2月1日、2日と1泊で北茨城市に行ってきました。
毎年5月ルネこだいらで開催する「こだいら雨情うたまつり」の実行委員をやっているので、
一度は野口雨情の生誕地に行きたいと思っていました。
おまけにこの辺りの名物、あんこう鍋の時期でもあるし・・・で、夫と車で出かけました。
民謡・童謡詩人、雨情の生家と雨情記念館
今にも雪が降りそうな空が北茨城に近づくにつれ晴れてきました。
雨情の生家であり、資料館として開放されている場所は海が近い国道沿いにありました。
明治10年頃に雨情の父、量平が建てたこの家は磯原海岸を望み「観海亭」と呼ばれ、県指定文化財になっています。
廻船問屋を営み、水戸藩第2代藩主徳川光圀が逗留するほどの名家だったそうです。
生家隣の資料館に入ると、年配の男性が出て来られ、入館料100円を払うといきなり7年前の大震災の時の話が始まりました。
ここ北茨城は福島県との境にあり、津波被害も同様であったこと。
当日の模様や津波から逃げまどったことなどを被災の写真集を片手に、生々しく語ってくださいました。
ここが著しい被害を受けたことは知っていましたが、直接聞くといかに衝撃的だったかが伝わります。
上の写真が生家で、資料館より少し下っているので屋内は1.5mの津波に襲われ、資料館は床下浸水したそうです。
雨情の直系の孫であり、ここの館長を務める野口不二子さんがとっさに資料を2階に上げ、自身はリュックに雨情の原稿などを詰めて逃げた
という話は何かで読みましたが、140年もの歴史がある文化遺産を守るために不二子さんは必死で修復に奮闘したそうです。
震災の年の5月には修復中ながら再開したとは、その熱意が半端じゃありません。
館内の家系図を説明して下さっていた時、雨情の長男、雅夫の子に不二子とあり、その連れ合いに「忠正」とありました。
「不二子さんは養子さんをとられたのですね」と訊ねると「それが私なんです」と照れ臭そうに説明の男性が。
「えぇっ、まぁ大変失礼しました」と私。
管理とガイドを任されている地元の方かと勘違いしていました。
ホントに鈍い自分にあきれますが、でも「野口家とどういうご関係ですか」と最初から聞きたくてウズウズしていたのですよ。
奥様の不二子さんは現在、市の生涯学習センター長をしているとのことで不在でしたが、ご長男は生家の斜め前で歯科医院を開業なさっています。
不二子さんが講演なさったり、表の仕事をなさっているようですので、ご主人は裏で支えてこられたのでしょうね。
そういった裏話を1時間近く聞かせていただきました。
資料館内は雨情の若き日の原稿や写真、童謡を発表した「金の船」、石川啄木からの年賀状など貴重な資料が並べられていました。
雨情の最初の妻、ひろさんの着物を見ていたら、ご主人がひろさんがお嫁入のときの鼈甲のかんざし一揃いを奥から持ってきて見せてくださいました。
それはそれは精巧な鼈甲細工で見たことがないような素晴らしいものでした。
思いがけない出会いに感謝!貴重なひとときでした。
資料館前の庭
シャボン玉舞う野口雨情記念館
雨情の生家から車で2,3分の所に野口雨情記念館(北茨城市歴史民俗資料館)があります。
前庭のシャボン玉をしている子どもの像の間を通ると、両サイドからシャボン玉が出てきてびっくり!
かなりの間、シャボン玉が舞い上がり、大人でもうれしくなります。
その奥にりっぱな雨情の像が設置されています。
この記念館は郷土の偉人、雨情を顕彰し後世に伝えるため全国から収集された資料が展示されています。
雨情は63年の生涯で2000点余りの詩を残しているそうです。
「七つの子」や「赤い靴」など童謡で知られる雨情ですが、全国津々浦々、朝鮮、台湾にいたるまで夥しい数の地方民謡、校歌も作っています。
大正時代後半から戦前の間、童謡・民謡の普及のため、精力的に旅行したようです。
2階は北茨城の歴史民俗関係の展示室でここにも津波被害の写真パネルが展示してありました。
フリースペース展示コーナーには人形作家のこんなに微笑ましい人形作品が並んでいましたのでパチリ(作品は撮影OKでした)。
岡倉天心を知る五浦の地
雨情記念館から車で15分走ると五浦の六角堂に着きます。
ここも以前から訪ねたい場所でした。
しかし午後3時半過ぎ、風も出てきて寒~い!
厚いダウンコートに毛糸の帽子で重装備して六角堂が建つ海辺へ下りました。
五浦のシンボル六角堂も津波で土台のみを残しすべてが流されました。
しかし、震災の翌年(平成24年)にこの天心遺跡を管理する茨城大学をはじめ、国や多くの人々の支援で明治38年創建当初の姿で再建されました。
太平洋を臨み、右手には断崖の地層が広がる絶景地で岡倉天心は思索にふけり、釣りを楽しんだそうです。
六角の形は杜甫の草堂にならい、朱塗りと屋根の念珠は仏堂の装い、そして内部にしつらえられた床の間には茶室のイメージを。
つまり六角堂には中国、インド、日本といったアジアの伝統思想が一つの建物で表現されているのだとか。
五浦に新天地を求めて移り住んだ天心の旧居。
この地に日本美術院を移転し、横山大観や菱田春草などの作家たちが家族とともに移り住みました。
明治40年にはここで中秋観月の園遊会が開かれ、芸術家だけではなく新聞記者も含め100人以上がこの辺鄙な場所に集まったそうです。
最晩年を小平に住んだ平櫛田中が寄贈した椿が植えられていて、小平つながりを発見。
平櫛田中は天心を敬愛してやまず、「岡倉天心像」や天心が釣りをしている「五浦釣人」像を制作しています。
素晴らしい「茨城県天心記念五浦美術館」
六角堂から車で4,5分の天心記念五浦美術館にも寄ってみました。
着いてビックリ。
こんなところに何と壮大な美術館が。
海を見下ろす広大な駐車場から上ると、これまた伸びやかな美しい広場の奥に美術館がありました。
そして誰も来館者がいない静かな館内。
岡倉天心記念室には天心の多方面にわたる業績の資料や、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山の作品が展示してあります。
珍しいのは東京美術学校(現在の東京藝術大学)の学生だったころの大観と春草の課題画作品。
蓮根とクワイ(多分?)を描いた画ですが、その細密さと配置に目を見張りました。
急速な西洋化の荒波が押し寄せた明治時代にあって、東洋の価値観を西欧に普及させた天心の功績。
ボストン美術館の要職も務めていたのですね。
亡くなる1年余り前に五浦でしたためた遺言状も展示してありました。
また、インドの女流詩人と最晩年に交わした英文の書簡はラブレターのようで、天心の人間味を感じさせました。
企画展の「アート、現在進行中」は100号を超える作品ばかり75点も。
文化庁が新進芸術家を海外で研修させる制度が始まって50周年を迎えたそうで、その研修を受けた画家たちの新作がズラリ。
皆さんが活躍中の画家で、入口にはかつて小平に住まわれていた絹谷浩二さんの昨年の作品「旭日富嶽来迎図」がありました。
やはり赤い富士山が素晴らしいです。
個性を放つ絵をもっとゆっくり観たかったのですが、閉館時間が迫り本当に残念。
素敵なカフェもあったのに・・・
後ろ髪ひかれるように美術館をあとにしてホテルに向かいました。
帰りの階段近くで丸ポストが見送ってくれました。
「丸ポストのまち小平」ですから、丸ポストを見つけるとつい反応してしまいます。
、
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます