「時は元禄15年、師走の14日」で始まる赤穂浪士の討入りですが、見事上野介の首をあげ主君の仇討ちの本懐をとげたというこの事件は「忠臣蔵」の噺の中で今日まで言い伝えられています。そして今年もそろそろその季節となってきました。
本所松坂町吉良邸跡
吉良邸内の首洗い井戸
今日のお題、「忠臣蔵・赤穂浪士討入り」の裏話となるのですが、本所吉良邸跡や本懐を遂げた後、高輪の泉岳寺までの移動ルートについての記述は山ほど転がっていて、裏話になるようなものはもう出尽くした感があります。
そこでさまざま調べて行くうちに、こんなマイナーな噺と史蹟が転がっていました。私がよく通うあの谷中の寺町の細い路地に佇む古刹の境内にあったのです。谷中さんさき坂のなだらかな坂道を谷中墓地へと進み、ほぼ坂を登りきったあたりの狭い路地を左に折れると、そこは谷中の寺町の風情が漂う一角へと入り込みます。
この路地を進んだところ、左手にある古刹「観音寺」にあるのが「赤穂浪士供養塔」なのです。

観音寺門前
赤穂浪士由緒書
どうしてこんな所に?と由緒書にはこんなことが書かれていました。
『四十七士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修行していた文良の兄と弟であった。文良とは、のち当寺第6世となった朝山大和尚のことである。寺伝によれば、文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内でしばしば彼らの会合が開かれたという。明治末の福本日南の著作「元禄快挙録」には、勘六は死にのぞみ「今日の仕儀勘六喜んで身罷ったと、長福寺の文良へお伝え下されたい」と遺言したという。』
本堂に向かって右側に置かれている「宝篋印塔」が四十七士慰霊塔として古くから伝えられいます。
観音寺本堂
四十七士慰霊塔
12月に入ると義士祭が行われる本所吉良邸跡は、まだ訪れる人もなくひっそりとした佇まいをみせています。
そして泉岳寺へと向かう浪士一行が辿った道筋を永代橋袂まで歩いてみました。
吉良邸を跡に、一行は整然と列をなし、まず竪川にかかる橋「一の橋」を渡り、お江戸の時代には大川沿いに造られた御船蔵脇を歩き新大橋方面へと南下していきます。
一の橋
現在の新大橋通りを横切り、萬年橋通りへとはいっていきます。そして小名木川にさしかかると、大川との合流地点を眺めながら、美しい曲線を描く萬年橋を渡っていきます。
萬年橋
萬年橋を渡ると本所佐賀町へとさしかかってきます。佐賀町河岸沿いに一行は永代橋東詰めへと歩を進めていきます。そして冷え切った体を暖めた、味噌屋乳熊屋での甘酒の振る舞いの噺が残る「赤穂浪士休息の碑」。
赤穂浪士休息の碑

このあと一行は永代を渡り、ご府内に入り泉岳寺を目指したのです。大願成就となった日、お江戸の町は一面の雪化粧であったと思います。降り積もった雪の上を踏みしめながら、本所松坂町の吉良邸から高輪の泉岳寺までのおよそ10km以上の行程は、肉体的にも精神的にもかなり大変だったのではないでしょうか?


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今日のお題、「忠臣蔵・赤穂浪士討入り」の裏話となるのですが、本所吉良邸跡や本懐を遂げた後、高輪の泉岳寺までの移動ルートについての記述は山ほど転がっていて、裏話になるようなものはもう出尽くした感があります。
そこでさまざま調べて行くうちに、こんなマイナーな噺と史蹟が転がっていました。私がよく通うあの谷中の寺町の細い路地に佇む古刹の境内にあったのです。谷中さんさき坂のなだらかな坂道を谷中墓地へと進み、ほぼ坂を登りきったあたりの狭い路地を左に折れると、そこは谷中の寺町の風情が漂う一角へと入り込みます。
この路地を進んだところ、左手にある古刹「観音寺」にあるのが「赤穂浪士供養塔」なのです。




どうしてこんな所に?と由緒書にはこんなことが書かれていました。
『四十七士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修行していた文良の兄と弟であった。文良とは、のち当寺第6世となった朝山大和尚のことである。寺伝によれば、文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内でしばしば彼らの会合が開かれたという。明治末の福本日南の著作「元禄快挙録」には、勘六は死にのぞみ「今日の仕儀勘六喜んで身罷ったと、長福寺の文良へお伝え下されたい」と遺言したという。』
本堂に向かって右側に置かれている「宝篋印塔」が四十七士慰霊塔として古くから伝えられいます。


12月に入ると義士祭が行われる本所吉良邸跡は、まだ訪れる人もなくひっそりとした佇まいをみせています。
そして泉岳寺へと向かう浪士一行が辿った道筋を永代橋袂まで歩いてみました。
吉良邸を跡に、一行は整然と列をなし、まず竪川にかかる橋「一の橋」を渡り、お江戸の時代には大川沿いに造られた御船蔵脇を歩き新大橋方面へと南下していきます。

現在の新大橋通りを横切り、萬年橋通りへとはいっていきます。そして小名木川にさしかかると、大川との合流地点を眺めながら、美しい曲線を描く萬年橋を渡っていきます。

萬年橋を渡ると本所佐賀町へとさしかかってきます。佐賀町河岸沿いに一行は永代橋東詰めへと歩を進めていきます。そして冷え切った体を暖めた、味噌屋乳熊屋での甘酒の振る舞いの噺が残る「赤穂浪士休息の碑」。


このあと一行は永代を渡り、ご府内に入り泉岳寺を目指したのです。大願成就となった日、お江戸の町は一面の雪化粧であったと思います。降り積もった雪の上を踏みしめながら、本所松坂町の吉良邸から高輪の泉岳寺までのおよそ10km以上の行程は、肉体的にも精神的にもかなり大変だったのではないでしょうか?




