よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

恩師がMITプレスから新著出版

2010年05月24日 | No Book, No Life


コーネル大学にいたときにお世話になったRoger Battistella先生が新著をMITプレス(米国を代表する学術出版社)から出版。草稿段階から送ってもらっていたのでことのほか、うれしいです。

この本の主張は厳しいものです。なにせ、市場に任せ放題にしてきたアメリカの医療の根幹をストレートに批判しているからです。マイケルポーターなどのようなポピュリスト的スタンスとは異なり、さすが40年に渡って米国医療政策、医療経営をクリティークしてきた知的資産がこの本のベースにあります。

日本の医療サービス改革を構想する視点から見ても大変参考になります。主要な論点は:

■Health care is a social good that should be free to all.
(医療サービスは社会的な財であり、すべての人々がアクセスできるようにすべし)

■Prevention generates big savings.
(予防は、医療全体を効率化する)

■More health spending will stimulate the economy and have a positive effect on health status and longevity.
(効率的に医療費を使えば医療は経済を活性化するし、健康指標にもポジティブな影響を与える)

■The principles of market competition aren't applicable to health care.
(競争的な市場主義は、医療には適用できない)

など。豊饒な語彙に支えられる論理構成と網羅的なレファレンスは、いかに医療健康分野の社会科学者の著者が過去の議論をカバーしているのかを示してあまりがあります。

             ***

コーネル大学を退官してからは名誉教授。現役の教授のころから、ブドウ栽培とワインづくりにも情熱を抱き続けていて、学期の最終日には教室に先生が自分で醸造したワインを持ってきて学生に飲ませてくれました。



これが大学から車で10分くらいのところにあるSix Mile Creekで彼が営んでいるワイナリー。この2階の書斎が思索の場で、ここで多くの著作をものしてきました。葡萄畑の緑色と青い空。農作業のかわたら、夜は木の香りがする書斎で、多くの蔵書に囲まれて執筆にいそしむ。

実にバランスのとれた知的な生き方をされている先生です。


「イスラーム的経営」の地平線

2010年03月07日 | No Book, No Life


日本的経営は他の「○○的経営」と相対化しないと話は始まらない。社会的企業を研究している研究者のSさんと先だって会って櫻井秀子氏を紹介された。話してみるとSさんは僕がいた同じ年の夏、コーネル大学で過したという。でも彼女のことを知らなったのは、僕はその年の夏はフィンランドへフィールド調査にでかけていたからだ。

ちなみにSさんや僕がアメリカの東海岸にいた頃(80年代後半)、櫻井秀子氏はイランの王立人文科学研究所に留学。う~ん、かくも対蹠的。この時代、経営学専攻の人がイランへ留学していたとは寡聞にして知らなかった・・・。

彼女の著書、「イスラーム金融」をさっそく取り寄せて一読。イスラーム金融という題名ではあるが、その中身は、イスラーム経営を鏡として相対化させる「日本的経営・再考」とでもいってよいだろう。

経営学専攻の著者ではあるが、濃密な文体の随所に味わい深い思索を漂わせるこの本をきちんと読むには比較宗教学の基礎知識は必要だろう。

多くの研究者は日本的経営を、欧・米のそれらと比較して相対化して議論してきた。大枠は、(1)日本人研究者が、欧米のフレームで日本的経営を議論する。(2)あるいは、欧米人研究者が、彼らのフレームを使って日本的経営を分析する。

古くはドイツで興隆した経済経営学、1960年代以降はアメリカ経営学。当地へ留学して先進的な理論やモデルを体得して帰国後、それらの成果を翻訳するというパターン。これらの作業により膨大な知的資産が蓄積されてきた。

これらの基盤の上に、(1)としての日本経営学は立っている。JCアベグレンを嚆矢とする日本経営研究が(2)の系譜である。(1)と(2)の比較は相乗効果をもたらし、知的刺激に満ちた議論が展開されてきている。

新しい人的資源論も比較宗教学、健康科学などの人文の知見を摂取しながら、これらの系譜の上に構築されると面白いだろう。

自然現象を説明する原理、定理、公理などを発見してゆく物理学のような自然科学と異なった方向性を社会科学としての経営学は持っている。そのひとつを「現象への介入志向」と呼んでいる。「現象の介入志向」が強い学問としては工学、医学、看護学などがある。介入には、操作、用具の開発と応用、設計、デザインなども含まれる。

眼前の経営現象に対してどんな介入、操作をしたら収益が改善するのか?どのように組織を設計したらいいのか?顧客を獲得出来るのか?社員のやる気を引き出すことができるのか?画期的な技術を開発して、知的財産権を確立して技術を製品化し、競争戦略をより優位に遂行してゆくのか?

多くの場合、これらの問に対して提供されるのは、方法論、ツール、ソリューション。提供するセクターはコンサルティング業界。この界隈にはヨコモジ3文字があふれている。

ちょっと思い浮かべても:
MBO(マネジメント・バイ・オブジェクティブ)、BSC(バランス・スコア・カード)、CRM(カスタマー・リレーション・マネジメント)、ABM(アクティビティ・ベースト・マネジメント)、SCM(サプライ・チェーン・マネジメント) VCM(バリュー・チェーン・マネジメント)、SDM(ストラテジク・デシジョン・メーキング)、OTM(ワン・ツー・ワン・マーケティング)など。

このように圧倒的に欧米からの輸入が中心。ここでの議論はこれらのツール群を捨象する。

さて、ここにきて、日本経営を相対化する鏡として従来の欧米の経営だけではまったく十分でなくなってきた。もちろん欧米をいっしょくたに議論するのではなく、欧州にもライン川の東西やUKでは顕著に経営スタイルは違うし、同じアングロサクソン系でもイギリスと米国は異なる。また、米国の金融や覇権産業では、ユダヤ人コミュニティが収斂しているので、米国の経営をアングロサクソンの脈絡のみで分析するのは間違いだ。

ポストグローバル金融市場主義を構想するにあたり、相対化する鏡としてイスラーム経営は必須だろう。

イスラーム経営とは?イスラーム共同体をつらぬくシャリーア(イスラム法)を具体化する営みとしての経営。互恵、相酬、相互補助、相互援助の共同体志向を根源に持つイスラム経営は、本質的に市場での交換、市場主義に制限を掛けている。貨幣の利用にも制限。利子の活用にも制約。現下日本では「社会的企業」の議論がにわかに起こっているが、イスラームには「社会的企業」なる概念は存在しない。なぜなら、すべてのイスラーム企業はア・プリオリに「社会的」なのだから。

近代的な「個」を前提とする(市場)交換と、共同体を基礎とする贈与の関係とが、バランスをとり共存するシステムとしてイスラーム経営は運営される。イスラーム経営とはイスラーム企業にのみ適用されるものではない。家庭、企業、コミュニティ、産業、政策にまで通底する概念。

ちなみに、他の先進国のご多分にもれず、日本でも経済駆動力は、モノ→エネルギー→情報→サービスと遷移しているのでイノベーション研究もサービスを対象にするようになっている。

サービスには贈与・互酬性が埋め込まれているので交換主体の市場原理だけでは説明がつかない。特に医療サービスには、共同体を基礎とする贈与の関係が根づいている。ここで問題なのは、「共同体」が希薄になってきており、医療はどんどん市場化してきたということ。

イスラーム経営を分析する過程で、グローバル金融経営の性質も浮き彫りになってこよう。これを論ずるのは気が重くなるが・・・。グローバル金融市場主義のデキモノのようなユダヤ金融経営。古代世界の常識だった霊魂を否定するという心象は、唯物的で合理的なユダヤ気質の発露。寄留者(ゲール)だった長い深層心理に随伴する「寄留性」が金融業で大規模にかつ戦略的に発揮され、市場に寄留して利益を簒奪するユダヤ人・・・というようなステレオタイプ(一歩あやまると叛知性的な通俗陰謀論などになりやすい!)に嵌らないようなリーズナブルな議論が必要だ。この件は、以前にちょっと書いたことがあるのだが・・・。

もっともムハンマドがメッカを逃れてメジナで政治的=経済的=軍事的=宗教的な活動を初めてからも彼は、ユダヤ・コミュニティにはほとほと手を焼いていた。リバー(金利)によって生きる民族とリバーを真っ向から否定するムハンマドの教えは対蹠的。実はこの先鋭にして対蹠的な関係は現代にも顕れているのだが・・・。

きちんとした議論をするためにも、イスラーム経営研究は、ぜひとも必要な研究ジャンルだ。そろそろ経営学にも井筒俊彦が行った「共時的構造化」が必要かも笑)。

いっちょ取り組むか。


たかが英語、されど英語・・・

2009年11月10日 | No Book, No Life


この本のオビに書いてあるように、今まさに「英語を開放する」秋(とき)の到来。

このあたりのことを、連載している「英語で世界をシノぐ方法(覇権言語ソフトパワーとのつきあい方)」で考えてみた。

上の写真は、1970年代の本だが、その後何回か復刻されている。ダグラス・ラミス「イデオロギーとしての英会話」。その中の一節。

<以下貼り付け>

 このような条件の結果として、アメリカ人は、アメリカと日本との関係を、先生と生徒といった関係に見がちである。この信念は意識的な意見の型をとるのではなくて、無意識的な前提条件の型をとる。

 つまり、このような意見は、意見としては否定する人でも、実際にはそれと同じ行動をとりづつける。非常に根深いところで、アメリカ人は、自分達はすべてが正しい秩序にみちた社会からやって来ていると信じているから、日本という領域に入るやいなや、彼らは自動的に、普通の市民から先生へと変身してしまうのである。彼らは時にこれといった資質によってではなく、先生の文化に属するメンバーであるが故に先生なのである。

 したがって、自国ではゆめゆめ先生なぞになれないアメリカ人でも、ここでは容易になれるということは当然のこととなる。(中略)アメリカ人の間で、日本への旅がこれほど人気がある理由の一つは、彼らが突然の身分の上昇を楽しむことができ、生れて初めて階級的エリートとして取り扱われるからである。(p.28)

<以上貼り付け>

ネットの出現、浸透で昨今はますます英語優位な状況。そして、覇権国アメリカの没落基調は長期的には確定的。ゆえに結果として、自然言語としての英語が解放される過程に入ってゆくとの見立てもできるだろう。

案外、英語という最も身近な外国語との接し方が、自分をローカライズするのか、グローバライズするのかに決定的な影響を与える。グローバライゼーション賛成、反対といった抽象論や根拠が曖昧な価値判断ではなく、英語との接し方というプラクティカリティ、具体論で決まってくる。


ライフネット生命出口治明社長→ベンチャービジネス戦略論

2009年10月24日 | No Book, No Life


半蔵門のライフネット生命保険出口治明社長から生命保険サービスイノベーションについてたっぷりヒアリング。いろいろ教えていただく。74年ぶりの生命保険会社起業のかじ取りをして、急成長。強烈なビジネスモデルで急速にスケールアウト、ディフージョン中。

アントレプレナーシップ&イノベーションを地で行く強烈なビジネスモデルは紆余曲折ながらも120億円という資本を吸引するパワーがあるのはうなづける。

激烈なビジネスモデルを推進している出口さんだが、ひととなりの雰囲気には静謐さが漂うのが不思議。たゆたゆしいインテリジェンスの団塊世代の起業家だ。

1時間の予定がついつい熱くなり、歴史・宗教の話に及んでしまい2時間になってしまった。セム系の人格的一神教の誕生、ミトラ教、原始仏教、大乗仏教の誕生機序などなど。古今東西の話題が共時する話は、とても刺激的だ。いくつか新しいテーマに気がついたのでおいおい調べてみたい。

               ***

田町に移動して、ベンチャービジネス戦略論で京都大学の麻生川静男さんに技術起業のリアルなケースを提供していただく。出口さんは、もとはと言えば麻生川さんに紹介いただいたのが御縁。

活発な質疑応答の次は、田町の某所に場所を変えて飲み会。



新潟のほうの地ビールが美味しい。



皆さん、楽しそう。
天真爛漫な笑顔、笑顔、笑顔。



OBの方々の参加もあり、おおいに盛り上がる。

イギリスの医療は問いかける:「良きバランス」へ向けた戦略

2009年09月25日 | No Book, No Life


医学書院の方に贈呈いただいた一冊。おもしろくて一気に読んでしまった。

著者の森臨太郎氏は、小児科新生児、周産期医療のスペシャリストでロンドン大学の公衆衛生学熱帯医学大学院に留学し、7年イギリスやオーストラリアの医療を内側から参与観察した人だ。

参与の仕方はかなりディープで、National Institute for Health and Excellence(NICE)に関与して、治療ガイドラインの作成にも関与しているので、ブレア政権下の医療政策策定にまでタッチした数少ないpractitionerの一人。

自らの参与的経験をもとに筆を進めるライティング・スタイルには好感が持てる。古くはジョン万次郎のように漂流の果てに異国に棲み、その経験を日本語で伝えるというスタイル。とくに医療システムのような制度比較が重要な分野では、cross institutionalな経験を基盤にする比較の視点は、本質的に重要だと思う。

ガラパゴス化する日本では留学も海外でのワーク経験を追求しようとする人々は少数派。しかし、知的プロフェショナルはその真逆をいかなければならない。

さて、この本のNHSトラスト、診療ガバナンス、NICE診療ガイドライン策定プロセスなどのディテールに関する記述は気が利いている。このあたり、日本の医療政策策定のために大いに参考になる。

NHS Directについてはこの本を通読してからNHS Directサイトに飛んで歩きまわるとよく分かる。なるほど、NHS Directは医療におけるサービス・イノベーションだ。

民主党に政権が転換し、長年政府自民党が進めてきた医療費抑制政策にいかに修正をくうぇるべきかを論ずるときなどに、よくイギリスの医療政策の転換が言及される。長年、医療サービスを市場原理にゆだねてきたアメリカよりも、政策という点では、英国の苦渋の経験にこそ、学ぶものは多いと思われる。

『ライティング・スペース』と脚腰

2009年09月21日 | No Book, No Life


哲学者の黒崎政男が翻訳した、ジェイ・デイヴィッド ・ボルター「ライティング スペース―電子テキスト時代のエクリチュール」は、口頭言語、写本、印刷術、ハイパーテキスト、というメディアの変遷とともに、「書くこと」と「読むこと」の根本的な変容を描写している。

マクルーハン、脱構築理論、人工知能研究などの視点をもおさえて、新たなテキスト文化論の出現を予兆させる示唆的な本だ。1990年代前半の作品だが、今日のネット社会の昂進を正確に捉えて「書くこと」の変化をたんねんに素描する。

「ライティングは、記憶を取り集めたり、人間の経験を保存したりするためのテクノロジーだ。書くという技術は農業や織物ほど直接に実践的な技術ではないかもしれないが、それは明らかに、社会を組織化する人間の能力を--確固とした法や、歴史・文芸の伝統を持った文化を与えることによって--拡張する」(p53)

そして、ボルターは「文化的なリテラシーとは、ようするにPCリテラシーと同義になりつつある」とさえ言うのだ。

ものを書いて読むという欲望の出口は、ハイパーテキスト化、ウェブ化、クラウド化の勢いを得て拡張につぐ拡張。拡張された地平線にあまりにも多様な欲望のはけ口があるがゆえに、欲望はむしろたじろぐ。

社会の組織化とは、データ、情報、知識、知恵をいかにオーガナイズしていくかということ。意味を与える、物語を紡ぎあげる、フレームや理論を構築する、という負荷は情報・知識処理系の脳に強烈な負担を強いることになる。

その負担をバネにして伸長するか、ヘナるかは案外、アタマが乗る胴体、そして胴体を支える足腰の鍛え方と強靭さが問われるような気がする。今年の夏は自転車で2000キロ走ったが、「書くこと」と「読むこと」の秋にどう出るのか、さて。

アントレプレナーシップの参考書

2009年09月16日 | No Book, No Life


アントレプレナーシップの参考書。なんといってもこの本の特徴は、その分厚さ。その分厚い記述は説得力があり、編著者の本気度が伝わってくる。

武蔵大学の高橋徳之氏@起業学らが監訳している。ちなみに、こないだ出たとあるワークショップで高橋教授の同僚の黒岩准教授とバッタリあったのはシンクロニシティか。

さて、分厚さもさることながら、この本はラーニングデザインの基本をきちんと押さえている。理論、ケース、キー・クエスチョン、参考ウェブへのリンクなど、読者=learner=主人公というデザインのもとで編集されているので分厚さから来る威圧感にもかかわらず、大変読みやすい。



<どっしりとデスクトップに立つ>

「モデル・理論→ケース・ツール→判断」→「モデル・理論→ケース・ツール→判断」、という流れは起業家の思考、行動に沿うもの。よって実際的なlearningを支援するために、編集もこのフローに沿っているのは、なるほど感あり。

Learning DesignがInstruction Designになっていて、それがそのままWriting Designになっているのは、心憎いまで。またフットノートはページの下に、まとまった語彙解説は巻末にあり、ストレスを感じることなく読み進めることができる。

すぐれたアントレプレナーシップ教育を推し進めているバブソン大学関係者だけあって、起業のプロセスに沿って体系的に編集がなされている。また、各章には専門家がライターとして参画している。

机のうえにこの本を置いて、Global Entrepreneurship Monitor平成20 年度 大学・大学院における起業家教育実態調査などと並行して読んでゆくと知識が立体的になってゆく。もちろん、アントレプレナーシップやベンチャービジネス論などの講座の参考書としても使える。ということで、後期の「ベンチャービジネス戦略論」では、同書を参考書とすることにした。

4500円で一見ちょい高めのプライシング。高めの値段にひるんではいけない。860ページの大著なので、1ページあたりの単価はたったの5.2円。このページ単価は専門書のかなでも破格の安さだ。このところをよ~く考えて、買って損はないです。「ベンチャービジネス戦略論」の授業取る予定の人は買い求めておいてください。

惜しむらくは、他のページを削っても、起業家活動の中の中核たる商品開発=New Product/service Developmentのページがもっと欲しいところだ。でも、ないものねだりはできないので、ケースで補うことにしたい。

起業家の幻想

2009年08月17日 | No Book, No Life

The Illusions of Entrepreneurship: The Costly Myths That Entrepreneurs, Investors and Policy Makers Live By

この本は、けっこう本音で書かれている。本音で書きすぎたのか、結論はいたって常識的なものだ。投資回収をきちんと行うためには、白人で男性であり、高学歴で高所得の起業家がスタートアップさせた高成長分野の企業で、すでに投資家による投資実績のある企業を選べ、というもの。 

これ、米国投資家の間では、とるに足らない常識。

また著者のリサーチによると、起業家が女性、黒人、低学歴や貧困者の場合は成功確率が低いということも示している。

これも、米国投資家の間では、とるに足らない常識。ただし差別的な受けとられ方をするので活字にはされない。業界人がレストランなどに集まった時にはけっこう出る話題ではある。

ただし、著者が言うような「女性、黒人、低学歴や貧困者」が起業して投資家に利益をもたらす確率は低いかもしれないが、Base of Pyramidの底でそれなりの起業スキルを学習して、Self employしてゆくのは貧困脱出という目的を達成するためにはポジティブなインパクトがある。現にマイクロファイナンスの仕組みをうまく使って貧困から脱出している事例は、バングラデッシュ、インドでは数限りない。

いくら論理実証的なリサーチをベースにしても、「考え方の考え方」、「感じ方の感じ方」がステレオタイプにはまっていると、生産的な結論は出ないものである、ということを語っているのではないか、この本は。


梅棹忠夫 『文明の生態史観』のWorld View

2009年07月15日 | No Book, No Life


高校生のころ大江健三郎に飽きた時に、この本に遭遇した運のつきだった。当時、世界史の教師は自称マルクス主義者で、講義には教科書はまったく使わず、ひたすらエンゲルスやマルクスの話をしてそれを生徒に書きとらせるというものだった。

まあ、それはそれで唯物史観に触れることは面白かったのだが、梅棹忠夫 『文明の生態史観』を一読して一気に探検や放浪癖に火がついてしまったのだ。梅棹忠夫は、京都大学在学中に今西錦司が牽引した中国北部、大興安嶺探検など数々の探検に参加した。

自分の足腰を使って現地を体験して、徹底的に観察をして自分ならではの世界観を創ってゆく。こんな面白い生き方はない!

高校(旧軍系といいながらやたら日教組教師が多かった)を抜け出して大学に入ってからは自転車でインドとネパールを走り、その紀行文でライターデビューしたのは、実は、『文明の生態史観』の影響をまともに食らったから。

ちなみに、一緒にインドネパールを自転車で走り抜けた悪友が、抜群の記憶(録)力を発揮して当時の手記=「インドを走る!」を残している。

さて梅棹モデルでは、世界を大胆に模式化する。つまり、モンゴル高原からアラビア半島までななめに走る乾燥地帯の両どなりに、I. 中国、II.インド、III. ロシア、IV. 地中海=イスラム世界があって、さらに中心から遠ざかった辺縁の地に西ヨーロッパと日本がある。この辺縁の地だったところが中心部から文明を導入し、高度の資本主義まで築いたというのが梅棹の「文明の生態史観」であり。以下のような理論が展開される。

・東洋でも西洋でもない「中洋」(ミャンマー以西、アラビア半島以東)の発見
・日本と西洋の並行進化論
・日本の脱中国と西洋の脱イスラームは並行現象
・漁撈革命、牧畜革命、農業革命
・比較宗教学との接続

西洋に対するやるせない消化不良感に苛まれ、劣等複合がそこらじゅうに転がっていた当時の状況のなかで、たしかにこの本は、さっぱりと日本と西洋を対置させた。そしてアメリカは西洋の亜種ということで、上の図では西洋に含まれてしまってどこにも形をとどめていない。

案外、こういうところが読書人にウケたのではないだろうか。

久しぶりに通読してみて、古さは微塵も感じられない。逆に、I. 中国、II.インド、III. ロシアの経済的なテークオフ状況、IV. のイスラム世界の葛藤状況(イランや東トルキスタンなど)の今日的状況が、すっと腑に落ちる。

World View(世界観)を創っていくときの一つの見方としてお勧めの一冊だ。

さて「文明の生態史観」その後、多様な知識人の心をとらえ、いろいろな発展・拡張系の書が書かれている。

・川勝平太「文明の海洋史観」
・森谷正規「文明の技術史観」
・村上泰亮(やすすけ)「文明の多系史観」




日本教と日本的人的資源

2009年07月05日 | No Book, No Life


日本人はよく集団主義的だと言われてきた。しかし、労働経済の小池和男さえもが、日米の企業社会の雇用者の行動様式を分析して、日本人は実は個人主義的だといっている。

「日本人=没個性=集団主義的」というのは、ステレオタイプな見方にすぎないのだろう。かといって、個人主義でもない。「個人主義でない」というアイディアは明治の昔から、西洋に接した内村鑑三、南原繁、夏目漱石、芥川龍之介、福沢諭吉らが、ずっと考えてきた大きなテーマ。

個人主義でもなく集団主義でもない。ではなんなのか?中間領域に横たわる仲間主義である、というのが仮説的な答え。

鋭利な個人主義で世間に屹立するのでもなく、強固な絆を共有する集団に自我を積極的に帰属させるわけでもない。また一神教の構造で神様と契約を結び、個人の救済をひたすら求めて信仰をするわけでもない。また宇宙の法則をまんなかに置いて自覚的に無神論をいただいて生きてゆこうというんでもない。

温度の合う仲間、利害が対立しない仲間、個と集団の緊張がゆるやかなに緩く結び付く仲間主義こそ、日本人の行動特性じゃなかろうか?このような疑問から論を拡げていったのが奇才・山本七平(故人)。

さらに正統的社会科学を網羅的に渉猟した小室直樹は山本七平の日本学を下敷きにして「日本教」なる行動様式を分析する。「日本教」といっても奇天烈な新興宗教ではない。トランスディシプリナリーな社会科学、人文の知見を動員して日本人の行動様式をひも解く説明原理の集大成のようなものだ。

山本七平、小室直樹の知の系譜は、あまたあるウゾウムゾウの日本人論を押さえ傑出した議論をしている。「仲間主義」にとって貴重な知見の提供元。しかし、この論のあまりにもトランスディシプリナリーさのためか、専門分化しすぎて固まってしまった学問の世界はこの種の議論に照準を合わせるほどの度量の広さはなかった。

「日本教」を知的枠組みとする日本的人的資源管理論があってもよい。というか、人的資源管理論をローカライズして日本的~とするときには、「日本教」にようなメタな枠組み設定が要請される。

経営学カテゴリーのなかでも人的資源論はジャパナイズされやすい領域。ガラパゴス的HRM=日本的人的資源管理論を窮極させてゆくとタコつぼにハマりがちだが、普遍の中でニッポンHRMを分節させてゆくには、グローバル企業で展開されている普遍主義的HRMとの比較が欠かせない。