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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

風景から人と生き物の姿が消えた社会 〜いのちのにぎわいを取り戻すために〜

2017年04月29日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

数年前になりますが、叔父が毎朝、叔母とふたりで犬の散歩をしていた頃、
しみじみと朝の風景が急速に変わってきたことをつぶやいていました。

近所付き合いが、昔と比べると疎遠にはなったけれども、それでも朝の犬の散歩の時だけは、
畑に出ている人や同じ犬の散歩の人たちと頻繁に出会い挨拶を交わすことができていました。

ところが、最近はその散歩で出会う人さえもめっきり少なくなってしまったと嘆いていました。

 

 

東京で暮らす人には想像つかないかもしれませんが、

今、地方レベルでは都会、田舎を問わず、

まちを歩いている人がいない、

外で人に出会わない、

遊んでいる子どもの姿を見ない

などと言われる、人と人との距離がとても遠い地域社会になってしまいました。

 

 

 いつもこのようなことが話題になると、

「市民の生活様式の変化」

「郊外の大型店の進出」

などが理由として語られますが、

これらは「結果」であって決して真の「原因」ではありません。(村上敦)

 

 

 日本に限らず先進国共通の人口減少社会に移行しだした現代、私たちは自分の産業や地域の繁栄を再び取り戻すといっただけの発想では、太刀打ちできない現実に直面しています。


 日本には都市計画など、現実の利害当事者を前にするとおよそ成立しえないかの環境にありますが、起きた現実への対処法ではない議論を今こそしっかりと起こさなければなりません。

 

村上敦『ドイツのコンパクトシティはなぜ成功するのか』学芸出版

 

 かつての社会では、人々が肩を寄せ合って生きていたからこそ、また、貧しかったからこそ、お互いが助け合うことで生きていました。

 

 それに対する「近代」社会の成立とは、村社会や路地裏コミュニティの外側の見ず知らずの人間であっても、いつでもどこでも公平な取引や人間関係が結べる社会になったことなのだともいいます。

 そこには、「公平」「平等」などの言葉と一対で、個人の「主権」が認められた社会です。

  ところが、それまでの社会の前提としてあった地域の「共同体」が崩壊し始めると、個人の主権だけが暴走しはじめ、モンスターペアレントに代表されるような自分の「権利」ばかりを主張する人びとが溢れてきてしまいました。

 さらに、共同体が崩壊すればするほど、排他的なナショナリズムこそわれわれの共同体精神であるかの傾向も世界的な流れとして強まってきています。

 

 人口減少社会になったにもかかわらず、このままでは今後も人と人との間は隙間だらけのままなのです。 

 関連ページ「異常な人口爆発の時代が終わり、適正サイズに向かっていく日本」
 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/0312ca2d3c3186168253684cd8c6a1da 

 

 

 

 つまり、この世の栄華というのは、お金で贖う栄華じゃなくて、天の与えたもうた恵みであって、そういう世界をついこの間まで全生活にわたって持っていたんだという、言葉にすればですね。

                                石牟礼道子『花をたてまつる』葦書房


 石牟礼道子は「にぎわい」とはそもそも、山や森や川や海に生き物たちが、鳥や魚や動物や昆虫たち、草花が賑わっている時、人間たちも賑わっているのだという考えです。

 いのち同士の賑わいと、都市の賑わいは違うのだ、と。

 

 私の暮らしている土地も、都会に比べれば、とても豊かな自然に恵まれた土地に見えるでしょうが、ここでもつぶさにみれば、一昔前には当たり前のいようにいたメダカやゲンゴロウ、サワガニやテントウムシ、さらにはモンシロチョウやアゲハチョウまで、すっかり見なくなってしまいました。

 関連ページ「脱落したページは気付かれない」
 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/49446e0d80060843c35886ab4056d138

 

 この「いのちの賑わい」の欠落したままで行われる都市計画や人口減少対策とは、いったいどのようなものなのでしょうか。

 もちろん切迫した現状を解決するための施策はいくつも打つ必要がありますが、最終的に私たちが目指している世界像そのものを見誤ってはなりません。

 

 いづれこのテーマの各論を書いてみたいと思いますが、まずその柱となるのが、

 「家」です。

 この「家」とは、まず第一に建築学的な意味での「家」のことです。

 これは、村上敦『ドイツのコンパクトシティはなぜ成功するのか』(学芸出版)で語られているようなことが中心になります。

 第二には、「家」=「家族」の側面から問題が二つに分かれるのですが、その一つは「生産」の基礎単位としての「家」=「家族」の問題

 もうひとつが、生命の基礎単位としての「家」=「家族」の問題です。

 そして第三が、家で営まれる「食」のあり方です。栄養面と食べ方双方で「にぎわい」のある「食」ということです。

 第四が、これら全ての前提となる「自然界」のにぎわいのことです。

 これらどれもが「生命の再生産」という前提を考えれば「三世代」を基礎に置かないと語れない世界なのですが、なんとかまとめられるようにチャレンジしたいと考えています。

  確かに、文学でもなければ表現しがたいようなこのテーマに、自分には到底太刀打ちできないかもしれませんが、これを避けて私の仕事は前に進むことはできません。

 

 まだまだ、手に負えない課題を前に途方にくれる私のつぶやきごとに過ぎませんが。

 

 

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