塚古墳」です。明日香村にある、日本最大の石室を持つとされる「石舞台古墳」と同じ位の石室を持つとされています。 

「蛇塚古墳」は、京福電鉄「帷子ノ辻(かたびらのつじ)」駅で降りて徒歩7分ほどにあります。住宅街の中に、フェンスで囲われた「蛇塚古墳」があります。こんもりと盛られた古墳で、横穴式前方後円墳です。普段は施錠されていますが、この日は特別に中に入ることができました。中に入ると、岩肌などが見て取れます。全長約75m・石室の全長は17.8m、玄室は奥行き6.8m、幅3.8m、高さ5mと京都府下では、最大規模を誇る古墳です。石室内に蛇が棲息し、岩の間から出入りしていたため、「蛇塚古墳」と呼ばれるようになりました。この古墳が秦氏の墳墓とされています。石質は違うものの、石室の広さは「石舞台古墳」と同じ位に感じました。一番驚いたのは、何と住宅街の中にポツンとあることでした。「天塚古墳」(京福電鉄「蚕ノ社(かいこのやしろ)」駅下車)も秦氏一族の墓とされており、秦氏の勢力を知る大きな手掛かりとされています。

今回の歴史散策でわかったことは、秦氏は古代日本において、農耕・土木技術・製鉄・養蚕・機織・紙すきなど、先進文化を広げ、日本社会の発展に大きな役割を果たしたということを、肌で感じることが出来たことでした!

                                        

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