よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

和歌山県立医科大学から高野山奥の院へ、摩訶不思議の旅

2006年01月29日 | 日本教・スピリチュアリティ

和歌山県立医科大学付属病院にてヒューマン・サービス・マネジメントとクリニカルラダーのテーマで講演。

とんぼ帰りするつもりが帰りの飛行機のフライト時刻がやたら遅い。待っているのもなんなので発想を転換して、一路高野山へ。大円院の宿坊に泊まり、朝は6時から勤行。密教寺院の作法は観想、荘厳、護身法から入り、理趣経、般若心経などの読経と続き、不動明王真言、光明真言などのマントラ、回向で終わる。密教寺院での勤行はひさしぶりなので、心身が引き締まる。その後、本堂で修行僧の渡辺さんとしばし楽しい雑談。

早朝こめかみが痛くなるような寒さのなか、霊気が凛としてこの山上の盆地には立ち昇る。金剛峰寺の枯山水にはうっすらと雪が積もっている。霊場ならではの空気が、この土地の奥底にはある。

密教寺院の修法は究極のヒューマン・サービスなのかもしれない。そもそも真言密教は即身成仏を本題とし、霊的存在として人間を捉え、導師による修法も、行者による修行も、霊的異次元との交流、霊的成長、霊的進化を促進するものだ。もし、ヒューマン・サービスという言い方が許されるのならば、真言密教の修法は、トランスゼンデンタール・ヒューマン・サービスとでも形容されるべきか。

病院では不健康、疾患にかかっている状態の人間に介入するヒューマン・サービスを提供する。医療サービス、看護サービスである。密教寺院では、健常レベルにある人間を、さらに高い霊的存在へと進化させるヒューマン・サービスを提供する。いや、加持祈祷による病気回復も密教の守備範囲なので、病気の人間に対しても、いやさらにすべての状態の人間に対して密教的なサービスは展開される。

今後、産業構造のサービス化によって、サービスサイエンス、ヒューマン・サービスが注目されることになるだろうが、サービスの幅はかくも広く、深遠だ。経済学、経営学、マネジメント・サイエンス、行動科学、認知科学などの学際アプローチに加え、異端視されることは承知の上で宗教学的なアプローチもぜひ必要なところだろう。宗教学といっても、人間存在に対する洞察の深さ、ダイナミズムは密教が顕教を凌駕するので、密教的なアプローチがぜひとも面白いのだが。

                ***メモ***

千葉神社は北斗七星を祭る神社、妙見神社とも呼ばれる。
神社なのに密教的。
神社ではなく、密教寺院として北斗七星を祭るのならわかりやすい
のだが?さて。

このなぞ解きを高野山でやってみた。

高野山清浄心院には星供曼荼羅がある。別名、北斗曼荼羅。
この曼荼羅の中央には北極星を象徴する釈迦金輪が置かれる。
その周囲には北斗七星、九曜が配される。

千葉神社は長保(1000年ころ)の時代、「北斗金剛授寺」と呼ばれていた。
このころは真言密教の寺だった。そして星供曼荼羅をベースに太一(北極星)
信仰の山だったのだろう。

政治的な理由で神社に改組されたのをきっかけに、主祭神の実体は北極星だが、
神社らしく天之御中主大神(あめのなかぬしおおかみ)=北辰妙見尊星王(
ほくしんみょうけんそんじょうおう)とかわり、眷属が相殿と呼称を変え、
経津主神、日本武尊が配置された、と。

ここでは経津主神、日本武尊はあくまで脇役。

仏教か神道かは信仰の様式。
実体は北極星信仰。
仏道でも神道でもかまわない。
どんな道でも行く先が同じなら、
細かなことは言わない。
・・・・というようなおおらかな
構えが見えてくる。

森羅万象に神性・仏性を見出すことが主要テーマで、宗教という手段方法は
柔軟に変化させる、宗教という手段方法にはさほど固執しない融通無碍
さ。

一神教からは、柔軟を通り越して無節操、原理の欠如と見られること必至。
ただし、一神教的世界観が限界をきたしている昨今、この無節操さ、融通無碍
さには光明を見る思いもあるが、さて。


                ***メモ***

密教寺院での勤行は、強烈なフロー体験をもたらすものである。
一定のリズムのもとでの読経、印、真言、所作、観想は、フロー体験を
もたらす要素が充満している。

いや、認知心理学あたりが、「フロー体験」を説明する1000年以上も前に
この特殊体験を誘発するプログラムを体系化していたわけだ。