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大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸元禄事件簿・そろそろ季節がやってくる!「忠臣蔵・赤穂浪士討入り」の裏話【本所吉良邸と谷中観音寺

2010年11月18日 15時49分15秒 | 台東区・歴史散策
「時は元禄15年、師走の14日」で始まる赤穂浪士の討入りですが、見事上野介の首をあげ主君の仇討ちの本懐をとげたというこの事件は「忠臣蔵」の噺の中で今日まで言い伝えられています。そして今年もそろそろその季節となってきました。

本所松坂町吉良邸跡
吉良邸内の首洗い井戸

今日のお題、「忠臣蔵・赤穂浪士討入り」の裏話となるのですが、本所吉良邸跡や本懐を遂げた後、高輪の泉岳寺までの移動ルートについての記述は山ほど転がっていて、裏話になるようなものはもう出尽くした感があります。

そこでさまざま調べて行くうちに、こんなマイナーな噺と史蹟が転がっていました。私がよく通うあの谷中の寺町の細い路地に佇む古刹の境内にあったのです。谷中さんさき坂のなだらかな坂道を谷中墓地へと進み、ほぼ坂を登りきったあたりの狭い路地を左に折れると、そこは谷中の寺町の風情が漂う一角へと入り込みます。
この路地を進んだところ、左手にある古刹「観音寺」にあるのが「赤穂浪士供養塔」なのです。



 

観音寺門前
赤穂浪士由緒書

どうしてこんな所に?と由緒書にはこんなことが書かれていました。
『四十七士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修行していた文良の兄と弟であった。文良とは、のち当寺第6世となった朝山大和尚のことである。寺伝によれば、文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内でしばしば彼らの会合が開かれたという。明治末の福本日南の著作「元禄快挙録」には、勘六は死にのぞみ「今日の仕儀勘六喜んで身罷ったと、長福寺の文良へお伝え下されたい」と遺言したという。』

本堂に向かって右側に置かれている「宝篋印塔」が四十七士慰霊塔として古くから伝えられいます。

観音寺本堂
四十七士慰霊塔

12月に入ると義士祭が行われる本所吉良邸跡は、まだ訪れる人もなくひっそりとした佇まいをみせています。
そして泉岳寺へと向かう浪士一行が辿った道筋を永代橋袂まで歩いてみました。
吉良邸を跡に、一行は整然と列をなし、まず竪川にかかる橋「一の橋」を渡り、お江戸の時代には大川沿いに造られた御船蔵脇を歩き新大橋方面へと南下していきます。

一の橋

現在の新大橋通りを横切り、萬年橋通りへとはいっていきます。そして小名木川にさしかかると、大川との合流地点を眺めながら、美しい曲線を描く萬年橋を渡っていきます。

萬年橋

萬年橋を渡ると本所佐賀町へとさしかかってきます。佐賀町河岸沿いに一行は永代橋東詰めへと歩を進めていきます。そして冷え切った体を暖めた、味噌屋乳熊屋での甘酒の振る舞いの噺が残る「赤穂浪士休息の碑」。

赤穂浪士休息の碑


このあと一行は永代を渡り、ご府内に入り泉岳寺を目指したのです。大願成就となった日、お江戸の町は一面の雪化粧であったと思います。降り積もった雪の上を踏みしめながら、本所松坂町の吉良邸から高輪の泉岳寺までのおよそ10km以上の行程は、肉体的にも精神的にもかなり大変だったのではないでしょうか?





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お江戸谷中の水茶屋「鍵屋の看板娘・おせん」を探して~明和の三美人~【谷中感応寺・笠森稲荷】

2010年11月16日 19時08分30秒 | 台東区・歴史散策
地下鉄千駄木駅から谷中へとのびるなだらかな坂道を「さんさき坂」と呼んでいます。それほど広い道ではないのですが、さんさき坂入るとすぐに左へ折れる道があります。この道が谷中界隈で有名な「夜店通り」で夜店通りを上がって行くと「谷中銀座」入口へと至ります。



このさんさき坂に沿ってまるで小京都を歩いているかのように、次から次へと名刹、古刹が現れお寺好きにはたまらない場所です。晴れた日の散策にはうってつけの場所で、都内でも私が一番好きな場所の一つと言ってもいいでしょう。

さて明和の三大美人といえば、浅草寺奥山の楊枝屋・柳屋のお藤、同じく浅草二十間茶屋の水茶屋・蔦谷のおよし、それと今日のお題の谷中の笠森稲荷門前の水茶屋・鍵屋のおせんですが、この三人の中でも特に名の知れた「おせん」について以前から興味をもっていました。

というのも江戸の浮世絵に描かれた「ほっそりタイプ」の美人画の代表が「おせん」だからなのです。
当時の浮世絵の中で、おせんを描いたのが 錦絵の発案者である「鈴木春信」ですが、彼の筆で描く美人画は全て「ほっそりタイプ」の女性なのです。一方、同時代に活躍した鳥居清長のそれは「八頭身のスレンダータイプ」、そして誰もが知っている歌麿に至っては「ナイスボディタイプ」とそれぞれに特徴があります。

そんな「ほっそりタイプ」のおせんさんを探しに谷中界隈を歩いてみました。おせん縁の感応寺はすでになく、現在は天王寺と名を変えています。そして感応寺境内にあったはずの笠森稲荷もないのですが、実は同じ谷中にある別の寺の境内に置かれています。そもそも谷中感応寺は広大な寺領を有し、笠森稲荷はその寺領のほんの一角に置かれていたといわれています。その一角であった場所が現在笠森稲荷が置かれている「功徳林寺」らしいのです。
とは言っても、水茶屋「鍵屋」があるわけでもないのですが、谷中の墓地からさほど離れていない場所に功徳林寺は確かにありました。

現天王寺門前
天王寺山門
天王寺境内

目立たない寺の入口から奥へと延びる参道を進むと、真っ正面に赤い幟が立てられた祠が現れます。特に笠森稲荷という名が表示されてはいないのですが、かつてこの辺りにあったということでお寺の境内に合祀されています。

功徳林寺門
功徳林寺の笠森稲荷

それでは何故、稲荷のすぐ側に水茶屋があったのか?なんて疑問が湧いてくるのは私だけではないはず‥‥。実は感応寺はお江戸の三富といって富くじを扱える官許のお寺だったのです。ということは富くじ販売の日はたくさんの人出で賑わったことが想像できます。そして人出でがあるということは、様々な商売がこの辺りで営まれていたことも想像できるわけです。その中で特異な商売がここ谷中にもあったのです。それが水茶屋なのですが、この業態は単にお茶を提供する場ではなく、「春を売る」ことを生業としていたのです。そこには当然多くの男衆が集まり、そこで働いていた給仕役の美人娘が男衆の間で評判となっていくこととなるのです。

余談ですが、この水茶屋の客の多くが武家と坊主だったらしい。というのも谷中はご存知のように寺社が多い土地柄。本来女性との交わりを控えるはずの坊主が谷中界隈の水茶屋に足しげく通ったことが史実として残っているんですね。まあ~、侍も人べんを取れば寺になるがごとくといったところでしょうか。
いつしか笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」の美人看板娘おせんの評判は当時の人気絵師である鈴木春信の耳に達します。売れっ子の人気絵師手にかかれば、おせんの絵は瞬く間にお江戸の中はもちろんのこと、江戸土産として売れに売れ、同時におせんの評判はうなぎ登り状態となり、連日おせん見たさに大賑わい。

しかしある日突然、おせんさんが姿をくらまします。おせん贔屓の男衆は上へ下への大騒ぎ。実はおせんさん、なんと公儀のお庭番「倉地甚左衛門」に嫁いでしまったのです。お庭番ということは隠密稼業と同じこと。住む場所も御城に近い特別の場所。そんなことでおせんさんも人前に出ることなく籠の鳥状態となってしまったのです。その後、おせんは9人の子どもに恵まれ、77歳でこの世を去ったと言います。

ところで「おせん」さんに関係するお寺がこの「さんさき坂」沿いにあるんです。寺名は「大円寺」。一説によると当寺に笠森稲荷を合祀していると言われているのですが、前述のように功徳林寺の境内にも笠森稲荷が合祀されています。どちらかほんとうなのかい?と思うのが当然の疑問。

大円寺本堂

実は大円寺の笠森稲荷は、ほんとうは瘡守(かさもり)稲荷と呼ぶらしいのです。ですがこの寺の境内に大正8年に2つの碑が建てられたのです。一つが「笠森阿仙の碑」で小説家永井荷風の撰、もう一つが例の浮世絵師、「錦絵開祖鈴木春信」碑です。

笠森阿仙の碑
笠森阿仙の碑
錦絵開祖鈴木春信碑
錦絵開祖鈴木春信碑

なにやら「おせん」さんに関してはややこしい話になってしまうのですが、男心をくすぐったお江戸の美人は死しても今尚、惑わせてくれています。

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お江戸の幕末探訪~最後の将軍「慶喜公」が眠る谷中墓地





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お江戸の幕末探訪~最後の将軍「慶喜公」が眠る谷中墓地

2010年11月13日 22時28分45秒 | 台東区・歴史散策
権現様の江戸入府から260余年の長きにわたり連綿と続いた徳川将軍家がいよいよ終焉を迎えるその時、はからずも朝敵の汚名をきせられ、恭順、失意のうちに水戸へ落ちた最後の将軍「慶喜公」は激動の幕末を演じた主人公の一人です。

慶喜公のお江戸における足跡は誕生の地、小石川の水戸上屋敷(現小石川後楽園)、恭順の地、上野寛永寺の子院である大慈院など処々あるのですが、将軍在位中は京、大阪においての攘夷派や朝廷対策に忙殺され、将軍として江戸にいた時期は非常に短く、鳥羽伏見の戦いで江戸に敗走し、江戸城無血開城までのほんのわずかな期間だったのです。

明治に入り、戊辰戦役の終焉により謹慎をとかれ、いったん駿府(現静岡)に居住、その後、明治30年に東京巣鴨に移住し、翌年31年には明治天皇に謁見を許され、35年に公爵の爵位を受けています。そして明治を生き抜き、大正2年に没しています。そして慶喜公が眠る谷中墓地へ行ってきました。

徳川宗家として最後の将軍であった慶喜公がなぜ徳川家の菩提寺である上野寛永寺、または芝増上寺に墓所を構える事をしなかったか、というと前述のように、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言しました。このため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である増上寺徳川家墓地でも寛永寺徳川家墓地でもなく、谷中霊園に皇族の同じような円墳が建てられました。





徳川家の葵のご紋がついた鉄柵の御門の向こうに広々とした墓地の空間が見えます。神道形式の円墳が並ぶ墓地を眺めている内に、近世日本を創出した徳川時代の最後を飾った一人の人物がここに眠っているという事実を肌で感じると共に、明治という新しい時代をも創出した偉大な人物がここに眠っているという事実に、鳥肌が立つ思いがするほど、この場所にはなにか違う空気が流れています。





そして慶喜公の墓地からほんの僅か離れている場所に、柵もなく木陰に隠れるように置かれている神道風の墓があります。近づいて墓石に刻まれているお名前をよく見ないとわからないのですが、実はこの墓には慶喜の息子で勝海舟の養子となった勝精(かつくわし)が眠っているのです。

勝精の墓
勝精の墓

養子の身である精がなぜ谷中の墓地に?。「勝精」は将軍の家系にあり、一幕臣の勝家へ養子に行く事を快く思っていなかったようです。そんなことから海舟が眠る目黒洗足池の勝家の墓でなく、実家の墓があるこの谷中に戻ってきたです。





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お江戸吉原・「飛不動」~時代変われば航空業界御用達~【吉原遊廓お膝元】

2010年11月09日 12時19分58秒 | 台東区・歴史散策
「吉原遊廓・お歯黒どぶ」へ通じるかつての茶屋町通りからほんの少し入った場所に、「飛不動」なる古刹があるのをご存知ですか。この茶屋通りは、吉原大門へと通じる土手八丁と同様、その昔には吉原通いの客が利用したメインストリートだったようです。「茶屋通り」と名付けられていたくらいだらか、さまざまな茶屋が軒を連ねていたらしいのですが、特にこの通りには吉原遊廓と張り合った「陰間茶屋」なるものが集中していたようです。陰間茶屋とは「男色」専門の茶屋のことなのですが、江戸時代には人気があったらしく、吉原遊廓にとっては商売敵だったと言われています。

こんな通りの裏手にあるのが今日のお題「飛不動さん」なのですが、開山は家康公が江戸に入府する前の1530年。開祖は本山派修験僧の正山上人といわれる方で宗派は天台宗のお寺です。







この正山上人は和歌山県熊野から奈良県吉野にいたる大峯山で修行後、諸国を巡歴し、この地竜泉で村人に宿を施してもらったある夜に見た夢の中に一筋の光と共に立ち昇る龍の姿が現れました。龍の夢はお不動様のご加護を象徴することから、上人は宿の世話をしてくれた村人達の息災延命と、自らの旅の安全を祈ってお不動様を刻みこの地に奉安しました。正式な寺号は「龍光山三高寺正寶院(りゅうこうざん さんこうじ しょうぼういん)」なのですが、なぜ飛不動尊と呼ばれるようになったのか…?

創建後いつの時代かは定かではありませんが、当寺の住職がご本尊のお不動様を担いで、あの正山上人が修業をした大峯山へ運んだことがあったのです。ご本尊がいない間、この地の人々が集まりお不動様の無事を一心に祈ったところ、お不動様が一夜にして大峯山から飛び返ってきたのです。以来、「空を飛び来て、衆生を守りたもう、お不動様」であることから「飛不動尊」と呼ばれるようになったという言い伝えが残っているのです。

お江戸の時代から病魔や災難を飛ばしてくれる「空飛ぶお不動様」として信仰されていたことがうかがわれます。お不動さまのご縁日は28日です。ご本尊のご開帳は12年ごとの酉歳に行われます。

時代が下り、当飛不動尊は「空飛ぶお不動さま」とが結びつき、航空業界に携わる人々や、空路で旅行する多くの人々が航空安全と道中安泰を願い参拝されているようです。

寺の入口である山門は、赤い幟が立っていなければ見過ごしてしまうほど目立たないものです。山門から50mほどの参道を抜けると、狭い境内とご本堂が現れます。





境内の左奥には下谷七福神の恵比寿神の祠、その傍らになにやら語り合うような仕草の羅漢様が2体置かれています。

恵比寿神祠
羅漢様

ご本堂の入口上にはお不動さまが右手に持っている剣「利剣」が額に入れられ掲げられています。この利剣は正しい仏教の智慧で、迷いや邪悪な心を断ち切りることを現すものです。





尚、飛不動尊の側にはこの地「竜泉」に住んだあの明治の女流小説家「樋口一葉」の足跡を展示する「一葉記念館」があります。また彼女の代表作「たけくらべ」に登場する主人公「美登利」の家のモデル「大黒屋の寮跡」など一葉ファンには是非訪れていただきたい場所が点在しています。こんな一葉ゆかりの地の訪問のついでに、飛不動尊の参拝もお忘れなく!

吉原の遊女が眠る浄閑寺~生きては苦界、死しては浄閑寺~
江戸っ子たちの桃源郷「長編・吉原今昔物語」





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お江戸幕末・尊皇攘夷の尖兵「梅田雲浜」が眠る海禅寺【台東区・松が谷】

2010年11月08日 17時11分17秒 | 台東区・歴史散策
NHK大河ドラマ「龍馬伝」も終盤を迎え、慶応3年11月17日の龍馬暗殺まで残すところあと僅かのところまで迫ってきました。江戸から明治へと時代が変わるあの大政奉還までの間に、元号は天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応とまるで猫の目が回るように変わっていきました。そんな時代の変遷の中でもとりわけ安政の大獄はその後の尊王運動をさらに激化させる大きな要因となった時期だったのではないでしょうか。

井伊直弼が大老に就任した安政5年には懸案の日米修好通商条約が調印され、併せてもう一つの問題である将軍継嗣が紀州慶福(よしとみ)に決定し、第14代将軍として家茂(いえもち)が宣下されました。
一方、条約調印を朝廷の勅許なく締結したことで、時の天皇である孝明天皇は激怒し、幕府を無視してなんと水戸藩に攘夷の勅諚を降下したのです。
この幕府の面目を失すべき大事件に遭遇した井伊直弼は水戸藩降勅の首謀者を梅田雲浜と断じ、安政5年(1858)の9月7日に雲浜を捕縛することとなったのです。この梅田雲浜捕縛によって「安政の大獄」の端緒が開かれたのです。その後、橋本佐内、頼三樹三郎そして松下村塾の吉田松蔭が断罪されたのは皆様方はよくご存知のはずです。

この梅田雲浜の墓が台東区松が谷の海禅寺にあるんです。どの辺りか、というと浅草からそれほど離れていない「かっぱ橋商店街」から上野方面に少し入った所なのですが、賑やかな商店街の歩道脇に寺の入口があります。立派な石造りの門柱に「海禅寺」の文字。その門柱の傍らに「梅田雲浜の墓」の説明書が立てられているのですぐにわかります。

海禅寺門柱

門柱から山門まで約50~60m。真新しい山門をくぐると静まり返った境内とご本堂が目の前に。そして左へ進むと墓所が現れます。比較的整備された墓所のちょうど真中あたりに雲浜の墓が置かれています。

海禅寺山門
ご本堂


雲浜は捕縛された後、安政6年(1859)9月14日に小倉藩江戸邸の獄中で病没しました。遺体は海禅寺内の泊船軒に仮埋葬され、文久2年(1862)に現存の墓石が建てられました。墓石の前面に「勝倫斎俊巌義居士」と、戒名が刻まれています。

右:梅田雲浜 左:藤井尚弼
雲浜の墓
雲浜の戒名

雲浜の墓の左隣には藤井尚弼なる人物の墓があります。藤井は雲浜同様、尊皇思想に厚く、多くの志士たちと交流したことで知られています。そのために安政5年(1858)の安政の大獄によって捕えられ、翌安政6年(1859)に雲浜同様、江戸小倉藩邸に送致され、その後、重度の脚気に冒されて獄死したと伝えられています。。

尚、千住の小塚原回向院にも雲浜をはじめ幕末に処刑されたり、獄死した志士たちの供養碑があります。機会があれば一度、千住の小塚原回向院にお参りをしたいと考えています。





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お江戸・蔵前首尾の松~今宵の首尾を願った吉原通いの旦那衆~【大川端浅草御蔵跡】

2010年11月04日 12時01分27秒 | 台東区・歴史散策
お江戸の時代、大川端に沿ってさまざまな河岸や諸大名の蔵屋敷が連ねていたもんでございます。そんな河岸の中でも特に目立つ存在であったのが浅草大川端の幕府の米蔵でしょう。
そんな米蔵いったいどこにあったのかって?大川端といっても広うございまして、どの辺りかというと、米蔵があった場所は両国橋から蔵前橋の間の大川の右岸一帯といったところだったというのですが…。今となってはその名残りすらございませんが。

御米蔵と首尾の松碑

さてこの米蔵ですが、江戸時代にはよく聞く「札差」が軒を並べ、旗本や御家人の代理で切米(俸禄)を受け取り、売却・換金を行っていたんでございます。特定の武家と契約した札差は「蔵宿」と呼ばれ、預かった手形で米を受け取り、当日の米相場で換金し手数料を引いて旗本や御家人の屋敷に届けていたと申します。
実は当時、札差の羽振りは想像を絶するなんて言われていたもんです。なにしろ、関八州どころではございません。奥州一帯の幕領から御用米が毎年30万石から40万石が運び込まれ、旗本や御家人のお切米になっていたのでございます。これらを受け取るのが札差で、これら札差商人が住んでいたのが今の蔵前という地名が残る場所なのでございます。

蔵前風なんていう言葉を聞いたことがございますか?それともう一つ、十八大通なんてあまり馴染みのない言葉もあるんですが…。明和から天明にかけて、この札差たちの勢いはすごいものがありまして、通人をきどって「歌舞伎役者を贔屓にしたり」、「吉原で派手に金子をばらまいたり」、はては「御公儀の小判に自分の極印を打ったどんでもない輩」までいたそうでございます。このような人たちを蔵前風と呼んでいたのでございます。

なぜそんなに大きな身代にまでなったかって?それは彼ら札差たちが金貸しまでやるようになったからなんでございます。
その仕組みはこうなんでございます。実は切米というものは年に3回、必ず旗本と御家人に俸禄として支給されるものだったんでございます。ですから貧乏旗本や窮乏御家人達は、この俸禄米を担保に札差から金子を借り、これが積もり積もってどんでもない額になってしまった訳なんでございますよ。ですからあの寛政のご改革のとき、借金で首が回らなくなった旗本、御家人の救済のための、どんでもないお達し「棄捐令」で、帳消しになった額がなんと118万両というから驚くじゃありませんか。

さてこの浅草蔵の当時の規模でございますが、大川に面して344間、船入掘が8本(いわゆる船が着く桟橋でございます)、敷地3万7000坪といいますから、東京ドームの2.6個分、その敷地になんと50棟の御蔵が並んでいたのでございます。

そして今日のお題の「首尾の松」。かつて御米蔵があったお江戸の時代に4番目掘と5番目掘の間の埠頭の先端に、川面に枝をのばした松の木があったそうな。いつの頃からか「首尾の松」と呼ばれるようになったのですが、由来は「吉原に向かう遊客が今宵の首尾を松に願ったとか」、「吉原からの帰りの客が夕べの首尾をこの松を見ながら語りあったとか」。とっても粋な噺ですよね。

蔵前橋西詰袂の首尾の松碑

そんな云われのある「松」が平成の御代に未だ健在なのでございます。もともとあった場所からは移設されているようでございます。ちょうど蔵前橋西詰め(橋の袂といったほうがいいかもしれません)に「首尾の松」の碑と御米蔵の碑が人知れず置かれているんですね。

御米蔵碑

そして、蔵前橋の上からはかつて御米蔵が並んでいた大川の右岸堤防にそって「海鼠塀」が続いています。ちなみに江戸時代の一時期は対岸の両国側には御竹蔵(材木蔵)があったんです。

隅田川右岸の海鼠塀





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浅草裏・今戸橋袂の今戸神社…招き猫と新撰組沖田の妙なコラボ【お江戸今戸の山谷堀】

2010年11月02日 22時22分01秒 | 台東区・歴史散策
浅草馬道通りから言問通りを渡り、かつて吉原通いで賑わった土手八丁(現在の山谷堀)界隈に今戸橋が遭った場所。かつての山谷堀は大川(隅田川)に通じ、その傍らに向島へ渡るための「竹屋の渡し」があったところ。
吉原遊廓が華やかりし頃、多くの旦那衆は大川を猪牙船で遡り、ここ今戸橋で船を下りて陸路吉原大門を目指したのです。尚、山谷掘は現在暗渠となり、かつての川は埋め立てられ緑道公園となっています。

旧今戸橋の橋柱

江戸時代は浅草裏手の田圃が広がる寂しい場所だったのでしょう。そんな場所も今では住宅が密集し、かつての面影はまったく感じることができません。
そんな場所にあるのが今戸神社。浅草・浅草寺や待乳山聖天までは足が届く範囲で、今戸まではちょっと遠いなと思う方が多いのではないでしょうか。

今戸神社鳥居


さてこの今戸神社は新撰組隊士「沖田総司」とは切っても切れない関係があります。というのも労咳を患った沖田は鳥羽・伏見の戦いに負け、江戸に戻ってきます。その時、沖田の病状はかなり悪化し、和泉橋の松本良順の医学所で治療を受けていました。
そして慶応4年の江戸城無血開城に伴い薩長軍の命により、総司を含む患者たちは浅草今戸八幡に収容されたとのこと。医師の松本良順は今戸八幡に寓居して総司を含む患者の治療にあたり、総司は松本良順宅で療養したといわれています。今戸八幡は現在、今戸神社と改称し、境内に「沖田総司終焉之地」の碑があります。
終焉の地については千駄ケ谷説もあり、また没年齢も24歳、25歳、27歳の3説があります。

沖田総司終焉の地の碑

そしてもう一つ、この神社の名物が「今戸焼きの招き猫」。この招き猫の焼き物は江戸の末期頃からのものらしいのですが今戸焼き自体の歴史は古く、16世紀まで遡ると言われています。

今戸焼発祥の地碑
なで猫

招き猫の焼き物の由来ですが、江戸の末期に浅草に住むある老婆が、貧しさゆえに愛猫を手放したところ、夢枕にその猫が立ってこう言ったそうです。「自分の姿を人形にしたら必ずや福徳を授かる」と。
そこで老婆が横向きで片手を挙げた人形を作り、浅草寺の参道で売り出してみたら大評判だったとのことです。
境内には「今戸焼発祥の地の碑」と「今戸神社なで猫」の石碑が置かれ、なで猫をやさしく撫でであげると「福を招く」と言われています。

本社殿
本社殿に鎮座する招き猫
社務所玄関の招き猫

またここ今戸神社は縁結びに多大なご利益があるとのことで、境内には円形の祈願絵馬が絵馬掛けに鈴なりに吊るされています。
今戸神社から隅田河岸にでると「桜橋(X橋)」が架かっています。この橋は対岸向島の長命寺、弘福禅師、言問団子、長命寺の桜餅へのアクセスに非常に便利です。是非、向島にも足をのばしてください。





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上野のお山に残る徳川将軍家御霊屋の勅額門点描【お江戸上野・寛永寺】

2010年10月17日 17時31分44秒 | 台東区・歴史散策
浅草と並ぶ都内の観光地として、一二を争う人気スポット上野は江戸時代から庶民の遊山地として親しまれてきました。現在の上野の山全域は正式名を「東京都立上野恩賜公園」と呼ばれ、芸術、文化、みどり、景観、観光の様々な分野で重要な役割をもって、多くの人たちの憩いの場を提供しています。

そんな上野公園がある「上野のお山」は江戸時代の寛永の御世以降、その全域が徳川家の菩提寺である天台宗「東叡山・寛永寺」の寺領だったのです。寛永寺は寛永2年(1625年)、3代将軍家光公の御世に建立され、当時の年号をとって寺号を「寛永寺」とし、京都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とし、東叡山寛永寺円頓院と号しました。
開基(創立者)は家光公、開山(初代住職)は天海僧正、本尊は薬師如来(重要文化財)です。
開山以来、江戸末期までは、寺域約120万㎡(上野公園の約2倍)という将軍家菩提寺にふさわしい規模を誇り、大小百近い塔中・子院が上野の山に点在し、荘厳な堂塔伽藍が整然と配置されていました。しかし幕末の戊辰戦役の流れの中で、幕府軍である彰義隊と官軍の戦いで壮麗な伽藍のほとんどを焼失してしまいました。そして、その後の明治政府の政策により、かつての広大な境内敷地も大幅に縮小されてしまい、現在では江戸時代の最盛期の広さの1/10程度となってしまいました。

その数少ない寛永寺及び徳川家所縁の遺構を求めて上野の山(上野恩賜公園)へ遊山と洒落込みました。
京成上野駅から続く階段をのぼり、上野公園のなだらかな坂道を進んでいくと、まず現われるのが清水観音堂のお堂が見えてきます。国指定の重要文化財ですが、京都の清水寺を模し、前面に広がる不忍池は琵琶湖を形どっていると言われています。
そして更に歩を進めると、かつて上野大仏が鎮座していた小高い丘とその丘に相対してお江戸の「時の鐘」の鐘楼が木々の中に聳えています。この小山を回り込むように進むと、「お化け燈篭」と呼ばれる巨大な石燈篭が現われてきます。

お化け燈篭

この石燈篭の先に家康公を祀る上野東照宮の鳥居が建ち、参道へと繋がっていきます。

上野東照宮の鳥居
東照宮参道に並ぶ石燈篭
東照宮入口を飾る権現様式の唐門

参道の両側には上野東照宮の境内からは寛永寺さんの五重塔が見えるのですが、この五重塔は上野動物園の敷地内にあるため、間近に見るためには入場料を払って動物園に入らなければなりません。
上野東照宮をあとにして、国立博物館正面入口に通じる噴水広場を進んでいきましょう。
噴水広場を抜けて、まずは開山堂へと向かいましょう。両大師堂と呼ばれ、慈恵大師(良源)、慈眼大師(天海)の両大師を祀っています。

両大師堂山門
両大師堂ご本堂

四代将軍家綱公の出生に際し安産祈願所となって以来、子授け大師として信仰を集めています。そして両大師堂の山門の右隣には旧本坊表門(国指定重要文化財)が保存されています。寛永年間の建立で別名黒門と呼ばれています。本坊は上野戦争(彰義隊戦争)で全焼し、門の随所に残る銃痕が当時の戦禍を物語っています。

それでは本日のお題の「徳川将軍家御霊屋のご門」を探るために国立博物館と両大師堂の間の道を下っていきましょう。道の左側は国立博物館を囲む長い塀が続きます。それまでの上野公園の雰囲気とはがらりと様子が変わり、静かな空気が流れているような気がします。
前方に墓地が見えてきます。寛永寺さんの墓地が広がっています。ちょうど国立博物館の裏側に当たる場所です。この国立博物館裏手の道の傍らに見事な「ご門」が見えてきます。色鮮やかな朱色で塗られた門ですが、見るからに由緒ありそうな姿を見せています。
実はこのご門は4代家綱公(厳有院)の霊廟前に置かれていた「勅額門」です。勅額門とは時の天皇が自ら書いた将軍の院号額を掲げた門のことをいいます。

4代家綱公(厳有院)の勅額門(重文)

このご門の背後には徳川家一族のお墓が広がっているはずなのですが、この墓域には誰でもが勝手に入れる訳ではありません。さらに道を進んでいくと前方に門が現われます。入っていいものか迷うのですが、この門は寛永寺さんの根本中堂への裏口と考えていいでしょう。この門を入り、右方向へ回り込むように進むと、前方にこれまた由緒ありそうな「ご門」が見えてきます。

近づいてみるとまさしく由緒あるご門です。5代将軍綱吉公(常憲院)の霊廟前に置かれていた勅額門です。

5代将軍綱吉公(常憲院)の勅額門(重文)

かつての徳川将軍家の墓域にあった御霊屋(霊廟)や勅額門、惣門の大部分は先の大戦で米軍の空襲により焼失してしまったのです。かろうじて焼け残ったのが、今私たちが見ることができるこれらのご門です。

ここ寛永寺の徳川将軍家墓域には4代家綱公、5代綱吉公、8代吉宗公、10代家治公、11代家斉公、13代家定公の各将軍が眠っています。そして13代家定公の正室「天璋院篤姫様」も夫の家定公の宝塔に連れ添うように並んで眠っています。尚、現在寛永寺の各将軍の宝塔が並ぶ墓域は一般公開されていません。

5代将軍綱吉公(常憲院)の霊廟前に置かれていた勅額門を後に、寛永寺の根本中堂へと進んでいきましょう。

寛永寺・根本中堂

実は今ある根本中堂は明治になってから川越市の喜多院の本地堂を移したもので、寛永15年(1638)の建造と伝えられています。江戸時代の寛永寺・根本中堂は国立博物館に続くあの広い噴水広場にあったのですが、彰義隊戦争で焼失し、その後現在の場所に移ってきたものです。

わずか150年前まではこの上野の山全域は将軍家の重要な菩提寺である寛永寺の寺領でした。時代の歯車は260年の長きに渡った徳川の世を明治という新しい時代へと大きく変えてしまいました。その過程で壮麗な寛永寺伽藍は官軍のアームストロング砲の絶大な威力のもとで破壊、そしてそのほとんどが焼失してしまうのです。

私はいつも思うのですが、「もし」という言葉が許されるのであれば、あの上野戦争と太平洋戦争がなければ、東京には世界遺産に登録されてもおかしくない歴史的建造物があまた存在し、私たち日本人が世界に誇れる貴重な歴史遺産として私たちの目を楽しませてくれたのではないかと…。





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上野松が谷の古刹に眠る伊能忠敬と幡随院長兵衛【上野・松が谷源空寺】

2010年10月12日 17時39分07秒 | 台東区・歴史散策
賑やかな浅草の西の端六区の縁を走る国際通りの「公園六区入口」信号を渡ると、下町浅草の風情を残す「かっぱ橋本通り商店街」に足を踏み入れる。商店街に入ってすぐ右手には明治36年創業のどじょう料理の老舗「どぜう飯田屋」さんの趣のある店構えが見えてきます。店の入口に白地に墨文字で大きく「どぜう」と書かれた暖簾が粋な雰囲気を漂わせて掛けられています。
このかっぱ橋本通りは浅草の国際通りから始まり、上野駅入谷近くの昭和通りまでの1.2キロにわたる道で、途中、調理器具や食器などを扱うたくさんの問屋さんが軒を連ねるかっぱ橋商店街を横切っています。

こんな「かっぱ橋本通り」は明治、大正の時代は浅草と上野を結ぶ幹線道路として大いに賑わっていたと言います。現在でもこの地域に住む方々の日常生活に欠かせない下町の風情を残した商店街として賑わいを見せています。
合羽橋の交差点を渡ると地名が「松が谷」と変わります。このあたりの「かっぱ橋本通り」の両側は商店街というよりはビルが立ち並ぶ住宅街へと姿を変えています。そして、特筆すべきはこの界隈には「石をなげれば寺にあたる」と言われるほど「寺院」が次から次へと現われる寺町を構成しているのです。門前の構えや本堂の姿を見るにつけ、なにやら由緒ありそうな寺院ばかりです。

そんな寺院が多数点在する中を歩きながら松が谷2丁目の交差点にさしかかります。この信号を左折し3ブロックほど行った角に、今日のお題の源空寺が静かな佇まいを見せているのです。

源空寺のご本堂

実はこの源空寺を訪れたのは、たまたまこの松が谷を散策している途中に偶然門前を通りかかった時に、その山門脇に伊能忠敬墓と幡随院長兵衛墓の石柱を見つけたからなのです。

源空寺門前の石柱

伊能忠敬については以前、門前仲町の富岡八幡の中で取り上げていますが、江戸末期に詳細な日本地図を編纂したことで知られているお方なのですが、「このお寺にお墓があったのか」と思いでお参りをしてきました。
そして驚いたことに歌舞伎の荒事で演じられるあの「幡随院長兵衛」の墓もこの源空寺にあるという。

さっそくまずは伊能忠敬のお墓に詣でることに!お墓は本堂のある敷地の脇の道を挟んで墓地が広がっています。特に墓地内の見取り図は掲示されていないのですが、それらしき墓はすぐにわかります。墓地内の細い道を進むと、なんと先に現われたのが「幡随院長兵衛」の墓!それもご夫妻の墓石が仲良く並んで建っています。
そして「幡随院長兵衛」の墓から数えて右へ2つ目に「伊能忠敬」の墓が建っているのです。

伊能忠敬の墓

 

幡随院長兵衛夫妻の墓

ここで幡随院長兵衛についてほんの少し説明いたしましょう。
江戸初期の1622年ころの生まれだそうです。実在の人物で本名を塚本伊太郎。肥前唐津藩(佐賀県)の武士の子だということです。この伊太郎が江戸へ出て花川戸(はなかわど:現在の浅草)に住み、幡随院長兵衛と名乗り「口入れ稼業」を営むかたわら、3千人の子分を抱える「町奴(まちやっこ)」の頭領として君臨していました。しかし対立する「旗本奴(はたもとやっこ)」の首領である水野十郎左衛門に殺されたという人物です。
まあ!続に言う現代のチンピラの親分といったところじゃないでしょうか?
こんな人柄の幡随院長兵衛と偉業と成し遂げた伊能忠敬の墓がきしくも並んでいるアンバランスがなんとも奇妙に思える瞬間でした。

さて源空寺ですが、結構由緒あるお寺さんです。宗派は浄土宗増上寺の末寺で円誉道阿が天正18年(1590)湯島(現文京区)に草庵を結び、多くの信者を集めたことに始まり、徳川家康も道阿に深く帰依したといいます。1590年の8月1日(八朔)に家康公が江戸に初入府した年です。慶長9年(1604)草庵の地に寺院を開き、開祖法然坊源空の名にちなみ「源空寺」と称しました。二世専誉直爾のとき、明暦3年(1657)の振袖火事の大火で類焼、当地に移転して現在に至っています。

山門を入ってすぐに立派な鐘楼と鐘が現われます。鐘は銅製のもので総高2.22mの大型のものです。台東区の有形文化財に指定されています。

源空寺の鐘楼と鐘

寛永12年(1636)三代将軍徳川家光の勧めをうけ、開山道阿が願主となり鋳造されたもので、徳川家康の法号「大相国一品徳蓮社崇誉道和大居士」と同秀忠の法号「台徳院殿一品大相国公」、家光の官職・姓名「淳和奨学両院別当氏長者正二位内大臣征夷大将軍源家光公」が刻まれている堂々としたものです。



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お江戸の時を告げた「鐘」探し【その2・お江戸上野の山・旧寛永寺境内】

2010年10月11日 22時16分08秒 | 台東区・歴史散策
私たち現代人にとって「時」の把握の仕方はそれほど苦にならないほど簡単な仕草で片付いてします。誰もがもっている腕時計の針をちらっと見るだけで、いつでも、どこでも無造作に時を知ることができる。最近は腕時計だけでなく携帯電話の時計表示も時を知る便利な手段である。

ところでお江戸の時代に城下の武家、商人、町人はどのようにして時の把握をしていたのだろう?
1603年の開幕以来、江戸は参勤交代の武士、上方からの商人、地方から流入する農民などで人口が飛躍的に拡大していきます。これに伴い、江戸の産業も発展していくなかで暮らしや仕事など社会全体にメリハリをつける秩序が必要になったのです。

その方法のひとつが時を知らせる「時の鐘」の制度。幕府は公認の「時の鐘」を上野、浅草、本所、日本橋など人が多く集まり、さまざまな商売が賑やかに営まれている場所をはじめ、江戸市中10か所に設置したのです。その方法は江戸城の時計係が西洋時計の時刻を基に太鼓を打って知らせ、それを聞いた「時の鐘」のある寺などが続いて撞くという人の耳に頼りながらのたよりないやり方だったんですね。このため同時にすべての鐘が撞かれる訳ではなかったので多少時間差ができたしまったらしい。ともかく江戸市民はこの時の鐘を時計代わりにし1日の時間割をしていったのです。複数の「時の鐘」が存在したのは江戸だけであり京都、大阪、長崎は幕府による「時の鐘」はそれぞれ一つしかなかったようです。

こんなお江戸の時の鐘の中で、最も知られている3ヶ所の鐘探しにでかけました。つづいてのお題はもう一つの有名な時の鐘「上野の山・旧寛永寺境内」です。


上野の山に残る時の鐘

京成上野駅の地上出口からつづく階段を登り、西郷隆盛像の立つ広場からなだらかな坂を進んでいきましょう。
清水観音堂を左に見ながら、目指すは上野大仏・パゴダがある場所です。このパゴダが置かれている小高い丘と相対するように置かれているのが上野の山の「時の鐘」です。道路から少し高い位置に木々の葉に隠れるように鐘楼が置かれているので、気が付かない方も多いようです。

 


木漏れ日の中の時の鐘

初代の鐘は寛文6年(1666)につくられましたが、現存するのは天明7年(1787年)に鋳直されたものです。松尾芭蕉の名句「花の雲鐘は上野か浅草か」で詠われているのが、この上野の山の鐘なのです。
この上野の山の「時の鐘」は寛永寺さん所蔵のもので、現在でも朝夕6時と、正午の3回、江戸時代と同じ音色を響かせていて、環境省の日本の音風景100選に選ばれています。

お江戸の時を告げた「鐘」探し【その1・お江戸浅草時の鐘】
お江戸の時を告げた「鐘」探し・その場所はかつての牢屋敷【その3・お江戸ご府内日本橋(本)石町】





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