群馬県は、芭蕉が来たわけでもないのに、なぜか芭蕉の句碑がたくさんあります。
ある資料によると全国に芭蕉塚は2,442基あるそうですが、そのうちひとつの県内に100基以上あるのは、山形104基、長野227基、群馬221基、埼玉116基の4県のみです。
これらはどこも山形以外、とりたてて芭蕉との縁が深い土地柄とも思えない。
私は長い間、これはきっと特定の時代にこれらの地で俳句が隆盛し、句碑をたてることがブームにでもなったのだろうくらいに考えていたのですが、細かく調べると、そこには時代それぞれに様々な興味深い理由があるようです。
今日、出入りの学校に新任のスタッフと一緒に挨拶に行ったら、帰り際に馴染みのある先生と出くわし、ちょうど見せたい資料があると、その先生がまとめた芭蕉塚の資料をもとに詳しく説明してくれました。
その先生のまとまめた資料によると、そもそも芭蕉の句碑や塚が建立される経緯を見ると次のような特徴がみられるという。
1、芭蕉の忌日(きにち)などに、芭蕉を慕って建立したもの
・ 芭蕉の三十三、百、三百年忌(平成5年、1933)などに
2、芭蕉が訪れた土地に記念して建立されたもの
3、それぞれの地域や景色、土地柄に似合った俳句を碑に刻んだもの
4、社中、連中、個人などが愛吟した俳句を碑に刻んだもの
5、その他の記念に際して、芭蕉の俳句を碑に刻んだもの
こうした分類をもとに時代を遡ると、その土地ごとにいろいろな縦糸、横糸のつながりが見えてきます。
ことのはじまりは、江戸の太平の世が長く続き、商品経済が発達するにしたがって、庶民の経済力が高まり、群馬県でも寺子屋などの教育がかなり広く普及するするようになったことなどがあげられます。
地形があまり水田に適さない群馬県は、養蚕などの換金作物が盛んになったこともあり、貧しいながらも古くから貨幣経済が発達した土地でもありました。
それは最近の歴史考古学の調査で、江戸時代の農村の生活が予想以上に豊かであたことが確認されていることでもわかります。
こうした想像を超えた豊かさは、寺子屋の普及や農村歌舞伎や人形浄瑠璃が都市部以外の農村でも盛んに行われていたことからも十分うかがわれます。
近世の江戸文化が、世界的に見てもきわめて高度な都市文化を持っていたことはよく知られていますが、そうした文化が地方の農村にまで広く普及していたことは、世界史的にみても脅威的なことであったと思います。
このような土壌が、この地に芭蕉塚を多くつくっていった背景にあったようです。
もちろん、地域や時代によって豊であったり貧しかったりする条件は様々なので、それらを一律に論じることはできません。
とりわけ東日本の場合、古来より中央政権からみれば独自の文化基盤がありながら、火山の噴火(古代の榛名山噴火、天明の浅間大噴火など)や震災などを契機にした飢饉など、たび重なる災害で壊滅的打撃を何度もうけてきた歴史があります。
枕詞のように繰り返されて語られる、中央の支配下にあった東北蝦夷の独自文化の基盤は、これから冷静に見直されなければなりません。
このような過去を知る貴重な遺産は、日ごろ私たちの身の回りにたくさんありながら、ひとつひとつの由来などは、忘れられたままの場合がとても多いものです。
ひとつひとつ、いつ誰が建立したのか、誰の書によるものなのか、
なぜその句がそこに選ばれたのかなどがわかると、どれもが愛着を増す貴重な歴史の史跡であることがみえてきます。
そんな芭蕉塚のひとつ、金島の旧三国街道沿いの坂道にある石碑をその先生が教えてくれました。
此あたり眼にみゆるものみなすゝし
ばせを
今は、坂の横は杉林で視界が遮られていますが、この坂から昔は、子持山、小野子山、赤城山が一望できたことと思います。
そんなことから、身の回りの風景がまったく違うものに見えてくるのは、とても楽しいものです。