大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

東海道五十三次を描いた絵師「初代安藤広重」が眠る寺・東岳寺

2012年02月11日 14時02分41秒 | 足立区・歴史散策
日光道中の旅すがら、足は気の向くままに東武伊勢崎線の竹ノ塚駅前に到着。この竹ノ塚駅からさほど離れていない場所にあの東海道五十三次の錦絵を描いた浮世絵師「初代安藤広重」が眠る寺、東岳寺があるという。

東岳寺本堂

初代ということで、あの東海道五十三次を描いた正真正銘の安藤広重のことなのです。余談ですが広重の襲名者は全部で5人、すなわち五代にわたって広重の名は引き継がれていたのです。ちなみに五代目歌川広重は明治23年生まれで昭和42年に亡くなった方で、活躍した時期は大正から昭和にかけてのことで、それほど大昔の話ではありません。

話を元に戻し、初代安藤広重が生まれたのが江戸時代の寛政9年(1797)のこと。彼、広重の名声を決定づけたのが、ご存知の「東海道シリーズ」を発表した天保4年(1832)頃。これにより風景画家としての名声はゆるぎないものとなり、東海道シリーズのほかに「六十余州名所図会」、「名所江戸百景」などあまたの作品を世に残しています。

東岳寺山門

そんな初代安藤広重が眠る東岳寺は竹ノ塚駅から10分ほどの「尾竹橋通り」に面して山門を構えています。それほど目立たない造りの門構えに加えて、見るからに境内もこじんまりとしています。境内を俯瞰すると、小さな池が配され、その周りに木々が植えられているのですが、お寺のお庭というよりも何か雑然としたあまり落ち着かない雰囲気が漂っているように感じました。

そもそもこの東岳寺の開基は慶長18年(1614)浅草の鳥越であったのですが、大正12年の関東大震災の後、広重の墓も一緒に現在の場所(足立区伊興本町)に移ってきた歴史があります。

境内に入ると正面に比較的新しい造りのご本堂が見上げるように建っています。その境内の左手奥にしっかりとした造りの広重記念碑とその傍らに広重の墓が置かれています。やもすると記念碑の立派さから墓とみまがう恐れがありますが、墓石はみすぼらしい台座の上に一枚石を置いただけの目立たない存在で記念碑の傍らに佇んでいます。

広重記念碑

当寺が浅草鳥越にあった頃は、もう少し立派な造りの墓だったのではないでしょうか。当代きっての絵師の墓石にしてはなぜか寂しさを感じます。

一立斎広重墓

初代広重が亡くなったのは幕末の安政5年の9月6日、享年62歳。墓石には「一立斎広重」と名が刻まれていますが、この一立斎は彼の号で天保3年(1832)の頃にそれまでの一幽斎から改めてものだそうです。尚、歌川広重は彼がまだ若い頃の名で、歌川豊広門下時代のものです。

久しぶりに江戸時代の有名人の墓に遭遇できたことを良しとし、東岳寺を辞することにしました。

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