『ほのぼのマイタウン』気まま通信

『ほのぼのマイタウン』のブログ版~見たこと、聞いたこと、伝えたいことを自由に気ままに綴ります。

『誰も知らない哺乳瓶の世界』鈴木先生の写真集

2020-05-29 16:31:06 | おすすめ本
        
          
         5月19日に出版されたばかりの立派な写真集をいただきました。

        小平市の鈴木小児科内科医院院長の鈴木昌和先生が蒐集なさった哺乳瓶の写真とその歴史を記した本です。

        

        


        鈴木先生は骨董市で横置きのガラスの哺乳瓶に出合って以来、20数年にわたりあらゆる哺乳瓶を探し求めました。

        その数1000点余り。

        医院の2階は瓶のコレクション専用ルームになっていて、昔の哺乳瓶だけでなく、膨大な量の瓶類に驚かされたものです。

        2009年、取材に伺った折のことです。

        初めて見る横置きの哺乳瓶には桃太郎や亀甲文様などあらゆる図柄があしらわれ、中でもこの表紙の青海波文様が美しかったこと!

        芸術品のようでした。

        「画一的な今の瓶に比べて、昔は吹いて作ったのでゆがみがあったり、気泡ができていたり、それが味わい深くて好きですね」
        とおっしゃっていました。

        当時からいずれ本にまとめたいと希望されていて、今年の年賀状には「ようやくできそうです」と書かれていました。


        手元に届いた持重りがする、素晴らしい写真集に見入って「先生の念願が叶ったんだ!」と私は小躍りしました。


        

     
        

      
        

      
       


        この本の最後に書かれていますが、瓶の撮影も先生ご自身の手で。

        新しくカメラを購入し、透明ガラスの撮影方法を勉強し、照明器具まで買われたそうです。

        苦労なさった写真は本当に美しく、戦禍や災害をくぐり抜け、子どもの命をつないできた哺乳瓶に対する先生の愛情を感じます。
        (私の下手な写真では伝わりにくくて、ごめんなさい)

  

        

        当時の世相を映すカラフルな哺乳器のパッケージ。

        

        明治の頃は長いゴム管付きの哺乳瓶が使われていましたが、洗浄が難しく不衛生な面もあり改良が加えられていったとか。


        

        そのような哺乳器の変遷を日本だけでなく、西洋の文献からも多く集められ、詳しく記されています。

        母親が母乳を与えられなくなった時、乳母も得られない時、人々がいかに知恵と工夫を巡らせ赤子(人間)の命をつないできたかが、
        写真とともに理解できます。


        


        母乳だけで育ったという人も、白湯や果汁を飲む際、哺乳瓶に誰もがお世話になったことでしょう。

        けれども赤ちゃんだったから記憶の範疇になく、私は母親になってからも当たり前のように便利な哺乳瓶を使っていました。

        哺乳瓶に感謝もせずに・・・

        もし哺乳瓶がない世界だったらどうしていたでしょう?



       「縁あって私のもとにやってきた哺乳瓶たちをこのまま埋もれさせるのは忍びなく、何とか日のを日の目を見させてやりたいとの思い」

        と先生は出版のきっかけを書いていらっしゃいます。


        鈴木先生でなければ決して成しえない、限りない情熱とロマンを感じる究極の1冊だと思います。


        ◆『誰も知らない哺乳瓶の世界』
          発行:幻冬舎メディアコンサルティング
          定価:本体1500円(+税)
          ※アマゾンで購入できます


        

        

        

        


        


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勝海舟の曾孫、勝康さん

2020-05-21 17:16:52 | 忘れえぬ人々

    先日投稿したように坂本龍馬を生んだ坂本家九代目、坂本登さんを取材したのが2010年。

    その4年半年後に、今度は「東久留米には勝海舟の曾孫さんがいるから取材してほしい」とある方から頼まれました。

    何でも、東久留米には50年近く住んでいらっしゃるけれど、勝海舟の子孫であることを名乗られないせいで地元に全く知られていないとのこと。

    
    私はびっくりしました。

    歴史に名を遺す師弟の末裔が150年の時を経て、こんなに近くに住んでいらっしゃるとは!と。

    勝康(かつやすし)さんが勝海舟四代目の方でした。


    


    



    勝さんは取材時、84歳になられていましたが、海舟に倣い身体を鍛えていらしたのでかくしゃくとしていらっしゃいました。

    テニスに鉄アレイ筋トレ、散歩を欠かさず、背筋真っ直ぐの方でした。

    
    海舟には正妻たみとの間に嫡子の小鹿(ころく)がいましたが、小鹿には男の子がなく伊代、知代という二人の女の子がいました。

    小鹿が40歳で急逝したため、海舟はその最晩年伊代と知代に婿養子を迎えました。

    家督を継いだ長女、伊代の婿養子は徳川慶喜の十男、精(くわし)でした。

    勝康さんは次女知代の五男で、勝家の分家にあたります。


    両親から「絶対に先祖の名を汚すな。先祖の名前を吹聴するな」と育てられたそうです。

    勝さんが名乗られないのも、両親の戒めがあったからでしょうね。


    祖母から聞かされた晩年の海舟は「気難しくて、怖い存在」だったそうです。

    勝さんは身内ならではの海舟観をいろいろと話してくださいました。

    海舟の父、小吉は喧嘩っ早い暴れん坊で不良旗本として恐れられていたとか。

    「そんな父親だと、普通ならグレますよね」と、くくっと笑う勝さんのお顔を思い出します。

    しかし、父を反面教師として、海舟は厳しく己の心身を磨いたそうです。

    「執念的な努力と鉄壁な意思、肝の据わった度胸、根っからの武士だったと思います」

    「眼光鋭く、相手の反応を見て、即どういう人間かを見抜く人。取っつきにくい、一癖も二癖もある嫌なオヤジだったんでしょう(笑)」

    中でも交渉により、江戸無血開城を実現させた西郷隆盛とは、お互いが尊敬の念を持ち「無私と至誠」という価値観でつながっていたといいます。



        


    『氷川清話』は晩年、海舟が赤坂氷川の自邸で語った、人物評、時局批判の数々をまとめたもの。

    従来の流布本を検討し直し、再編集し2000年に発行された講談社学術文庫です。

    海舟の目を通した辛辣な人物評がとても面白い。

    けれども西郷隆盛に関しては、ともかく太っ腹で、知識においては自分が優っているが、その大胆識と大誠意にはとても及ばない
    とべた褒めしています。

    坂本龍馬のことは「彼(ア)れは、おれを殺しにきたやつだが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着(オチツ)いてな、なんとなく
    冒しがたい威権があって、よい男だったよ」と。



    海舟と龍馬の子孫である勝康さんと坂本登さんが、車で20分余りのところに住んでいらっしゃることに、勝手にロマンを感じています。

    お二人に共通するのは偉大な先祖を持つことをひけらかさず、一歩引いたところに静かに佇んでいらっしゃること。

    一昔前の日本の男性をみるようで、失礼ながら私はお二方とも大好きで、お会いできた幸運に今さらながら感謝しています。


    最近もう一つ、共通点を見つけました。

    それは勝さんが息子さんの名前が「舟一郎」と照れ臭そうに言われたことは憶えているのですが、

    坂本登さんのお孫さんの名前が「坂本龍哉」と「坂本悠馬」というのをつい先日知りました。

    やはり先祖への誇りと思いは深く、つながっていくのでしょうね。


    






    


    


    

    

    

    

    



    
    
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近くにパン屋さん「ぶれっ堂」がオープン

2020-05-16 14:44:17 | 食べる

       
       先週、車で通った時、ある店の前で数人の行列ができていました。

       その通りには珍しいことなので、「あれっ、なに?」「パン屋さん?」

       そう、小さなパン屋さんができていたのです。


       パン好きのわが家にとっては、一大ニュースです。

       近くにファミレスやコンビニはあるけれど、パン屋はないのです。

       行ってきましたよ、その「ぶれっ堂」さんに。



       

       花小金井第五郵便局のすぐ近く、南欧風のおしゃれなパン屋さんです。

       行列の意味がわかりました。

       店内は6畳もないくらいなので、一人(一家族)ずつしか入れないのです。

       この時期ですから。

       3時頃でしたが、2人待っていましたので外で待ちました。


       入口ドアには消毒液のボトルがぶら下がっていました。

       ご夫婦でやっているようなお店で、田無との境に同じ名前のパン屋さんがあるので、その支店かなとも思って訊ねたら、
       奥さんが「ここに越してきたんですよ」とにこやかに応えてくれました。

       「この時期のオープンはさぞ大変だったでしょうね」と私。

       「ようやくどうにか落ち着きましたが、ランチの時間は忙しくて・・・お近くですか?」

       「はい、近くにお店ができて助かります」


       とても感じのいい方で、話を聞きたかったのですが、外で子ども連れのお母さんが待っています。

       そそくさと退出しました。


       

       買ってきたパンたちです。

       焼きたての食パンはまだ温かみが残っていました。

       初めてのパン屋さんでは必ずアンパンを買ってみることにしています。

       あんこ好きですから。

       アンパンは皮とあんことのハーモニーだと思っていますが、皮がほどよい薄さ、柔らかく抜群でした。


       右側のガーリックフランスも少し焼いて、とろけるバターともにパン生地の美味しさを堪能できました。

       焼きたてのパンが近くで味わえるとは幸せ気分です。


       こんな時期だからこそ、余計にうれしいです。







       

       


       

       

       
       
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ギタリスト浅野孝己さんのご冥福をお祈りいたします

2020-05-13 22:57:58 | キラリ人

       
      「ガンダーラ」や「銀河鉄道999」で知られるゴダイゴのギタリスト、浅野孝己さんが急死なさったと昨夜のニュースで知りショックでした。

       小平の花小金井にお住まいで、以前は地元のカフェで定期的にライブを開いていらっしゃいました。

       その頃、丁度10年前にインタビューさせていただいたことがあります。


       


       カフェの2階で聴いたソロ演奏はアコースティックギターでもエレキでも変幻自在。

       ギターのことがわからなくても、とにかくスゴイ!とそのテクニックに感動したのを憶えています。


       ライブや音楽制作、新人のプロデュースなど幅広い分野で活躍なさっていました。

       23年前に中野から花小金井に転居し、取材時に「小平は緑が多くて空気が違う。揺れる葉に合わせて曲が作れる」と、
       言われたのが印象的でした。

       本当に穏やかで誠実に語られる方でした。

       「あんこが好き」という笑顔に、途端に浅野さんを身近に感じたものです。

       
       地元の音楽文化に多くの貢献をなさいました。

       どれほどの方々が突然の訃報に悲しんでいることでしょう。

       ギター一筋58年、天国でもどうぞみなさんを楽しませてください。


       心からご冥福をお祈りいたします。







       

       


       
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美味しいびわの到来

2020-05-11 22:48:54 | 食べる

        
        

        都城の弟から瑞々しいびわが2箱届きました。

        鹿児島の桜島近くの道の駅から送ってくれたものです。

        鹿児島と宮崎にはコロナ感染者は少ないのですが、ドライブスルーのように送付先は車の中で書いたとか。


        

        大玉で甘くてジューシー、ほんとに美味しいびわです。


        昨年3月、弟は脳梗塞を患い2か月近く入院しました。

        お見舞いに帰省したときは、右手足に後遺症が残り、リハビリに励んでいる最中でした。

        これまで一度も病気をしたことがない弟でしたので、病室で淋しい背中を見るのが辛かったのを憶えています。


        仕事に復帰したい、好きな車を運転したい一心で、リハビリを頑張り周囲も驚くほどの回復ぶりだったと義妹から聞きました。

        秋には大分の佐伯から魚の干物などがたくさん送ってきましたが、その時初めて弟が運転して行ったと聞き、びっくりしたものです。


        弟からの贈り物は弟自身の回復の証拠だと、昨春の都城での1週間を想い出しつつ、ありがたく頂いています。









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