本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

「永遠の相」

2024-05-20 18:22:52 | 十地経

第六地は

「甚深の法門に入る」

というところです。

縁起甚深と。

一切の存在は縁に依って

あると、

それ独自としては

成り立たないということ

です。

何となく分かっている

ようでも、それを事実と

して受け止めるのは

出来ないのです。

 

「空」ということも

縁起ということです。

それ自体としてはない

のですから

実体はないのです。

ですから何にでもなれる

といことが空ということ

になります。

 

講義では

「煩悩で苦しんどる

というのが縁になるんだ。

煩悩で迷っているという

ことも縁になるんだ。

これは非常に不思議なこと

なんですよ。

 

迷っとると、

迷っとるということも

迷いじゃ成立せんのや。

悟るばっかりじゃないんだ

迷いということが

やはり何か、一つの、

存在の法則によって

成り立っている。

そこが甚深なんだ。」

 

よく、「迷っています」

ということを聞きますが

本当に迷っているという

ことが分かれば

それは悟りです。

迷っているということが

分かるといことは

迷っているということを

見る客観的な眼がある

ということです。

 

私たちは

迷っているのやら

わけもわからなく

生きている、

ということが本当の姿

ではないでしょうか。

 

迷っているということが

分かるということは

迷っていない確かな自分が

あるということです。

迷っている自分を見ている

ですから、

迷いが分かるということは

実は大変なことでしょう。

 

講義はさらに続けて

 

「迷いも縁起なんだ。

悟りも縁起だけど、

迷いそのものが、

迷ったものがなくなって

純粋になるんでない。

迷ったものを純粋に

成り立たせている。

 

その時に迷いを捨てて、

悟りを得ようというような

分別から解脱する。

そうすれば迷いの世界も

耐えられるんじゃないか。

耐えられれば、

迷いじゃないじゃないか。

 

そういうような境地が、

仏教から照らすと、

スピノザの哲学が生きて

くるんじゃないか。

あの、

『永遠の相のもと』という

スピノザですね。

世界を永遠の相で見ると。

 

永遠の相というのが縁起

です。

縁起の眼で世界、を見る。

永遠の相で、見ると。

 

何かそのー、

情熱的な信仰じゃないんだ

ユダヤ人なんですけど、

ユダヤの信仰よりももっと

哲学者の信仰というような

ものがですね、

スピノザに出てるんです。

 

それでないと

ただ自然科学というような

ものになって、

そうではなく、

それでないと

ゲーテなんか感動する…

ゲーテなんかが感動する

ゲーテを感動させるような

力があったんです、

スピノザに。」

 

永遠の相ということは

ちょっと分かりませんが

こういうことが分かると

ゲーテのいう言葉と

縁起ということが一致する

のでしょう。

 

こういう、六地の

甚深の法門ということを

ゲーテの言葉を交えながら

展開していくのは

とても興味深いことです。

 

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 散れば咲き 咲けばまた散る | トップ | 方便智発起殊勝の行(ほうべ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

十地経」カテゴリの最新記事