英宰相ウィンストン・チャーチルからのメッセージ   

チャーチルの政治哲学や人生観を土台にし、幅広い分野の話を取り上げる。そして自説を述べる。

太平洋戦争からどんな教訓を得ることができるのか    71回目の終戦(敗戦)記念日に思う(1)

2016年08月13日 23時12分26秒 | 時事問題と歴史
 再び終戦がめぐってくる。もっと明確にいえば、「敗戦記念日」だ。中国や米国は日本の指導者が米戦艦「ミズリー」艦上で降伏文書に調印した1945年9月2日を「対日戦勝記念日」としている。どちらが敗戦記念日なのかは大きな問題ではない。
 この71年間、はたして日本人は太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦を教訓にして、未来へと歩んでいるのだろうか。1970年代に左翼過激派がよく使った「総括」をしたのだろうか。筆者はそう思うことができない。それどころか、40歳代以下の一般的な日本人は太平洋戦争を知らないという。日米が戦ったことすら知らない。
 太平洋戦争中、撃墜王として名をはせた旧日本海軍のパイロット、故坂井三郎氏が晩年、電車で学生二人が「日本と米国が戦争したって本当か」「マジかよ」という会話を聞き、非常なショックを受けた。気持ちが悪くなり、電車が停車した駅で降りた。
 この“事件”から35年以上は経っている。ますます多くの日本人は太平洋戦争を、織田信長が明智光秀に殺された本能寺の変と同じ程度にしか思っていないのだろう。歴史の1ページにしかすぎないのだ。歴史の1ページだと考える日本人はまだましな方かもしれない。
 私が次に問題にするグループは、太平洋戦争をつまみ食いしている連中だ。太平洋戦争を「侵略戦争だ」「アジアを解放した戦争だ」と主張して、否定したり肯定したりしている。
 またミクロに大東亜戦争を捉え、①開戦初頭の真珠湾攻撃の際、南雲忠一・機動部隊司令官が第2次、第3次攻撃隊を送っていれば、その後の戦争は変わっていた②真珠湾に米国の航空母艦が一隻もいなかったのは不運であり、もし数隻でも撃沈していれば、戦争はどうなったかわからない③日本海軍が航空母艦4隻を失ったミッドウェーの海戦において、索敵が十分に行われ、情報が正確だったら、日本海軍は米海軍を撃破した④西太平洋全域まで戦線を広げていなければ、持久戦に持ち込み講和は可能だったーと希望的観測をする有識者がいる。平均的な日本人は希望的観測をし、将来が自分の思う方向へ進むことを祈るのだが、いつの間にか、それを現実だと思い込む。
 希望的観測は現在の日本人の心をくすぐるし、「太平洋戦争はアジア解放の戦争だった」と言えば、大東亜戦争の大義名分が立つ。また「太平洋戦争は満州事変から続く侵略戦争」だと言えば、筆者は「そうですね」というだけである。しかし希望的観測の99%は、あくまでも希望的観測にとどまり、現実にはならない。なぜ、希望は自分や、団体、国家の実力を過小にみるか、無視する。希望は希望でしかない。
 上に挙げた太平洋戦争の言い分はどれも「他者で見る観察眼」がない。何の反省もしていない。何らの教訓も太平洋戦争から得ていない。今日から3回にわたって、「太平洋戦争の敗戦から得た教訓」について持論を述べたい。
  まず最初に、第2次世界大戦中に英国を率いたウィンストン・チャーチル首相に登場願おう。彼の言葉の中に、太平洋戦争から得ることができる教訓がある。この教訓はこれからの日本人に役に立つと思う。
  チャーチルは著書「第二次世界大戦回顧録」の中で日本の指導者についてこう述べている。
 「戦争においても政策においても、常に自分を(帝政ドイツの宰相)ビスマルクが『他の人』と呼んだものの立場において見るようにせねばならない。一省の長官がこのことを十分にやればやるほど、正しい進路を発見する機会が多い。相手がどう考えているかについての知識を持てば持つほど、相手が何をするかを知った場合に戸惑うことが少なくなる。だが、深い十分な知識を伴わない希望的観測や想像はワナのようなものだ。日本人の心の奥底にある本当の気持ちを理解できる専門家がわれわれの側に皆無に近かった。日本人の心情はわれわれには本当に不可解で計り知れなかった」
 またチャーチルは太平洋戦争が終結する1年半前の1944年3月26日、英国民向けBBC放送を通じてこうも話している。
 「日本を支配する特権集団は、自分本位の、みじめな待ち伏せ(太平洋戦争開戦時の真珠湾攻撃)を実行する目的だけで、潜在的に強大な戦争遂行能力を持つ偉大な共和国(米国)を敵に回してしまった。これほど本当に愚かなことはなかった」
 チャーチルは日本人を「不可解な民族」だと述べ、日本人を理解できなかったことが日本との「不幸な戦争」に突入した原因の一つだと反省しているが、日本人は彼以上に反省しなければならない。
 太平洋戦争開戦前夜、日米の国力比は1対20(戦後の有識者は1対13と計算している)だと日本の指導者は理解していた。それを知っていたのに日米開戦を決意したのである。その理由を挙げると日本人の国民性に行き着く。
 まず最初に挙げるとすれば、太平洋戦争前夜、欧州で破竹の進撃を続けていたヒトラー・ドイツが勝つと信じ込んだことだ。そしてドイツの勝利が対米戦(太平洋戦争)を有利に運ぶことになり、米英との講和に導くとの希望的観測を抱いた。そのため、それに適合した情報は重視し、それに適合しない情報は軽視したのである。
 ●正確な情報を無視
 太平洋戦争前夜、東京の軍中央は正確な情報を色眼鏡で見ていた。日本陸海軍の情報将校は米国、英国、スェーデンから正確な情報を送っていた。正確な情報を得ていても、ナチス・ドイツに「感動」し、最初の観念から抜け出せない軍中央の軍人には届かなかった。
 ストックホルム駐在武官の小野寺信・陸軍大佐(1897~1987、最終階級は少将)は1941年1月、先任の西村敏雄・大佐(1898~1956、最終階級は少将)から事務を引き継いだ際、「ドイツ空軍は(英国本土上空の戦いで)英空軍に手痛い損害を受けている。ドイツの英本土上陸は不可能と判断する」という報告を受けた。
小野寺は日本を発つ前、大本営参謀本部から「西村さんの報告は英米側に傾いていて困るから、君には着任したら公正な判断を報告してもらいたい」と言われたという。
 小野寺大佐の夫人、百合子さん(1906~1998)は「大東亜戦争(太平洋戦争)を通じて中央とストックホルムとの間の意志の疎通を欠いた決定的悲劇の表現であった」と記している。「意志の疎通を欠いた」というより、「観察し、時の変化に柔軟に対応する軍人」と「固定観念と思い込みの軍人」が鉄路のように決して交わることがない悲劇だった。
 小野寺はポーランド人らからもたらされる信頼すべき独自情報を分析し、刻々と変わる歴史の流れを洞察した。独ソ戦開始前、ドイツはソ連に侵攻する意図を持っていると打電。ドイツは1941年6月22日、ソ連に侵攻した。
 この年ウクライナやベラルーシなどのソ連領のヨーロッパ地域では例年より雨期が早く到来した。8月末にはドイツ軍に雨が降り注ぎ、ドイツの電撃戦に欠かせない戦車がぬかるみに足をとられていた。ドイツ軍は、包囲されても最後まで戦うソ連軍に手を焼き、9月を境にしてドイツ侵攻軍の勢いが衰えていった。
 “冬将軍”のやって来るのも早かった。10月には早くも到来し、“愛する”ロシア軍に手を差し伸べ始めた。ロシアの大地に雪が降り始めた。“冬将軍”は歴史を通していつもロシア軍に味方する。
 ヒトラーは「6週間」でソ連を降伏させると豪語したことから、ドイツ兵は冬の身支度をしていなかった。これに対してソ連軍は、夏に戦った将兵を冬の装備をした将兵と交代させ、ドイツ軍と戦っていた。ドイツの苦戦はストックホルムの新聞に載ったという。
 小野寺はストックホルムの代理公使と協力して日本の陸軍参謀本部や陸軍省、外務省に「ドイツ不利」を打電し続けた。しかし参謀本部や外務省はベルリンからの情報を信じ続け、ストックホルムの情報を無視した。外交や軍事面で相手を疑わない「人の好い」日本人がそこにいた。
 「ドイツ軍の戦力が明らかに低下の兆候を示したのは1941年10月である」。小野寺大佐は「日本がドイツの片棒を担ぐと見てとり」対米戦反対とその理由を必死になって30回以上も打電した。返事は唯の一回きりで「反対の理由は如何」だった。
 小野寺と同様に英国武官の辰巳栄一少将(1895年 ― 1988年、最終階級は中将)も1940年10月下旬から11月初めにかけて、英国から見た独ソ戦の情勢判断をロンドンから参謀本部に打電した。「作戦の当初、快進撃を続けた独軍も、現在は諸種の悪条件によって戦勢振るわず。冬将軍の到来と共に益々不利となり、年内のモスクワ攻略は困難と判断す」
 辰巳武官は陸軍中央の逆鱗にふれた。「貴官が年内にモスクワ攻略を困難とする根拠を再打電せよ」との電報が来たという。親友の参謀本部第2部長、岡本清福少将からも返電があり、「ヒトラーが英本土攻略を断念しているなどとは思われぬ。君は連日の(ドイツ空軍のロンドン)猛爆にあって気が弱くなっているんじゃないか」。ドイツ空軍はその頃連日、英国の諸都市を猛爆していた。
 「私の情勢判断は何も私個人の主観ばかりではない。ロンドンの多くの優秀な各国武官がいて、お互いに意見の交換をしている。これらを総合して現地から見た判断を忠実に報告しているんです」
 辰巳の電報を「主観的だ」と問題視した陸軍参謀本部は「ドイツ軍の攻勢は一時頓挫するが、来春には大攻勢をとり、ソ連を屈服させる公算大なり」と返電してきた。演繹的なものの見方をして、思い込んだテコでも動かない日本人がそこにいた。
 辰巳少将の参謀本部への報告に先立つ4カ月前、独ソ開戦が始まると、「米武官のレイモンド・リー少将は『おい辰巳君これで欧州戦の山が見えてきた。ドイツは負けだ』と言ったのを今(1983年)もはっきり印象に残っています」と辰巳は述懐した。
 辰巳によれば、日本軍の南部仏印進駐後、英国の対日態度は「決定的に悪く」なり、「英米首脳の大西洋会談(1941年8月)出席後、帰英したリー少将は『日本は本気でやる気か』と尋ねてきた」という。リー少将は、無謀な日本の行動が信じ難かったと思われる。
 辰巳とは別に、日米の戦力比を詳しく試算した人物がいた。その人物は1941年3月に杉山元・参謀総長から対米諜報命令を受け、横浜港から日本郵船の客船「龍田丸」に乗船して米国に向かった。その人物は新庄健吉・陸軍主計大佐だ。
 陸軍の経理部門に所属していた新庄の任務は米国の国力・戦力を調査し、日米開戦の場合に日本の勝算を検討することだった。
ニューヨークに到着後、三井物産嘱託社員になりすましてニューヨーク支店に机を置き、三井物産、三菱商事、日本銀行、三井銀行、日本の新聞社、同盟通信社の各支社などの情報網を使って活動を行なった。当時日本の出先機関はアメリカに関する豊富な情報と情報網を持っていた。
 新庄はスパイ活動をしなくても、米政府が公表する軍事、産業、工業生産などの各種指標が載っている政府刊行物やニューヨーク・タイムズ紙などの新聞・雑誌から米国の総合国力を算出できた。当時日本にほとんどなかったIBM社製の統計機も使用した。 
 主計大佐は自分の命と引きかえに3ヵ月で結論を出した。過労から急性肺炎を併発し、日米開戦の4日前の1941年12月4日に44歳で永眠した。
 亡くなる一カ月前の11月5日、ニューヨークでの任務を終え、武官府詰めとしてワシントンに旅立つ前、物産のニューヨーク支店社員全員を日本クラブに招待し、「日米の国力差は1対20で、開戦すれば日本は必ず負ける」といきなり話し始めた。「思わず、出席者全員が凍りついてしまった」という。(67)
パーティーを終え、親しい仲間との二次会での席上、新庄は何度も「数字は嘘をつかないが、嘘が数字をつくる」言った。

 「新庄リポート」の日米国力比較

 主要項目       米国         日米の比率
 鉄鋼生産量     9500万トン      1対24
 石油精製量    1億1000万バレル    1対無限
 石炭産出量      5億トン        1対12
 電力        1800万キロ・ワット  1対4.5
 アルミ生産量    85万トン        1対8
 航空機生産機数  12万機          1対8
 自動車生産台数  620万台         1対50
 船舶保有量    1000万トン       1対1.5
 工場労働者数   3400万人        1対5
                        

 新庄は7月下旬、報告書を書き上げた。新庄は訪米時、「龍田丸」に乗り合わせた情報戦の第一人者、岩畔豪雄(いわぐろ・ひでお)・陸軍大佐(1897-1970、最終階級は少将)に報告するため、直ちに列車に飛び乗りワシントンに直行。帰国が間近に迫っていた岩畔に報告書を提出した。一晩かけていっきに読んだ岩畔は新庄の労をねぎらい、帰国後必ず政府や大本営に見せ、日米戦の愚かさを説くと力説したという。
 米国から帰国後、岩畔は当時首相の近衛を皮切りに、陸軍省、参謀本部、海軍軍令部などの国家運営の中枢部に足を運んで軍の指導者、作戦立案者に新庄リポートを報告した。
 対米戦の準備をしていた陸海軍の作戦立案者は感謝するどころか士気に影響が出ると言って、日米開戦に不利な情報を拒んだ。1941年8月20日付「大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌」に「(岩畔リポートに対して)海軍若手大イニ憤慨セルガ如ク 小野田中佐ヨリ甚ダ困ル旨電話アリ。右同班も全然(断然)同意ナリ」と書き込まれている。
 岩畔が、「思い込んでいる」仲間にいくら説いても無駄だった。思想や新興宗教におぼれている人々を諭すのが難しいのと同じだった。東条陸相に8月24日に呼ばれ、仏印進駐軍の近衛連隊長に命じられた。その後、二度と軍の中央に戻れなかった。
 親独反米の陸海軍指導者は客観的な事実かどうかも確かめもせず、軍事が科学であることをも無視し、自らの固定観念に沿って忠実に前に向かって進んでいた。この日本人特有の固定観念にはまったものの見方は「感動」により強化されていった。1970年代の学生が中国の毛沢東と朝鮮民主主義人民共和国の金日成に感動したように、かなりの数の陸海軍軍人はナチスとヒトラーに感動していた。
 新庄リポートは日米の国力比を1対20と試算した。この試算から「戦争の全期間を通じて、米国の損害を100パーセントとし、日本の側の損害は常に5パーセント以内に留めなければ」戦争にならない。日米戦が起こった場合、現実に起こりえない数字だった。高校生でも理解できる現実だった。
 「信じ込んだらテコでも動かない」態度は、当時の軍人だけでなく、一般の日本人が抱えている資質だ。20年ぶりに会った人を、20年前の人間だと考える傾向が日本人にはある。毎日会っていても、最初に会った時の印象や行動を何年経っても引きずっている日本人も多い。それは日本人が「時」を計算に入れていない証拠でもある。
 別の言い方をすれば、正直な日本人の国民性かもしれない。「最初から人を疑ってはいけません」。母親は子どもに教える。最初から懐疑の目でものごとをみる人々を一般的な日本人は嫌う傾向がある。懐疑の目で相手を分析しない日本人の特質なのだろう。

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