かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

地方(じかた)組合の提唱

2008年10月24日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里
最近発売になった田中優子の『カムイ伝講義』(小学館)
半分くらい読んだところなのですが、とてもいいです。

タイトルから、不朽の名作『カムイ伝』の深いストーリーを読み解く本を想像しがちですが、どちらかというと『カムイ伝』に描かれている江戸時代初期の農民や海に生きる人々、武士や差別された人々の時代考証を大学の講義としてまとめたものなので、歴史の勉強のテキストとして読んですばらしい内容になっています。

宮崎駿の『もののけ姫』なども共通しているものですが、すぐれた作品はフィクションであっても、その背景描写がとてもしっかりしているので、現実にはありえない設定であっても、個々のリアリティからドラマの説得力が増すばまりでなく、その作品のテーマに対して観るものを、限りない想像にかきたてていくようになっている。


そんな感動のはなしは、そのうち本書の書評で書いてみたい。

今回は、そのことではなく、この本のなかに出てきた内容で触発されたあることについて書きます。

『カムイ伝』は一揆の描写がとてもリアルでダイナミックに描かれているのも特徴なのですが、本書では、その一揆が発生するきっかけとなることが多かった人間のことをとりあげています。

それは地方功者(じかたこうしゃ)といわれる者で、幕府の下級地方役人や諸藩の郡奉行など地方に精通した者のことです。

幕府や藩はこういう者を雇って巡見させて検見をはじめる。現地人管理者のようなもの。
この地方功者がはいると、必ず一揆が起こるとわれるほどの存在であったという。


このはなしは、本題ではないので、書評で触れるとして、私が興味をもたのは地方を(じかた)と読むことについてです。

今日、私たちは地方自治体をはじめ地方という文字を必ず(ちほう)と読んでいますが、この読み方には、
中央から見た地方、
中心から離れた田舎である地方、
といったニュアンスがとても色濃く染み付いています。

この意味合いが、地方自治体の自治の確立などといっていながら、中央から予算配分を変えてもらって実現するような、なさけない地方自治体のイメージしか出てこなくないことの背景になっているような気もします。

何度となく、今の地方自治体の「自治」の中身は本来の「自治」ではなく、ただの「行政」体ではないかといったことを私は書いていますが、議員や役人にお願いおまかせのシステムが「自治」など生み出せるわけがないのです。

こうした本来の「自治」という言葉の力を取り戻すために、この
地方(ちほう)を(じかた)と読む読み方がとてもふさわしいのではないかと感じました。

地の方、自分の今立っている大地にしっかりと自分の足を踏ん張って生きている姿がイメージできないでしょうか。
不満を言いながら期待に応えてくれない役人にお願いすることではなく、
金がなかろうが、組織力が足りなかろうが、
今自分の立っている場所で、自分たちの持っている力と知恵を寄せ集めて、困難を乗り越えていくことこそが「自治」の基本。

そうした意味で、中央に対する地方ではなく、
自分たちの立っている場所が、自分(わたしたち)のすべての起点、
という意味で「地方(じかた)」という読み方はすばらしいのではないでしょうか。

自治体に使う場合でも「地方自治体」というと固定的な機関のイメージになってしまうので、あくまでの自立した個人の連合という性格を強めるために、地方組合(じかたくみあい)といった呼び方がふさわしい。

現にわたしの地元では、防災体制つくりなどの本来、自治体が中心になって行うような取組みですら、行政とかかわりのない個人と日赤が協力して、行政とはまったくかかわりのない組織として話が進んでいるような例もあります。
といっても、実体は、わが自治体以外がみんな行政が参加していて、わたしたちのところだけ、個人が窓口になっている悲しい現実なのですが・・・
利根川流域で防災体制の連携を深めようという流れです。

世間は世間で、できることを是非がんばっていただくとして、
わたしたちは、世の中がどうころぼうが、勝手に『地方組合(じかたくみあい)』を育てて生きていく。


なんてのは、どお?
コメント
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