よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

「今、ここに生きる仏教」 大谷光真 X 上田紀行

2010年12月30日 | No Book, No Life

俗事もなんとか終わり、家の門に門松、玄関にしめ飾りをかざり終えて、今年最後のブログといったことろでしょうか。

上田紀行先生と良き御縁をいただき、東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻の「生命の科学と社会」という講座で非常勤講師をしました。来年もやることになっています。その講義が終わった折、「今、ここに生きる仏教」という新刊本を頂きました。

サインもしていただき、No Book, No lifeを信条としている身にとっては、実にありがたいことです。



この本は、大谷光真(浄土真宗本願寺派第24世門主)と上田先生との対談本です。

一言でいうと、実に面白い、本質的な、そして読み方によってはコントラバーシャルな議論が繰り広げられている本です。

この本を読む前は、伝統的な日本仏教の果たす使命はすでに終わっていると思っているので、「なにを今さら・・」という冷めた気持ちもなくはありませんでした。中国大陸経由で日本に渡来した仏教はいわゆる大乗仏教であり、仏陀が説いた言説(アーガマと呼ばれる原始仏教経典が最も忠実にその教えと法に関する言説を残している)とはほど遠いものです。以前、阿弥陀仏の由来について考えてみましたが。

大乗仏教、ならびにその一つの中心をなす「法華経」に対する率直な見解を以前一文にしたことがあります。対談の中でも語られているように、かつては葬式仏教とさえ揶揄された、その葬式仏教さえもが成り立たなくなっているジャパナイズされたローカル仏教(日本教仏教派)は確かに危機的な状況にあります。

さて、浄土真宗は、修行、呪術、エゾテリック(密教的)な行法などを完全否定し、ひたすら阿弥陀如来の慈悲にすがる(まさに他力本願)ことにより、極楽浄土に往くことを教義の中心に置きます。

如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」をそのまま受け入れて心底信心するすると、ただちに浄土へ往生することが決定的に予定される、その後は報恩感謝の念仏三昧の人生をすごすべし、という教え(三密の語密のみを取り出して、身密、意密を省略)です。


同著の中でもっともびっくりしたのは、大谷門主のこの言葉。

「・・・『仏教者には何が必要なのか』という質問について非常に考えましてね。はたと思いついたのは「修行」が必要だと」(117ページ)

そうですか、「非常に考え」て「はたと思いついたのが修行」なんですね!

なにげない言葉のように聞こえますが、実はこの発言は真宗の教義の根本に関わる一大時事です。

すかさず、上田先生は、

「修行を否定する真宗の中でそれをおっしゃるとは!」と叫びます。

その後で、大谷門主は「人生修行」という意味です・・・とある種、言い訳のような言辞を繋ぎますが、「修行が必要だ」は間違いなく本音でしょう。あとがきで「少し口が滑ったところもありそうです」(285ページ)と言っていますが、それは、この部分を含んでいるはずです。

ただし真宗が依経とする「観無量寿経典」にも、阿弥陀仏の浄土に往くための「十六観法」(=意密)という意密系の修行法が説かれています。決して唱名念仏だけで成仏するわけではありません。大谷門主が「十六観法」について言及しないのはちょっと不思議です。

さて、仏教における修行は、ここでも述べたように根本仏教経典で仏陀が説いている修行法(メソドロジー)に他ならなりません。法然、親鸞の日本ローカルな閉じた血脈(けちみゃく)にとらわれることなく、世界宗教としてのBuddhismの、学問的にも検証されている原始経典群テキストに結集・継承されているメソドロジーに回帰すればおのずと答えはあるのですが。。

その他、大変興味深い議論がなされています。上田先生によるおっとりとしながらも切れ味鋭い質問が、大谷門主の本音を引き出し、次々とタブーを破るような議論へ繋がってゆきます。

上田先生は、龍谷大学に新設された実践真宗学研究科で非常勤として教鞭をとられるそうです。どんな講義をされるのか興味津津です。


本の質感

2010年12月09日 | No Book, No Life


モノカキ稼業を、ひとつの世をシノぐヨスガにしている身にとっては、出版社から届けられる段ボールを開いて、自分の本を視野に納める瞬間は、はやりなにものにも代えがたい。amazon.co.jpで垣間見る自分の本の仮の姿とは、はやり違うといことに気がついた。

世はこぞって、電子ブック・ブームの到来でにぎわっているが、やはり、新品の本の香りとインクの匂いにはある種の「質感」がある。その質感は脳のけっこう深いトコロを刺激してやまない。

しかし、その質感が3000円なにがしかの価格と見合うかと言われれば、??である。紙が丁寧に折りたたまれたBookという媒体は、はやりとほうもない贅沢品なのだ。紙やインクという物的媒体をはなれて、コンテンツのみを電子的に流通させる電子ブックのほうが、はるかに経済的だろう。

たぶん未来の人間は、本当に本のように進化した端末(タブレットやkindleのような装置を柔らかくしてまるで本のような手触りのある装置)でコンテンツを消費し、思索を深め、豊饒な意味をそこに紡ぎだし、あるいはイノベーティブなアイディアをスパークさせてゆくのだろう。そんな近未来の読書の流儀と比べれば、自分のそれは、旧人に属するのだろう。

僕には極度の悪癖がある。というのは、本という本に、グチャグチャとラインを引いたり、余白に感想や批判を書き連ねるのだ。ひどい場合には、本の文脈からふと思いついたアイディアを書きなぐることもしばしば。これでは古本としての価値は消失するが、神保町の古本屋で本を漁るように買っても、売ることはないので、よしとしているのだが。

しかしながら、この私秘的な悪行のお陰で、自分の思索を本に埋め込んで、というか、著者の思考と志向をなぞらえることによって自分のアイディアを深めることができる。その意味で、読書というのは、本を書くための無意識的な助走なのだろう。

高い値段を払って本を買う理由は、そんなところにしかないのではないか。それにしても原稿料や印税を得て、本を書くという所作は、因果なものである。

 「仏教看護の実際」:ケアサービスのイノベーションは霊的存在へ

2010年12月03日 | No Book, No Life
12/15と12/22、東京工業大学で「生命の科学と社会:Life Science and Our Society」(上田紀行先生)の講座で、「生老病死の苦とヘルスケア」と「ケアリングのイノベーション」についてレクチャー(非常勤で)します。MOT(技術経営)分野では、農工大や日本工大で授業を持っていますが、MOTの文脈では語りきれていないことをお話しするいい機会なので、よろこんでお受けしました。

ケアリングは、ケアされる対象の拡がりとともに拡張します。つまり、物質圏、精神圏、それらが交わる身体性、そして身体性のまわりに創発している、いのち圏と霊圏にまで拡張してゆきます。

霊なんていうと、「オヤッ!?」、「オカルト~!?」、「コワ~!」、「江原さんみたい~」と思う人がいるかもしれません笑)

しかし、世界保健機関(WHO)が、1999年のWHO憲章全体の見直し作業の中で、健康の定義を見直して、「健康とは、身体的、精神的、霊的(スピリチュアル)及び社会的に完全に良好な動的状態であり、単に病気又は虚弱が存在しないことではない」と再定義の提案を行っていることでもわかるように、健康・医療のケアリング・サービスにとって、霊的(スピリチュアル)な実存として人間を捉えることは、もはやあたりまえのことです。

さて、QOL(Quality of Life)のライフ(Life)にはいくつかの意味があります。

まずは人生としてのライフです。身体を授かってオンギャ~とこの世に生まれて、死ぬまでのすべてのプロセスです。人間はいかに生きるべきか!?と悩んだりします。

二番目は、生命としてのライフです。その生命によって起きる現象は、生命科学の対象としては、急速に解明、応用されつつあります。生命によって起きる現象は解明・応用されつつありますが、生命そのもの=いのちとなると、未解明なところが多すぎます。

三番目は、生活としてのライフです。この世をシノぐ人間は社会での人間関係なしには生活することができません。ここでは経済、法律、経営、各種社会制度やシステムといかに折り合いをつけてゆくのかという社会性が問われます。

四番目はいのちとしてのライフです。身体性を中心として、かけがえのなさ、そして存在の深奥で他のいのちと繋がっているいのちは、こころ、あるいは意味が問われる精神圏、物質圏をまたいで存在します。

一番目の要請に応えるものは、なんといっても人文(Humanity)でしょう。二番目の要請にこたえようとするものが近代科学、ここでは生命科学(Life science)と限定してもよいでしょう。三番目は、世間智とでもいうようなものですが、いちおう社会科学(Social science)がそれらの基盤的なものを作っています。

そして四番目です。これはいったいなんなのか?たぶん、人文、生命科学、社会科学などから、よりどりみどりの捉え方があるんでしょう。しかし、古来、この問題に正面から取り組んできたのは宗教(Religion)なのでしょう。ツラい人生をいかに生きるべきか?という問いを越えて、死に逝く人をいかに看取る?死んだらどうなる?という問いは、人文、社会科学、生命科学ではちょっと手に負えません。



そんなことが気になっていて、母が日医大病院に入院たときに、ふと立ち寄った院内の書店で「仏教看護の実際」藤腹明子著(三輪書店)という面白い本が目にとまり(共時性の発動?)、さっそく読んでみました。

拡張するケアに身を置く職業が看護師です。そして看護師に学問的体系を与えるのが看護学です。その看護学は、米国で大いに発展を遂げた近代科学の流れで構築されてきました。

この大局的な系譜のなかで、スポッと穴があいている4番目のソリューションにあたるところに、正面から接近しているのが「仏教看護」ということになり、ここにこの本の大きな意義があります。

看護師でもある藤腹明子氏は、法華経などフィクション系創作物には目もくれず、原始仏教のテキストのみを丹念に引用してます。ここに、筆者の見識の高さが現れています。ちなみに、法華経に関する私見は日経BP社のコラムにも『語られ得ぬ法華経の来歴』として書きましたが、なぜか阿修羅掲示板『語られ得ぬ法華経の来歴』にも載っています。

著者の藤腹明子氏は佛教大学の御卒業とのことですが、浄土宗の開祖=法然上人の言説、大乗経典の引用一切なし、原始仏教系のテキストのみの引用と解釈というのは、なかなか奥深いものがります。

三十七菩提文法(七科三十七道品)のなかの「七覚支法」を援用して看護ソリューションを提言している部分(p100~)が秀逸です。もっとも七覚支法が最も顕教的で、活字にしやすい部分です。p97~の「仏教看護における看護過程」も実に読み応えがあります。アメリカで発祥した現代看護理論の圧倒的影響下にある今日の日本の看護界にあって、一服の清涼剤にも似た身に沁みる言説が展開されています。

ヒューマンサービスを密教の脈絡でとえらることもできますが、ブッ飛びすぎるので、顕的な「七覚支法」の側面で十分なのかもしれませんが。

さて、三十七菩提文法は、パーリ語などで記述された雑阿含経「応説経」などの、原始仏教テキストに説かれたているシステマチックな三十七の修行法=成仏法のことです。具体的には、念処(四念処法)、正勤(四正断法)、如意足(四神足法)、根(五根法)、力(五力法)、覚(七覚支法)、道(八正道)のことを指しています。八正道は大乗経典にもよく伝えられ、現代の大乗系仏教でもしきりに説かれていますが、本質的に重要なのはそれ以外のところです。教えではなく、法=メソドロジーだからです。

念処(四念処法)、正勤(四正断法)、如意足(四神足法)、根(五根法)、力(五力法)、覚(七覚支法)のスピリチュアル・ソリューションを看護サービスのなかにいかに展開してゆくのか?ケアリング・サービスの対象を霊的存在に拡張するとき、既存の人文、社会科学、生命科学で手に負えない領域をカバーしてくれるでしょう。

この文脈で、ケアリング・サービス・イノベーションの新しい地平が切り開かれてゆくことを期待したいですね。読者として、次の本では、このあたりの論述と言説を期待したいものです。

「生きる意味」と「患者の生き方」

2010年11月11日 | No Book, No Life
このところ、いのへるがらみでいろいろな御縁を頂いて、すばらしい何冊かの本を献本いただいています。原稿の草稿づくりも兼ねてメモしておかねば!

***

医療サービスのイノベーションは薬品、医療機器、人工多能性幹細胞、移植臓器を含む人間・生物由来製品などのモノ(物質圏)によって<も>創発します。とくに、モノのイノベーションを重視する製造業、エンジニアリング、MOT(技術経営)などの視点にとってイノベーション・パイプラインやオープン・イノベーションは今や中心的な課題となっています。

このような文脈ではビック・サイエンスと医工連携などのエンジニアリングによるビック・チケットが俄然注目されます。


<田中彰吾、意味のある偶然の一致の現象学、p138を改変)

ところが、医療サービスには患者の心身に対して提供され、患者とともに共創される、という性格があります。心身の「心」は精神圏であり、心身の「身」は身体です。生命圏は、身体を中心にして物質圏、精神圏にまでまたがっています。絵にするとたぶん上のようになります。

でも、物質圏を相手にしてきた近代の自然科学、そして正統的な西洋医学では、原因と結果という因果律を重視し、データの蓄積と分析から一般性のある理論を導くという普遍志向があります。特に1980年代にサケット博士らによる根拠のある医療(EBM: Evidence Based Medicine)の台頭以降、この傾向が強まっているようです。

この傾向を定着させたのが近代科学を牽引してきた物理学であると見立てる向きからは、「物理学帝国主義」(村上陽一郎)という揶揄さえもたびたび投げかけられていますが、ちょっとこの言い方は品がないですね。


それに対して、精神圏では、個別・特殊性が重視され、意味、物語、情念、情緒といった側面が全面に出てきます。たとえば患者の苦しみ、やるせなさ、しんどさ、絶望、希望、生きがいといった心象や意味は、(狭義の)近代科学の手法のみではなかなか捉えることができません。先端的といわれる認知心理学や脳科学でさえも、やっと意味、物語、情念、情緒の定量的把握の鳥羽口についたばかりです。

ちなみに、物質圏の因果律に対して、ユングは、物質圏、精神圏を通底する意味のある偶然の一致=共時性(シンクロニシティー)を対置させていますが、遠隔癒し(distant healing)、治療的接触(therapeutic touch)などの医療サービスの領域からユングのシンクロニシティーは復活してくるでしょう。



こんなことを考えるために東工大の上田紀行先生に頼んで寺子屋セミナーでお話をお願いした折、「スリランカの悪魔祓い」、「宗教クライシス」、「生きる意味」、「肩の荷を降ろして生きる」(まだまだ他にもあります)の一連の著作の論点と主張を、人生経路の披瀝を含めながらのお話を伺いました。



上田先生の巧みな話法とリスナーを巻き込む臨場感溢れる解説は、凡夫が語れば露悪的な身の上話(?)でさえも、ペーソスに満ちながらも不思議と明るく意味深い挿話に昇華させます。

さて、前述した個別性、特殊性について、上田先生は、もっとわかりやすく「かえがえのさな」とスパッと表現します。生きる意味が涵養され、発揚される人間の「かえがえのなさ」は、競争的市場のなかでは、交換可能なモノになってしまい、市場原理によって効果、効率が強く求められる結果として、「意味」が疎外されてゆくと論じます。

「スリランカの悪魔祓い」は決して荒唐無稽で面妖な呪術ではなく、共同体を維持させる伝承文化であり、絶対主義に立とうとも、構成主義に立とうとも、十全な精神界ひいては社会システムを保持するはたらきがあるわけです。

この文脈において、日本の「悪魔祓い」はどこに行ってしまったのか?という問いは重いものです。「悪魔」が市場の陰に隠蔽され、市場そのものが、癒しと絶縁された呪いの悪魔になっているのかもしれません。

物質界は自然科学(サイエインス)、精神界は人文(ヒューマニティ)などという都合のよい二項対立的な区分け、あるいは棲み分けは、本来の医療サービスにはできません。本来の医療サービスは二項対立ではなく、止揚を志向するものだからです。



寺子屋セミナーで、知己を得た慶応義塾大学教授(医療看護学部・医学部)の加藤眞三先生(患者のための医療情報リテラシーというサイトを運営されています)から「患者の生き方」と「患者と作る医学の教科書」を贈呈いただだきました。

ラッキーというか実に不思議な邂逅です。ちなみに加藤先生は上田先生による著作物の熱心な読者でもあります。

「患者の生き方」に通底する姿勢は、患者の生命圏全体をホーりスティックにケアしてゆこうというものだと感じました。もっとも主体は「患者」にあるので、ケアする⇔ケアされるというのは、対等な、あるいは互恵的な関係から出発すべきもとと捉えます。患者と医師あるいは医療チームの関係を、筆者はこのようなタームは使わないまでも、まさに、共創性、共時性、共進性、共振性の様相と捉えている点に共感しました。



上に記した物質圏のビックサイエンスによるビックチケットと対置して言えば、「患者の生き方」で提唱されている「行(生)き方」とは、生命圏に力点を置いて、身近な医療資源を引き寄せてじょうずに使いこなし、患者と医療チームとが、よりよい医療サービスをいっしょに考え、実践してゆこうという、草の根医療サービス・イノベーションと言ってよいでしょう。すばらしいです。

イノベーション研究では、ビックサイエンスの知を、産官学プラス金融とが連動し、知財に転換して応用し、ビックチケット、ビッグイノベーションを創発させるという流れに注目が集まりがちです。しかし、長大かつ高額なイノベーション・パイプラインを経ることなく、公共圏で特段の占有的権利を主張することもなく、静かに悩める人々の間に普及・伝搬してゆく草の根医療サービス・イノベーションの効果にも注目したいものです。

第10章は「病における癒しと祈り」。でました!祈りの癒し効果は実はハーバード大学などの研究者が、無作為化臨床試験(RCT)を行い、統計的に有意な効果を認めています。

この章は、祈り(隠された力)というヒューマン・サービスをどうとらえるのか?についての奥深い示唆に富んでいます。生老病死の苦に対していったいどのような医療サービスが求められるのか、について極めて深い洞察が綴られています。

「今までの人生に対する空虚感、生きがいの喪失、死にゆくことへの不安感、死後の世界はどうなるのかなどの悩みが、スピリチュアル・ペインであり、その痛みに配慮し対処しようとするのがスピリチュアル・ケアです」(患者の生き方p122)

祈り(隠された力)とは、共創性、共時性、共進性、共振性の様相を取り込んだ生命圏のヒューマン・サービスなのでしょう。しかしながら、

「YES + 隠された力 = 癒し
NO + 隠された力 = 呪い 」(スリランカの悪魔祓い p279)

ともみたてられるので、要注意です汗)

もちろん、このような発想は、伝統的近代科学に凝り固まった人からみれば、「なんじゃ、それ!?ただの異端、妄説!逝ってよし!」ということでしょう。しかし、そこは、古人の言を借りて反論とするのが賢明でしょう。

「試に見よ,古来文明の進歩,その初は皆所謂異端妄説に起らざるものなし」(福沢諭吉)

『創造するリーダーシップとチーム医療~医療イノベーションの創発~』

2010年10月13日 | No Book, No Life


新刊本を上梓しました。

(社)日本医療経営実践協会(日本医療企画)の依頼で書き下ろした総説的な教科書です。

チーム医療によるイノベーション創発がこの本の中心テーマです。人的資源開発、組織行動マネジメント、リーダーシップ、アントレプレナーシップ、医療社会起業といったテーマを渉猟しています。副題の「医療イノベーションの創発」がこの本の補助線です。

なんとか秋の出版に間にあってホッとしています。。

本書の目次、内容はコチラです。

<以下貼りつけ>

第1章 チーム医療によるイノベーション
 1.日本歴史始まって以来の大変化~大量死時代の到来
 2.慢性疾患の増加
 3.キュアからケアへのシフト~大量死時代の看取り場所
 4.医療サービスの変化トレンド~キュア・ケアの場の大変化
 5.チーム医療化の動向
 6.チームとは何か~チーム医療の定義
 7.チーム医療の今後~内に対する凝縮性と外に対する拡張・拡大性
 8.専門職によるチーム組成~日本的チームの特性
 9.チームの発展
 10.インフォームド・コンセント
 11.チーム医療のマネジメント方法

第2章 未来を創造する力=リーダーシップ
 1.実践力とは何か
 2.リーダーシップとは
 3.リーダーシップとコミュニケーション
 4.リーダーシップ研究の百家争鳴
 5.リーダーシップ発揮の手法~コーチング、内発的動議づけ、エンパワーメント
 6.マネジメントとリーダーシップ
 7.情動的知性と社会的知性
 8.フロー体験のマネジメント
 9.シンクロニシティ創発のリーダーシップ

第3章 イノベーションとリーダーシップ
 1.イノベーションとは
 2.イノベーションのさまざまな理論・モデル
 3.社会イノベーションとは何か
 4.社会イノベーションの普及とスケールアウト
 5.社会事業のモデル
 6.サービスの特性
 7.社会イノベーションとサービスの共創性
 8.医療サービスのイノベーション創発場
 9.イノベーション・パイプライン

第4章 アントレプレナーシップと医療社会起業家
 1.医療・保健・福祉分野におけるアントレプレナーシップとイノベーション
 2.社会起業家とは
 3.医療社会起業家とは
 4.医療社会起業家の特性

<以上貼りつけ>

「釧路湿原の聖人・長谷川光二」伊藤重行著

2010年09月10日 | No Book, No Life


ヒッコリーウィンドの安藤誠さんの濃密な部屋の書斎に何気なく置いてあったこの本の背表紙に魅せられて、パラパラめくってみると、とてつもなく面白い本だということがわかった。

神保町でもそうなのだが、面白い本と出逢うときは、本から送られてくる磁力・霊気についつい反応してしまうものだ。

「伊藤先生のその本、持って行っていいですよ」という有り難い言葉に甘えて、自転車のパニアバックに入れ、鶴居から襟裳岬を経て札幌までの470kmを、この本と一緒に旅をすることになったのだ。

著者の伊藤重行さんは、この書物を書くにあたって現地(鶴居は生まれ故郷)で調査、取材しているときに、マコトさんと知り合い、マコトさんの文章も引用文献にて引かれている。それ以来、伊藤さんとマコトさんは親交を深めているそうだ。

さて、この本の著者伊藤重行はホワイトヘッドのシステム論、サイバネティクス論の紹介などに実績を持つ経済学者。サバティカル休暇を利用して、若かりし少年の頃薫陶を受けた同郷の長谷川光二の生活、足跡、時代背景を丹念に史料、資料を紐解いて記述した労作である。

「私は60歳くらいになってから恩人としての長谷川光二先生の一生をじっくり考え、日本の歴史に残るようにしたいと思っていた」(p280おわりに)著者は、なるほど、この本を渾身の力を込めて書き綴ったことが行間に漂う。自分の専門に汲々とすることなく、このような書を世に出す姿は教養的知識人の凛とした気概さえも伝わってくる。

自転車で走っている最中は本など読めるはずもなく、休息の合間や、ヘッドランプを頼りにテントの中や、さもなくば温泉に設えてある和室のごろ寝部屋などで読んだ。

いわゆる本好きで、かつアウトドアのなんからのジャンルに傾倒している人にとってアメリカ合衆国の作家・思想家・詩人のヘンリー・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau、1817-1862)は、馴染みの人物だ。



登山、自転車、幕営生活、自然散策が嵩じて小さな山荘まで持ってしまった自分にとって、ソローとの関わりあいは、触媒のようなものだったのかも知れない。

街でのあくせくした生活に飽き、カウンターカルチャーの色彩、叙情的な記述やNature writingに対する渇望の度合いが嵩じるとき、たしかにソローの文体はアウトドア志向がいくぶんかある読書人(literati)の心の奥底に蠢動するオリエンテーションをくすぐらずにはいられない。



ソローを、崇拝とまでいかないまでも、思索生活のある種の糧とせざるを得なかった人間にとって、ソローを比較対象の相手として、木っ端微塵に批判する同書の次の部分は驚嘆に値する。否、痛快でさえある。



「やはり両者の違いは宣伝力の違いによって起こっていると解釈した方が良いかもしれない。私が指摘したようにソローの人生の実験と長谷川光二の一生の実験は良く研究してみれば、長谷川光二の方が多くのことをなしたに違いない。ソローばかりではないが、明治時代からの日本のインテリが紹介した思想が日本の伝統的知や生き方と大差ないにも関わらず、良いように紹介されていると」(p106)

この著を紐解けば、著者が克明に調べ上げた長谷川光二が残した俳句の質量、そして東西古今の蔵書5000冊がいかに稀有なものかが判然と了解される。光二のライフスタイルは、当時の知識人の吉田絃二郎(早稲田大学教授、小説・随筆・評論・児童文学・戯曲など膨大な著作を残す。井伏鱒二はその弟子)、船越道子(画家)、望月百合子(婦人運動)、石川三四郎(アナキスト)、小宮山量平(児童文学作家)、市原豊太(東大・フランス文学)らにも強く影響を与えている。

それらの知識人のうち少なからぬ人々が遠路はるばる釧路湿原チルワツナイの長谷川光二宅を訪れていることも伊藤は丹念に追跡し、考証を加えている。

この本の隠し味は、当時の文芸運動に関わっていた知識人の人間模様が、光二との邂逅を通してまるで盆栽のようにまとまっている点にある。文芸やリベラル・ア-ツ系には疎いことを常とする経済学者とはいえ、著者の幅広く奥ゆかしい教養を感じさせるには十分だ。

                 ***

さて、ソローは今や世界中に信奉者、ファンを増やし、The Thoreau Society(ソロー学会)なんていう学会さえもある。米国以外にも25の国々に支部的な集まりがあるそうだ。そして日本にもその名を冠した学会がある。また、ソローが2年2ヶ月だけ棲んだ小屋もレプリカとして復元されて顕彰されている。

だとしたら、鶴居が、釧路湿原が、日本が誇るべき長谷川光二邸はどうなっているのだろうか?そしてその貴重な蔵書、思索、農耕牧畜の営みの痕跡は?

                 ***

p13には長谷川邸の位置が記されている。キラコタン岬と宮島岬の中間の奥手にある、「どさんこ牧場」の前の細い道(昔の道道535号線、最近は243号線と改称されたらしい)を南に下ったあたりである。

かって自転車で3泊しながら石北峠を越えて北見に降り、美幌峠を越え、屈斜路湖を駆け抜け、塘路から鶴居にぬけるためにこの道を走ったことがある。もちろん当時は長谷川光二のことは知る由もなかったのだが・・・。

ネットで調べてみると、長谷川光二邸は荒れるにまかされている状況のようだ。たとえば、実際にかの地を訪れた人が写真つきで紹介しているサイトがある。「鶴居村 長谷川光二 邸宅跡 2009年10月17日」などだ。


<写真:「鶴居村 長谷川光二 邸宅跡 2009年10月17日」から引用>

また釧路の高校教師だった方のブログでは次のような回想談が載っている。「僕が長谷川夫妻の人生を追い始め、取材調査を進めだした頃、次女の方から取材の拒否を受けた。いわく「そっとしておいて欲しい。父も母も、そして私たち三人の子供も、当たり前に生きてきたのだし、特筆されたくはないのですから」。作家としては落第だと思ったが、僕はその時点で取材調査の手を止めた」とも記している。

このブログの記事には、この本の著者の伊藤重行の次のようなコメントが載っていた。

「私は鶴居村出身で長谷川光二先生から学問を教示していただいた者です。素晴らしい方でした。子供たちは批判的で、特に次女と長男ですが、この数年前にそんなに批判するのであればあなたは父をどの程度乗り越えましたかという私の質問に返事がありませんでした」

                 ***

どうやら複雑な背景があるようだ。資本主義社会において所有権は絶対であり、所有権を継承している親族の意図は尊重されるべきだ。しかしながら、朽ちるに任せておけばこの遺産はやがて釧路湿原の土へと還ってゆくのは必定だろう。釧路湿原の土に還らせるということを作為的にエコロジー運動の一環としてやているのならば話はわかる。


<世代を越えて語り継がれるソローの山小屋>

しかし、そうでなければ話は別だ。

ソローの精神を尊重して、かってソローが2年2ヶ月棲んだ山小屋を複製、再建し、記憶に留めるため惜しみない努力をしているコンコードの公共と比べて、鶴居のそれは、あまりに作為がなさすぎはしまいか?

「私」の領域で解決が困難な問題の解決にこそ、「公」と「共」が出番があるはずだ。ホンモノを後世に伝えようとするソーシャルな責任、あるいは地域社会の「新しい公共」とのあ関わりあいが問われている。

ケースで学ぶ実戦 起業塾

2010年09月06日 | No Book, No Life


京都大学産官学連携本部の麻生川静男さんから献本いただいた本。麻生川さんは共著者のおひとりです。簡単に書評します。(ちなみに、ヒトリシズカのつぶやき特論さんも同著の書評をしています)

経営という社会的な現象を専門的に記述するときのスタンスは大きく二つに別れます。ひとつめは純粋な観察者の視点に立って、客観的に、あるいは論理実証的に記述する行き方です。ふたつめは、経営に深く関与した経験がある者が、自らの経験を基にして、そこから抽出されたパターン、モデル、公理、定理的なものごとを記述する行き方です。

前者の専門的記述スタイルの典型は経営学者のそれです。経営学者にとって、実務としての経営にタッチすることは積極的には求められません。ゆえに、請求書を発行したことのない人、経営計画書を書いたことのない人、人を採用したり首にしたことのない人、イノベーションについて当事者として取り組んだことがない人でも、大学院を出て経営に関する論文などを書けば経営学者の一端には入れます。後者の専門的な記述スタイルの典型は、経営に積極的に関わり、携わってきた実務家ないしはプロフェッショナルのそれです。

ここで注意しなければならないことは、起業経営(Entrepreneurial management)におけるプロフェッショナルな経験というのは、企業の管理職、事業部門長、新規事業創出担当者、会計士や税理士などのレベルではないということです。起業経営におけるプロフェッショナルな経験とは、そうそう間口が広いわけではなく以下のように限定されます。

1)グローバルレベルでのイクスパティーズが蓄積されたコンサルティング・ファームでのコンサルティング経験。(コンサルティング経験)

2)ハンズオン投資を行いイグジットまで持っていった経験。(投資経験)

3)自らリスクを取って起業し、かつイグジットさせた経験。(起業経営+イノベーション経験)

この本の著者達は、上記の起業経営プロフェッショナルの条件を持つ方々が中心です。その意味でクレデンシャルは高いと判断されます。

豊富な事例では、自らが関与したナマの物語が展開されており、読者にとって著者達が、その場、その場でなにをどう考え、判断したのかについて大きな学びの機会となることでしょう。巻頭に述べられている『自分経営』の感覚こそが、起業家に必須の資質でしょう。この特殊な感覚をベースにして論を展開しているところに見識の高さが顕れています。

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ハイレベルな実務家による著作物ではあるものの、ライティングスタイルについて気がついたところを挙げます。

・社会起業(Social Entrepreneurship)という切り口がない

本書はfor-profitのビジネス起業を中心に構想していますが、social(社会的)インパクト、社会イノベーションといった昨今の社会起業の動向に関する記述が見当たりません。これらのテーマに対しても俯瞰的に押さえておいたほうが、本書の相対的位置づけが明確になったことでしょう。

・知財を活かす「三位一体の戦略」(p246)
「知財戦略の三位一体とは、①研究開発戦略(技術戦略)、②事業戦略、③知財戦略」(p248)を挙げていますが、この言説は筆者オのリジナルな言説でしょうか?

妹尾堅一郎「技術力で勝る日本が、なぜ事業で負けるのか―画期的な新製品が惨敗する理由」(2009年7月刊)に同型の記述があります。

・マーケティング・ミックスの4P解説のダブリ(p079、p216)

クラシックながらもマーケティング・ミックス=4Pの重要性はわかります。しかしながら、2箇所にわたって同じ項目の解説が出てくるのは、紙面がもったいない気がします。

・ロゴスとエートスで書く(p166)
著者は「投資家は『ロゴス』だけではなく、『エートス』で投資する。投資家の『頭』ではなく、『直感』に訴えかけることが大事になる」

論理、理論、ビジネスモデルといったものをロゴスに含意するとしたら、直感を対置的に含意させるための適切なワーディングは「エートス」(行動様式:この訳はマックス・ヴェーバー研究の大塚久雄が初出)ではなく、「パトス」(感情・熱情・情動)とすべきでしょう。

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しかしながら、以上はむしろ瑣末な点とすべきであり、その瑣末な点にこだわり過ぎたら、本書の大胆さが損なわれるでしょう。読者には、瑣末な点は横に置き、本書の本質とじっくり対話をして欲しいものです。オススメの一冊です。

変わりゆく神保町

2010年07月25日 | No Book, No Life
神保町にある日本工業大学技術経営研究科で夏学期の客員をやっている。前研究科長の方と飯を食べながらパッと5分で決まった話だ。

No book, no lifeを信条とする身にとって、神保町に通う大義名分を得たのは至福の至り。



さて、神田小唄に「屋並屋並に金文字飾り」というのがある。

神保町の名は、江戸時代、この地区に広大な屋敷を構えていた神保伯耆守に由来する。明治になって市区改正が施され、最初の古書店・高山書店が誕生する。

徳川幕府が崩壊すると、このあたりに武家屋敷を持っていた大名や旗本(つまり、神保町界隈に武家屋敷をもっていた人々)は、一斉に国許へ帰ったり、徳川慶喜について静岡へ行ったりして、空家になってしまった。

代わってやってきたのは新政府の役人や書生たち。広い空地には学校や病院が造られた。例えば、東京大学の前身の「蕃書調所」が、「開成学校」になり、神田和泉町の医学所が「東京医学校」となって、それらが明治10年に統合されて東京大学となっていった。



学習院(学習院大学の前身)、順天堂(順天堂大学の前身)、東京女子師範学校、東京物理学校(東京理科大学の前身)、東京法学校(法政大学の前身)、明治法律学校(明治大学の前身)などが明治の初めから中ごろにかけて、神田、御茶ノ水、神保町、小川町近辺にでき上がっていった。

その後、有史閣(のちの有斐閣)、三省堂などが開店し、明治18年頃には神保町から小川町にかけて約50軒の書籍業者が営業していたといわれる。このようにして、神保町は近代化を担ってきた大学、そしてその界隈に集う気鋭の知識人、学生に書籍を供給し、また読書人の手からはなれた古本を流通させるという知識還流のエコシステムの一大基地となってゆく。

こうしてこの街は、知識人=読書人=book reading classにとってなくてはならない街となっていったのだ。

このような歴史的な背景を持つ神保町は出版業界の沈滞、押し寄せるデジタル化など紆余曲折を経ながらも、未だに世界に誇る本の文化(book culture)の磁力を保っている。欧州、米国、中国など、いろいろな都市を旅してきたが、本と古本がこうも集積した街は他にはない。



しかし古本愛好者、読書人の絶対的人数が減ってきており、神保町に足繁く通う人々の人数は減ってきているという。そこで昨今の神保町は、『読書人』の定義をマンガを読む人々にまで拡張してきている。

この日の神保町は、『週刊少年ジャンプ』に掲載されているマンガ、『ワンピース』をテコにした町おこしイベント≒『神保町ワンピースカーニバル』の真っ最中。



さくら通り、すずらん通りをブチ抜いて、『ワンピース青空展覧会』。街の通りには『ワンピース』の原画が陳列中。



「ワンピース」は1997年から週刊少年ジャンプで連載中で、単行本は累計一億九千万部が発行されている。これらのマンガの読者を神保町に引き込もうという算段は理にはかなっていると思う。



すぐ東側の秋葉原はいまや"AKIBA"として世界各国から家電を求めて旅行者が大挙して集まる街に発展中。とすれば、神保町は日本が世界に誇るアニメをテコにして街おこし=地域イノベーションを図りたいのか?

そんな図式は、面白くもあり、また一抹の寂しさをも感じさせなくもない。

イスラーム学の系譜

2010年07月09日 | No Book, No Life
しばらく前に、駿河台にて中央大学の櫻井秀子教授にお会いして、親しくご著書『イスラーム金融』を机上に置き、イスラーム社会と日本社会の比較論などに話の花が咲いた。

「日本的経営」は比較する相手がなければ、話は始まらない。そしてその比較する相手は1極をなす欧・米の経営モデルのみではダメで、第2極として、イスラームを置いてみたかったのだ。このあたりの雑感は、「イスラーム的経営」の地平線

ご教授をお願いしたいくつかの質問については女史の先生にあたる、黒田寿郎先生を紹介いただき、さっそく『イスラームの構造』を紐解く。はからずも、大川周明~井筒俊彦~黒田寿郎~櫻井秀子と継承されているイスラーム学の系譜の本流に邂逅しえたのは僥倖の一言である。

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西洋の対語として「東洋」があるとしたら、そこにはにはどのような哲学的、思弁的共通性があるのか。明瞭な形では存在しえなくても、東洋哲学の諸伝統の蓄積の上に新しい哲学を生み出さなければならない。

こんな壮大な問題意識から著者は膨大な知識を駆使し、著者独自の「共時的構造化」の方法によってイスラーム、ギシリア、儒教、仏教の系譜を縦横に跋渉して知の体系化を目指す。スコラ哲学、プラトン主義、新プラトン主義、ユング、フッサールの現象学など西洋の系譜もしっかりと押さえながら、記述は明瞭かつ分かりやすい。

そこかしこに溢れ出る術語概念に対する深い理解と分かりやすい説明は、なるほど、30カ国語に熟達した語学の広範な知識に裏づけられている。圧巻なのは、密教(esoteric religion)に関する奥深い理解が、本書全体を通底していることだ。凡庸な学者は、顕・密の顕を極端に重視することはあれども、密に対する見解があまりにも表層的なことがままある。

顕・密にわたる認識についての明快な枠組み設定がp214の意識の構造モデルで示されたくらいから、東洋思想に共時的に存在する哲学は、まさに「密」に集約されていることに読者は次第に気づいてゆく。




知識人は、日本社会を欧米のそれらと対比してのみ分析しようとするある種の病に冒されている。明治維新以降、欧米の文化、文明、科学技術はおろか、自由文芸までも積極的に移植してきた背景があり、大東亜戦争の敗戦をもって覇権国家アメリカの影響下に組み込まれてきた日本にあって、それは必然ともいえる桎梏なのかもしれない。

本書は、そのような退嬰的な思潮のなかにかって、歴然と社会比較の対象をイスラームに求める。タウヒード(世界観と存在論=価値観の根本)、シャリーア(法律・経済=社旗運営)、ウンマ(共同体=ともに生きるかたち)の3極構造からはじまり、それらを3層構造に読み直しつつ精緻な論が展開される。

泰斗井筒俊彦の弟子である著者の論は、井筒が「東洋哲学の根幹に通底する諸神秘思想の共時的構造化」をこころみた大著、『意識と本質―精神的東洋を索めて』の存在論を随所に引きつつ、イスラームの本質を冷静にかつ思弁的に著述してゆく。

その静謐な思弁はp352以降つづられる終章にあっては、強烈な問題意識に根差した議論に集約される。そこでは、黒田は、「旧ソ連崩壊後、覇権国は、共産主義という主要な敵の衰退、消滅に伴って、文明の衝突の相手として戦略的にこの地域(中東イスラーム地域)を選んだ感が強い」(p354)とみたてる覇権国を『同一律の帝国』とさえ呼ぶのを憚らない。

9.11以降、『同一律の帝国』(アメリカ)側からイメージが形成されたイスラーム=テロリストといった操作的イメージに無批判的に流される日本人一般に対して著者が抱いているであろう焦燥感が終章の行間にはあふれている。

非婚率の上昇、家庭崩壊、近所づきあいの希薄化、企業共同体の崩壊など、日本社会の小共同体の劣化現象は着々と進んでいる。『同一律の帝国』が推進してきたグローバリズムを無批判的に同調・導入してきた今日の日本の姿を、イスラームという鏡で映し出すとき、より問題の輪郭は鮮明なものとなるのである。

そのような意味合いにおいて、本著は、日本社会を相対化するよき鏡の役割をも果たしていると思われる。

資本主義・社会主義・民主主義

2010年05月29日 | No Book, No Life


大方の予想通り、ギリシャからスペインに飛び火。スペインの金融機関の経営破綻をきっかけに、25日以降の世界主要市場は再び株安、ユーロ安の連鎖に見舞われています。

一方、日本は金融不安の震源地でないにもかかわらず、株価の下落率が他国より大きいことに、国内では失望感が広まっています。これは外需依存の産業構造(マクロ的日本型MOTの姿)のためです。またぞろ、輸出主導で自律回復に向かい始めた日本でしたが、冷や水をかぶせられた形です。

以前書いたアマゾンの書評(自分の文章です)をメモ代わりに貼り付けておきます。

<以下貼り付け>

シュンペータの予言が現在進行中です。, 2009/2/20 レビュー対象商品: 資本主義・社会主義・民主主義 (単行本)

イノベーションの文脈から『新結合』のみを切り出して議論する向きもあろう。だがシュンペーターの真髄は彼が存命だった1940年代から未来へ向けて予測した未来の資本主義の変化にこそある。シュンペータ研究者は、この未来への青写真のことを桐箱に入れて「シュンペータ過程」と呼ぶ。

マルクスの労働価値説を真っ向から否定したバヴェルクを師とするシュンペータはマルクスを超えようとする言説を展開した。マルクスをはじめ予言をハズすのが経済学者の常だが、シュンペータの恐ろしさは、彼がハズした予言は今のところないからだ。

さて「資本主義はその欠点のゆえに滅びる」と書いたマルクスの逆張りでシュンペーターは「資本主義はその成功により滅びる」と意味深長なことを書いた。

資本主義の生命線であるイノベーションの担い手=企業家(起業家)が官僚化された専門家へ移行するにしたがい、資本主義の精神は萎縮し活力が削がれてゆき、やがて資本主義は減退する。なので企業家(起業家)は主要な活躍の場を産業分野からしだいに公共セクター、非営利セクターに移ってゆくとも言った。このあたりは、社会起業家の活躍を言い当てている。

シュンペータは「創造的破壊」というコンセプトを真ん中に据えた。創造的破壊を推進する資本主義のethos(行動様式)が衰弱し、資本主義の屋台骨ともいえる私有財産制と自由契約制が形骸化すれば、capitalismは衰退しやがては終焉を迎える。創造的破壊とは不断に古いものを破壊し、新しいものを創造して絶えず内部から経済構造を革命化する産業上の突然変異である。

さて、現下の大不況、恐慌は結果としての現象ではなく、「過程としての現象」と見るべきだ。溌剌たる資本主義の精神をリスペクトするならば死にかけ企業、死にかけ産業は、死にゆくままにしておき、今こそ新企業、新産業へと転換してゆく千載一遇のチャンスだ、キャピタリストの立場では。

大方の納税者やリバタリアンの主張どうりにGM,フォードを消滅に任せてゆくのであれば、おおいなる優勝劣敗の資本主義のプロセスは健全に機能しているといえるだろう。GM、フォードなどに巨額の税金を注入して救済するという行き方は、資本主義の否定なのである。もしそうなれば、アメリカ型強欲資本主義、金融資本主義は、社会主義化してゆく。税金で旧産業の余命延長をはかり、前回のクリントン民主党政権のときに議会に阻まれた国民皆保険もヒラリー・クリントンのもとで今度こそ成し遂げられるだろう。なにせ健康保険にも入っていない無保険の人々が4000万人以上いるのがアメリカだからだ。

現下のこの文脈のなかにこそ、シュンペーターを読まれなければなるまい。なぜなら現在進行形で、「シュンペータ過程」が眼前に現出しているのだから!

倒産、失業という血を流して資本主義の精神を取るか。倒産、失業という血をいっとき回避、つまり税金の投入をもって資本主義の精神を自己否定して社会主義化を取るのか。オバマ政権は実に歴史的な局面に来月立つことになる。ここがまさに「シュンペータ過程」なのだ。

元来、社会主義的資本主義だのいろいろ悪口を言われてきた日本資本主義だが、社会主義的資本主義は実は未来の先取り形態だったとも言える。おおまかに言ってしまえば、アメリカが行こうとしてしている地点に、日本はすでにいるのだ。「社会主義的日本資本主義のエスプリ」と勝手によんでいるのだが・・。皮肉といえば皮肉なことだ。

<以上貼り付け>

「社会主義的日本資本主義」ではあるが、輸出牽引型産業構造は昨今の局面では脆弱さを露呈している。したがって、ひとつの対応方法として、産業政策として、「社会主義的産業」の健康医療産業など内需市場喚起型のサービス・セクターを刺激するというやり方がある。

「新しい公共」というスタンスからは健康基盤=ソーシャル・キャピタルにコミットする社会起業家、NPO,NGOなどの活動をどんどん支援すべきだ。

健康寿命伸長は医療費増大を上回る → 医療費増大は経済にプラスになるという研究が出始めている。

ハーバード大学 ケットラー教授 とデューク大学のリチャードソン研究(1999)など。
→ 健康寿命の伸びによる健康価値の上昇は医療費増の4倍に近い。

ホール教授とジョーンズ教授の貢献:
健康寿命の伸長が経済的厚生(国民全体の経済的満足度)の大きな増加につながる事実を、経済成長リオンの標準的モデルのなかに取り入れたこと。

∴ コストセンター産業ではなく、成長産業の下支えをする成長担保産業として医療健康産業の再評価を行う必要あり。