『ほのぼのマイタウン』気まま通信

『ほのぼのマイタウン』のブログ版~見たこと、聞いたこと、伝えたいことを自由に気ままに綴ります。

ジャーナリスト川村晃司さんを悼む

2023-04-04 20:56:53 | 忘れえぬ人々

ジャーナリストの川村晃司さんが亡くなられたことをネットニュースで知ったのは1昨日のこと。

「えっ?」とわが目を疑いました。

 

東久留米在住の川村さんを「ほのぼのマイタウン」でインタビューしたのは2004年のこと。

 

 

取材のきっかけは川村さんの娘さんの紹介からでした。

当時娘さんはNHK関連の企業にお勤めでした。

若くて感じのいい美人さんだったのを記憶しています。

彼女が担当する番組を小平のホールで公開録画することになり、宣伝媒体として「ほのぼのマイタウン」に依頼がきたのです。

超零細タウン誌のウラ表紙に全面広告を出してくださる・・・願ってもないことでした。

彼女と広告内容について打合わせ中(楽しいおしゃべりみたいでした)、「うちの父はテレビにでているんですが、出たがりなんでタウン誌で取材してください」と言われたのです。

「出たがり」とはお父さんへの親しみを込めた愛情表現だったのでしょうね。

私は「ワイドスクランブル」でコメンテーターを務めている川村晃司さんのことはテレビの中で知っていましたが、彼女がその川村さんのお嬢さんであること、東久留米在住であることは全く知りませんでした。

当時53歳、数本の番組を掛け持ちして多忙を極める川村さんにこうしてインタビューが実現したのです。

 

 

取材は東久留米市内の小さな喫茶店で行いました。

川村さんを待っていると、何と奥様と一緒にいらしたのです。

そして奥様が「娘もお世話になりましたのに、今度は主人がお世話になります。今日はよろしくお願いいたします」と挨拶されたのにビックリ、恐縮至極とはこのことでしょうか。

お世話になっているのはこちらの方なの・・・・ご丁重で品のいい奥様は挨拶のみで帰られました。

何と素晴らしいご家族なのだろうと、川村さんのお話を伺う前に感激したのを憶えています。

 

川村さんはテレビのコメンテーター出演の時よりも、ソフトに穏やかに語ってくださいました。

テレビ朝日の特派員として、天安門事件、湾岸戦争そして2001年のアメリカ9・11同時多発テロと歴史的事件の最前線で報道し、生命の危険にさらされたこともあったという。

生番組でのコメントは真剣勝負であると。

数秒内で視聴者に的確に伝えられるよう努力を欠かさない川村さんの真摯で、誠実なお人柄。

ジャーナリストとしての情熱と誇りをお持ちでした。

 

年賀状でもほのぼのマイタウンへのエールを書いてくださる優しい方でした。

もっとお話を伺いたかった。

講演会を企画して、川村さんのお話を多くの人に聞いてほしかった。

今となっては詮無いことを思います。

まだ72歳というお歳で逝かれて、奥様とお嬢さんはどんなに悲しまれていることか。

 

私にとっては19年後の今も忘れられないインタビューです。

心よりお悔やみ申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坂本直行という農民画家

2023-01-25 23:52:07 | 忘れえぬ人々

 

先週末、友人のJさんから電話がかかってきました。

「今度の『日曜美術館』で坂本さんのお父さん直行さんの方だけど、取り上げられるから知らせたいと思って」

NHKのEテレ『日曜美術館』は毎週楽しみに見ている番組ですが、前週最後まで見なかったのか、農民画家、坂本直行が放映されることは知らなかったので、うれしくて彼女に感謝しました。

坂本さんとは彼女のマンション隣に住む「坂本登」さんのこと。

 

坂本さんはかの坂本龍馬を生んだ坂本家の九代目にあたる方で、Jさんの紹介で2010年にインタビューさせて戴きました。

丁度NHKの大河ドラマ「龍馬伝」で龍馬ブームが起きていた頃でした。

 

坂本さんは龍馬に対する思い、父親の事、自身が育った北海道の原野での生活などを語ってくださいました。

坂本家8代目である父、直行さん(1906~1982)は北海道大学在学中、登山部に所属して道内の山々を片っ端から走破した方です。

日曜美術館のタイトルは「山と原野とスケッチと」でしたが、昭和10年、日高山脈に抱かれた広尾に入植して、想像を絶するほどの厳しい開拓の日々の中でも「命がけで自然を愛した」とテレビでは表現していました。

農作業の合間を縫ってはスケッチブックに山々や山野草を描き、いつでも描けるよう木の洞にスケッチブックを置いていたそうです。

毎日15時間労働のあとでも、ストーブの焚火の明かりで描き、本を読む父親の姿を登さんは憶えているとおっしゃっていました。

長男の登さんは極寒の2月、布団の上に雪が積もる馬屋の中で生まれたとか。

 

このような入植後5年間の体験を直行さんは『開墾の記』として、昭和17年に出版しています。

 

       

 

私は取材の時、この本を読み「人間とはこんなにも強いものか」と強靭な精神力と体力に加えて、山野草への優しい眼差しに感動したものです。

龍馬のことは生涯語らず、子どもたちにさえ一切喋らなかった。

ひたすら農民として、画家として骨太に生きた方。

登さんに言わせると”日高のいごっそう”を貫いた一生でした。

それは志を貫いた龍馬の生き方に通じるものがあるのでは?

 

 

    

 

これは誰もが知るような帯広六花亭の包装紙です。

これらのえぞりんどうやえんれいそうなどが直行さんの絵です。

真ん中のはまなしが直行さんのお気に入りでした。

私は2007年帯広に行った折、六花亭が運営するオープンしたての「六花の森」の「坂本直行記念館」を訪ねたことがあります。

閉館ギリギリの時間でしたが、係の方が親切にも入れてくださいました。

日高連峰を描いた絵の数々が胸に染み入るような、温かみにあふれていました。

直行さんの開拓の足跡が今なお人々に安らぎを与えているのですね。

 

 

直行さんの六花を現実に咲かせたいという思いから開かれたという六花の森。

10万㎡に及ぶ敷地にはいくつもの美術館や記念館、カフェが点在し、季節を通して野趣あふれる花々が群生しているそうです。

訪れた時は時間がなくて、他が見られなかったのでぜひもう一度行きたい場所です。

 

直行さんの写真は取材記事のこちらからどうぞ。

*BSプレミアムで1月27日に「山と原野とスケッチと 画家・坂本直行秘境日高山脈を描いた農民画家」が放映されます。

 

    

    

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エスキモーになった日本人、大島育雄さんのこと

2022-07-13 17:55:48 | 忘れえぬ人々


仕事部屋の片付けをしていたら、2009年2-3月号のほのぼのマイタウンに目が留まりました。


      


この時のインタビュー記事は「地球最北の村で猟師として暮らす」大島育雄さん。
「エスキモーになった日本人」として知られた方でした。
NHKのスペシャル番組でもドキュメンタリーとして度々取り上げられていました。


      

どうして取材できたかというと・・・グリーンランド北部の地球最北の村、シオラパルクに住む大島さんが朝日新聞社の企画のため2008年11月末に帰国したのですが、大島さんは東久留米の出身で何と私の友人と高校の同級生だったのです。

その友人から「大島君が帰ってくるので、取材して」と連絡があり、紹介してもらったのでした。

朝日新聞社主催で大島さんの猟具やシロクマの毛皮で作った防寒服などの展示、そしてトークショーもあったと記憶しています。
その数日後に現在の実家がある清瀬のお宅に伺いました。

「帰国するのに履いていく靴がなくってね。娘婿の靴を借りてきたんですよ」と笑う大島さんにすぐ親しみを感じました。
村で必要なのはアザラシやシロクマの毛皮で作った防寒靴なのですね。

若い頃から極北の地へ関心を持ち、自由に生きられるイヌイット(エスキモー)の暮らしに強く惹かれていた大島さんはシオラパルクの女性と結婚して、1男4女をもうけました。
大自然を相手に犬ぞりを駆り、氷上でセイウチと格闘して暮らす日々が(厳しいものであっても)、とても楽しく自分に合っていると語っていました。


            

この本は1989年、大島さんが42歳の時に出版されたものです。
探検家植村直己さんとともにシオラパルクの小屋でイヌイットの流儀を学び、犬ぞりの技術を習得した若い頃の体験から始まり、ユーモアあふれるタッチでエスキモーの社会に溶け込む様子が描かれています。


インタビューして、もう13年の月日が流れました。
74歳になられる大島さんはお元気でいらっしゃるだろうか?

ネットで検索してみると、「エスキモーになった日本人 最後の猟に同行」という2015年のAERAの抜粋記事が見つかりました。
これによると、大島さんから「この春が最後の猟になるだろう」と連絡があったので、朝日新聞記者がこの年の4月、北極へ飛んで猟に同行したのだそうです。

私が取材したとき、「あと5~10年は猟を続けたい」とおっしゃっていましたが、この2015年が最後になったのでしょうか?
あの時強調なさっていたのが、「自分たちは究極のエコ生活をしているが、CO2を出す欧米強国が最北端の少数民族の生活を圧迫している」ということ。
大島さんたちは次の代まで動物を確保しておくために必要最低限しか動物を捕らない。
乱獲などして獲物の数が減ると真っ先に困るのは自分たちだから、捕獲の期間や頭数を自主規制している。

しかし、動物保護を求める国際社会の声は年毎に厳しい制限を課していったようです。


今は大好きな犬ぞりでの猟はやめられ、村の長老としてエスキモーの伝統を守り、伝える立場にいらっしゃるのでしょうね。
ネット情報ですが2019年、長女のトクさんが来日し、日本科学技術館でエスキモーの伝統工芸品の製作などを披露したそうです。
おとうさんの技術がしっかりと娘さんに伝わっているのですね。
今はお孫さんも13人いると、どこかに書いてありました。

もう一度本を読み返してみたくなりました。
あの頃はSDGsという言葉もありませんでしたから。


























コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五月は母を想う月

2021-05-22 15:48:21 | 忘れえぬ人々

私の母が亡くなって半世紀になります。
母は5月8日に生まれ、5月14日に47歳で亡くなりました。
結婚したのも5月だと聞きました。

5月は私にとって特別な月です。
50年経っても母の歳を数えています。
自身が孫もいて、おばあちゃんになったのにおかしいですね。
でも母は私が結婚した時も、子どもが生まれた時もいませんでした。
先日、保存している写真のデータの中に母の子ども時代からのものがあり、
5月の薫風の中に母を偲んでいます。


   

これは母が子どもの頃家族で撮った写真です。
母は佐世保で5人兄弟の長女として生まれました(前列左です)。
下の弟が生まれていない頃のこと。
父親に抱かれている叔母だけが今91歳で健在です。

   

踊りが好きで、20歳の頃まで習っていたようです。
そして子育てが一段落して、40代に入ってから日本舞踊の稽古を再開しました。
母の唯一の趣味でした。
私も小学生の頃、バレエを習っていたのは母がやらせたかったからでしょう。

  

娘時代の母、私の好きな写真です。
何の苦労もないような華やかな表情をしています。

   

結婚して、母になって28歳頃のお正月の写真でしょうか。
一番上の母の写真よりも少し幼い私が隣に立っています。
その横が弟、そして父、後ろに立っているのは母の末弟、遊びにきていたのでしょう。
写真館で母だけがカメラ目線でないのはなぜ?
年末年始の家事で疲れていたのかしら?
お正月が晴れの日であった、遠い日の昭和の家族写真です。

母が亡くなった年齢をとうに越してしまった私ですが、母ができなかった娘の結婚式
を見ること、孫の顔を見ることができた自分の幸せを感謝しています。
母の娘時代は何不自由なかったと思うのですが、誰もがそうであったように戦後は苦労した
ことでしょう。
ただただ、夫と子どものために生きた昭和の女性でした。


あと10年長く生きてくれれば、親孝行も少しはできたかもしれませんが、
看病はしたものの、親としての母の気持ちを慮るには私は若すぎました。
5月20日はふるさとの親友の誕生日でした。
彼女は確か中学の頃に母を亡くしています。
カードに「私たちは母親の分まで長生きするよう、神様が命を与えてくれたのかもしれない」
と記し、お互い元気で長生きしなきゃと言っています。

5月は私にとって今も母を想う月です。




















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

震災から10年、「とびだす100通りのありがとう」動画配信

2021-03-11 12:35:33 | 忘れえぬ人々

今日で東日本大震災から10年ですね。

津波で親を失った子どもたちの10年の成長を映像で見るにつけ、彼らの生きる逞しさ、
周りの人々の温かい支援に心動かされています。

小平在住の演出家・作曲家の寺本建雄さんとプロデューサーの祖父江真奈さんご夫婦が9年前に作った、100人以上の被災者が出演したミュージカル「とびだす100通りのありがとう」が今日、震災の起こった時間14時45分からYouTubedeで公開されます(3月31日まで)

祖父江さんが東京新聞に掲載されたとラインで知らせてきました。



動画サイトはこちらから
https://www.youtube.com/channel/UCaBIlQlsjw7qexi7tMFPslw

思えば、このミュージカルの出発点に私は居合わせたのでした。

寺本さん宅に東松島市から避難してきたバンド仲間の友だちが「世界中からの支援にお礼を言いたい被災者が多いはずだから、何かやりたい」と言ったところ、確か寺本さんが入浴中に「そうだ、ミュージカルでありがとうを発信しよう」と思い立ち決めたのだそう。

このエピソードを寺本さんのアトリエで発足の集まりがあった時聞きました。

2011年春、当時まだ小平市に計画停電が実施されていた時のこと。
途中で電気が消え、ろうそくの灯りの中で話し合ったことが懐かしく思い出されます。

それからの寺本さんと祖父江さんの東松島通いが始まったのです。
出演する被災者を募り、現地で震災体験を取材し、脚本を書き、作詞作曲をしていきました。

こうして2歳から80代の素人の被災者が出演するミュージカル「とびだす100通りのありがとう」
が震災の1年後、3月18日に銀座ブロッサムで公演されたのです。
出演者は大型バスで銀座にやってきました。

あの時のステージから発するエネルギー、観客の熱気は今も忘れられません。
「私たちは負けない、世界中の人々にありがとう!」フィナーレは皆が涙、涙でした。

祖父江さんは「コロナ禍の今、元気のない人も励ますことができると思います。ぜひぜひ一人でも多くの方々にみてほしい」とメッセージしています。

10年の節目にこのミュージカルを見ていただければうれしいです!





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする