冬晴れの寒風の中、お江戸の風情を求めて千住大橋を渡り、隅田川東の西新井へと足をのばしてみました。千住大橋が架橋されたのは神君家康公の初入府から4年後の文禄3年(1594)に遡ります。架橋後は千住一帯は奥州街道の出発地点として宿場町が形成されていきます。そして日光東照宮の造営後は奥州街道は宇都宮までの区間が「日光道中」とその名前が改められ、千住は道中最大の宿場としてますます発展を遂げることになります。
仁王門扁額
そんな旧日光道中に沿って走る東武伊勢崎線沿線には隠れた古刹、名刹が多く点在しているのですが、今日は伊勢崎線の西新井駅から隣駅の竹ノ塚駅の間の「一駅散歩」ならぬ歴史散策を楽しむことにしました。
今日の散策は足立区の観光紹介ウェブページで紹介されているお勧めルートに沿って辿ることにしました。参考に下記にルートマップのURLをお知らせいたします。
http://adachikanko.jp/walk/nishiarai01.html
散策を始めるにあたってまず第一に興味を引いたのが、その寺号がやたらと仰々しく、且つ現在日本が置かれている世相や政治環境、更には地震、豪雪などの自然災害を鎮撫してくれそうな響きを持っている「天下長久山・国土安穏寺」という古刹だったのです。
降り立った西新井駅からは徒歩でものの10分程度の距離にあります。旧日光街道にほぼ面している場所に天下長久山・国土安穏寺は堂宇を構えています。路地を入るとまず目に飛び込んでくるのが、小振りの山門なのですが、朱の門扉には徳川家の金色に輝く葵のご紋が入っているではありませんか。
山門
山門扉の葵紋
まさか西新井で徳川家の金色に輝く御紋に遭遇できるとは思ってもみなかった私にとっては無上の喜びです。山門の扉は固く閉じられここから入門することはできません。
これは期待できると思いつつ進んでいくと、やおら左手に見事な仁王門が現れます。堂々とした朱塗りの門で金文字で「天下長久山」と書かれた扁額が当寺の権威を表しているようです。というのも江戸時代の初期に二代将軍秀忠公と嫡男家光公が鷹狩や日光参詣の折にしばしばこの地に立ち寄ったとき、当寺が御膳所となった由緒があり、更には徳川将軍家の祈願所でもありご位牌安置所という名誉を与えられていたことで「葵紋」の使用が許されたとあります。そのため境内にある建物のいたるところに「葵紋」を見ることができます。
仁王門
仁王門扁額
仁王門全景
仁王門扉の葵紋
当寺の開基は応永17年(1410)、日通聖人による開山でもともとは「長久山妙覚寺」と称していたようです。現在の寺号になったのは家光公の治世の寛永元年(1624)のことです。
方丈堂
ご本堂
ご本堂扁額
仁王門からの入山も許されていないので、脇の新しい門を入るとそれなりの広さの境内が目に飛び込んできます。前述のように徳川将軍家縁の寺ということで、何かその証となるものが境内にあるのではないかと見回すと、やはり期待通りに残っていたのが「家光公御手植えの松」ではありませんか。家光公の治世から400年以上を経過し、それなりに枝を伸ばしている松の木なのですが、浜離宮にある「三百年の松」に比べると、少し小振りかな、と思うのは私だけでしょうか。それでも見事な枝ぶりで境内の中でその存在感を十分に感じることができます。
家光公御手植之松の立て札
家光公御手植之松
境内の一角に当寺では一番古い建造物である鐘楼が置かれ、その脇に祖師堂が佇んでいます。その祖師堂の傍らに堂々とした恰幅の日蓮(祖師)の像が立っています。なんとこの像はあの有名な高村光雲の作だそうです。ちなみに当寺の宗派は日蓮宗で本山は中山法華経寺です。
鐘楼堂
祖師堂
日蓮像
旧日光街道の脇に堂宇を構える当寺は将軍家とただならぬ関係があったため、街道を旅する人々にとっては近づきがたい存在だったと想像します。多くの旅人たちは門前を通過する祭には頭を垂れ、馬上の侍たちも下馬し腰をかがめての道中ではなかったのではないでしょうか。
日光街道脇に残る江戸民家の長屋門
東海道五十三次を描いた絵師「初代安藤広重」が眠る寺・東岳寺
「やせ蛙負けるな一茶是にあり」縁の寺「炎天寺」は源氏とも深い関係が…
お江戸庶民の厄除け祈願大師・西新井大師総持寺
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仁王門扁額
そんな旧日光道中に沿って走る東武伊勢崎線沿線には隠れた古刹、名刹が多く点在しているのですが、今日は伊勢崎線の西新井駅から隣駅の竹ノ塚駅の間の「一駅散歩」ならぬ歴史散策を楽しむことにしました。
今日の散策は足立区の観光紹介ウェブページで紹介されているお勧めルートに沿って辿ることにしました。参考に下記にルートマップのURLをお知らせいたします。
http://adachikanko.jp/walk/nishiarai01.html
散策を始めるにあたってまず第一に興味を引いたのが、その寺号がやたらと仰々しく、且つ現在日本が置かれている世相や政治環境、更には地震、豪雪などの自然災害を鎮撫してくれそうな響きを持っている「天下長久山・国土安穏寺」という古刹だったのです。
降り立った西新井駅からは徒歩でものの10分程度の距離にあります。旧日光街道にほぼ面している場所に天下長久山・国土安穏寺は堂宇を構えています。路地を入るとまず目に飛び込んでくるのが、小振りの山門なのですが、朱の門扉には徳川家の金色に輝く葵のご紋が入っているではありませんか。
山門
山門扉の葵紋
まさか西新井で徳川家の金色に輝く御紋に遭遇できるとは思ってもみなかった私にとっては無上の喜びです。山門の扉は固く閉じられここから入門することはできません。
これは期待できると思いつつ進んでいくと、やおら左手に見事な仁王門が現れます。堂々とした朱塗りの門で金文字で「天下長久山」と書かれた扁額が当寺の権威を表しているようです。というのも江戸時代の初期に二代将軍秀忠公と嫡男家光公が鷹狩や日光参詣の折にしばしばこの地に立ち寄ったとき、当寺が御膳所となった由緒があり、更には徳川将軍家の祈願所でもありご位牌安置所という名誉を与えられていたことで「葵紋」の使用が許されたとあります。そのため境内にある建物のいたるところに「葵紋」を見ることができます。
仁王門
仁王門扁額
仁王門全景
仁王門扉の葵紋
当寺の開基は応永17年(1410)、日通聖人による開山でもともとは「長久山妙覚寺」と称していたようです。現在の寺号になったのは家光公の治世の寛永元年(1624)のことです。
方丈堂
ご本堂
ご本堂扁額
仁王門からの入山も許されていないので、脇の新しい門を入るとそれなりの広さの境内が目に飛び込んできます。前述のように徳川将軍家縁の寺ということで、何かその証となるものが境内にあるのではないかと見回すと、やはり期待通りに残っていたのが「家光公御手植えの松」ではありませんか。家光公の治世から400年以上を経過し、それなりに枝を伸ばしている松の木なのですが、浜離宮にある「三百年の松」に比べると、少し小振りかな、と思うのは私だけでしょうか。それでも見事な枝ぶりで境内の中でその存在感を十分に感じることができます。
家光公御手植之松の立て札
家光公御手植之松
境内の一角に当寺では一番古い建造物である鐘楼が置かれ、その脇に祖師堂が佇んでいます。その祖師堂の傍らに堂々とした恰幅の日蓮(祖師)の像が立っています。なんとこの像はあの有名な高村光雲の作だそうです。ちなみに当寺の宗派は日蓮宗で本山は中山法華経寺です。
鐘楼堂
祖師堂
日蓮像
旧日光街道の脇に堂宇を構える当寺は将軍家とただならぬ関係があったため、街道を旅する人々にとっては近づきがたい存在だったと想像します。多くの旅人たちは門前を通過する祭には頭を垂れ、馬上の侍たちも下馬し腰をかがめての道中ではなかったのではないでしょうか。
日光街道脇に残る江戸民家の長屋門
東海道五十三次を描いた絵師「初代安藤広重」が眠る寺・東岳寺
「やせ蛙負けるな一茶是にあり」縁の寺「炎天寺」は源氏とも深い関係が…
お江戸庶民の厄除け祈願大師・西新井大師総持寺
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