荒川(中川)を渡ると江戸川区の葛西へと地名は変わります。江戸時代は隅田川を渡るとそこは下総の国。旅人たちは千葉街道や行徳街道を辿りながら下総の国へやってきたのだろう。
江戸の府内からは街道の往来だけでなく、実は行徳で産する塩や干鰯を江戸市中へと運ぶための運河を利用して葛西あたりへとやってきたようである。隅田川から小名木川へと入り荒川へ。そして荒川から新川、古川、江戸川を辿り行徳へと至る水路は物資の運搬だけでなく、人の往来にもたいそう役立っていたようです。
そんな地域である葛西は陸路、水路で往来する人々で賑わう場所であり、江戸湾に面していたことで海苔の養殖や江戸前の新鮮な魚介類が豊富にとれた漁村でもあったのです。そうであればこの界隈には村が構成され、そこには多くの人が暮らしていたことになります。村があればそこには必ず村民が檀徒となる寺があります。
そんなことでかつて江戸時代に行徳街道の道筋にあった「長島村(現在の東葛西)」を歩いてみることにしました。長島は環七通りと旧江戸川に挟まれた地域ですが、どういう訳かこの地域にはたくさんの寺社が集中しています。そんな地域をそぞろ歩きしているうちに気が付くことは、次から次に寺の門前脇や路傍に現れる年代物の庚申塔なのです。
民家の脇に置かれた庚申塔
庚申信仰は歴史が古く8世紀末には「守庚申(しゅこうしん)」と呼ばれる行事が始まっていたと言われています。そもそも庚申信仰は中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰と言われています。
その三尸説とは、中国の道教の教えによると、人中に潜む「三尸の虫(上尸=頭、中尸=腹、下尸=足)は、庚申(かのえさる)の夜、人が眠りにつくと天に昇り天帝にその罪を告げ、天帝は罪の軽重に応じてその人の寿命を決めていくといわれています。そこで長生きを願う人々は、庚申の夜は眠らずに夜籠して身を慎んだといいます。
どの庚申塔も塔面に刻まれた像は版で押したように同じものです。その塔面の像をイラストで示すと下記のような配置になっています。
庚申塔のイラスト図
中央に立つ像は青面金剛(しょうめんこんごう)で本来奇病を流行らす鬼神で猿の化身ともいわれています。「三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に三叉戟(三又になった矛のような法具)、棒、法輪、羂索(綱)を持ち、足下に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う」姿が一般的なようです。
そして雌雄一対の鶏が刻まれています。これはこれは申(さる)の次ぎの日、すなわち酉の日になるまで籠るからだという説と、夜を徹して朝に鶏の声を聞くまで念仏を唱えるからだという説もあるようです。
邪鬼の下に三猿が刻まれていますが、三猿を三尸の虫になぞらえ、「見ざる・言わざる・聞かざる」で天帝に罪を報告させない、という意味へこじつけていったようです。
民家脇の庚申塔
正円寺の庚申塔(右の塔が笠付角柱型の庚申塔)
正円寺の庚申塔の造立年月日は寛文3年と銘が刻まれ、形態は笠付角柱型です。塔面には「奉造栄庚申結衆二世安楽」の文字が刻まれています。「二世」とは現世と来世のことをいっているようです。
香取神社の鳥居脇の庚申塔
自性院門前の庚申塔
自性院の庚申塔の造立年は文亀元年(1501)とかなり古いものです。画像の右に写っているのが「観音菩薩像庚申塔」で、塔面には「奉待庚申結衆三尸教祈願成就二世安楽所」と文字が刻まれています。
江戸時代の庚申信仰の本尊の多くは悪疫を退治する青面金剛が刻まれていますが、初期には阿弥陀像や観音像が刻まれています。そんな一例がここ自性院の庚申塔です。
庚申塔や庚申塚は日本全国いたるところに残っています。街道を歩くと、その路傍にいくつも見かけることがあります。なにげなく通り過ぎてしまいそうな庚申塔や庚申塚を見るにつけ、かつて多くの人たちが信仰にねざした祈りを捧げたことに思いを馳せたひとときでした。
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江戸の府内からは街道の往来だけでなく、実は行徳で産する塩や干鰯を江戸市中へと運ぶための運河を利用して葛西あたりへとやってきたようである。隅田川から小名木川へと入り荒川へ。そして荒川から新川、古川、江戸川を辿り行徳へと至る水路は物資の運搬だけでなく、人の往来にもたいそう役立っていたようです。
そんな地域である葛西は陸路、水路で往来する人々で賑わう場所であり、江戸湾に面していたことで海苔の養殖や江戸前の新鮮な魚介類が豊富にとれた漁村でもあったのです。そうであればこの界隈には村が構成され、そこには多くの人が暮らしていたことになります。村があればそこには必ず村民が檀徒となる寺があります。
そんなことでかつて江戸時代に行徳街道の道筋にあった「長島村(現在の東葛西)」を歩いてみることにしました。長島は環七通りと旧江戸川に挟まれた地域ですが、どういう訳かこの地域にはたくさんの寺社が集中しています。そんな地域をそぞろ歩きしているうちに気が付くことは、次から次に寺の門前脇や路傍に現れる年代物の庚申塔なのです。
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庚申信仰は歴史が古く8世紀末には「守庚申(しゅこうしん)」と呼ばれる行事が始まっていたと言われています。そもそも庚申信仰は中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰と言われています。
その三尸説とは、中国の道教の教えによると、人中に潜む「三尸の虫(上尸=頭、中尸=腹、下尸=足)は、庚申(かのえさる)の夜、人が眠りにつくと天に昇り天帝にその罪を告げ、天帝は罪の軽重に応じてその人の寿命を決めていくといわれています。そこで長生きを願う人々は、庚申の夜は眠らずに夜籠して身を慎んだといいます。
どの庚申塔も塔面に刻まれた像は版で押したように同じものです。その塔面の像をイラストで示すと下記のような配置になっています。
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中央に立つ像は青面金剛(しょうめんこんごう)で本来奇病を流行らす鬼神で猿の化身ともいわれています。「三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に三叉戟(三又になった矛のような法具)、棒、法輪、羂索(綱)を持ち、足下に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う」姿が一般的なようです。
そして雌雄一対の鶏が刻まれています。これはこれは申(さる)の次ぎの日、すなわち酉の日になるまで籠るからだという説と、夜を徹して朝に鶏の声を聞くまで念仏を唱えるからだという説もあるようです。
邪鬼の下に三猿が刻まれていますが、三猿を三尸の虫になぞらえ、「見ざる・言わざる・聞かざる」で天帝に罪を報告させない、という意味へこじつけていったようです。
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正円寺の庚申塔の造立年月日は寛文3年と銘が刻まれ、形態は笠付角柱型です。塔面には「奉造栄庚申結衆二世安楽」の文字が刻まれています。「二世」とは現世と来世のことをいっているようです。
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自性院の庚申塔の造立年は文亀元年(1501)とかなり古いものです。画像の右に写っているのが「観音菩薩像庚申塔」で、塔面には「奉待庚申結衆三尸教祈願成就二世安楽所」と文字が刻まれています。
江戸時代の庚申信仰の本尊の多くは悪疫を退治する青面金剛が刻まれていますが、初期には阿弥陀像や観音像が刻まれています。そんな一例がここ自性院の庚申塔です。
庚申塔や庚申塚は日本全国いたるところに残っています。街道を歩くと、その路傍にいくつも見かけることがあります。なにげなく通り過ぎてしまいそうな庚申塔や庚申塚を見るにつけ、かつて多くの人たちが信仰にねざした祈りを捧げたことに思いを馳せたひとときでした。
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