今朝の御言葉から感じたこと。それは愛に対する思い違いです。
「愛」というと、多くの人は甘美な想いを抱きます。相手を無条件に受け入れる包容力の大きさを感じます。しかしそれは人間的な愛、ギリシャ語でいう「エロース」や「フィレオー」の愛に過ぎません。
父なる神様の愛、「アガペー」の愛は、特に罪に対しては実に厳しいものです。なぜなら罪は人を根本的に駄目にするもの、神様の祝福という大木を支える根を徹底的に腐らせて、根本から完全に倒してしまう、あるいは立ち枯れにしてしまうほどに影響力の大きな恐ろしいものだからです。
それを誰よりもよく知っている、本当の愛を知っている教会までもが、この「愛」という言葉に騙されています。ありのままのあなたを愛する、自分らしく輝いて生きる、そんな見せかけだけの愛の言葉が教会にまでも氾濫しています。神様の愛を人間的な愛のレベルに引きずり落としています。
悪を見過ごすことは偽りの愛です。本当に愛しているならば、罪から離れられずに永遠の滅びに向かっている人を黙って放置することなどできないからです。親が子どもを躾るように、正しいことを教えます。罪を罪と指摘せずに黙っているのは、決して相手を受け入れることでも何でもありません。単に相手に嫌われたくないという自己愛の現れ、自分がかわいいだけの自己中心な人の典型的な例です。
教会においては、人が多く集まってほしい、活気がある教会にしたい、そういった思いが、真実の愛をないがしろにして前面に出てきている。しかし門戸を大きく開くこととは、何でもかんでも無条件に許容してしまうことでは決してないはずです。
神様の愛を実践することは、実に難しいものです。相手を受け入れつつ、間違いは間違いときちんと諭すことのできるようになるためには、相手との信頼関係の深さと、自らの日々の生活態度までも質されます。それでも偽りの愛ではない真実の愛を追い求めたい。完全にはなれないけれども、地の塩、世の光として、神様の愛を身をもって現すことのできるクリスチャンでありたい、そのように願ってやみません。
「愛」というと、多くの人は甘美な想いを抱きます。相手を無条件に受け入れる包容力の大きさを感じます。しかしそれは人間的な愛、ギリシャ語でいう「エロース」や「フィレオー」の愛に過ぎません。
父なる神様の愛、「アガペー」の愛は、特に罪に対しては実に厳しいものです。なぜなら罪は人を根本的に駄目にするもの、神様の祝福という大木を支える根を徹底的に腐らせて、根本から完全に倒してしまう、あるいは立ち枯れにしてしまうほどに影響力の大きな恐ろしいものだからです。
それを誰よりもよく知っている、本当の愛を知っている教会までもが、この「愛」という言葉に騙されています。ありのままのあなたを愛する、自分らしく輝いて生きる、そんな見せかけだけの愛の言葉が教会にまでも氾濫しています。神様の愛を人間的な愛のレベルに引きずり落としています。
悪を見過ごすことは偽りの愛です。本当に愛しているならば、罪から離れられずに永遠の滅びに向かっている人を黙って放置することなどできないからです。親が子どもを躾るように、正しいことを教えます。罪を罪と指摘せずに黙っているのは、決して相手を受け入れることでも何でもありません。単に相手に嫌われたくないという自己愛の現れ、自分がかわいいだけの自己中心な人の典型的な例です。
教会においては、人が多く集まってほしい、活気がある教会にしたい、そういった思いが、真実の愛をないがしろにして前面に出てきている。しかし門戸を大きく開くこととは、何でもかんでも無条件に許容してしまうことでは決してないはずです。
神様の愛を実践することは、実に難しいものです。相手を受け入れつつ、間違いは間違いときちんと諭すことのできるようになるためには、相手との信頼関係の深さと、自らの日々の生活態度までも質されます。それでも偽りの愛ではない真実の愛を追い求めたい。完全にはなれないけれども、地の塩、世の光として、神様の愛を身をもって現すことのできるクリスチャンでありたい、そのように願ってやみません。