地下鉄千駄木駅から谷中へとのびるなだらかな坂道を「さんさき坂」と呼んでいます。それほど広い道ではないのですが、さんさき坂入るとすぐに左へ折れる道があります。この道が谷中界隈で有名な「夜店通り」で夜店通りを上がって行くと「谷中銀座」入口へと至ります。
このさんさき坂に沿ってまるで小京都を歩いているかのように、次から次へと名刹、古刹が現れお寺好きにはたまらない場所です。晴れた日の散策にはうってつけの場所で、都内でも私が一番好きな場所の一つと言ってもいいでしょう。
さて明和の三大美人といえば、浅草寺奥山の楊枝屋・柳屋のお藤、同じく浅草二十間茶屋の水茶屋・蔦谷のおよし、それと今日のお題の谷中の笠森稲荷門前の水茶屋・鍵屋のおせんですが、この三人の中でも特に名の知れた「おせん」について以前から興味をもっていました。
というのも江戸の浮世絵に描かれた「ほっそりタイプ」の美人画の代表が「おせん」だからなのです。
当時の浮世絵の中で、おせんを描いたのが 錦絵の発案者である「鈴木春信」ですが、彼の筆で描く美人画は全て「ほっそりタイプ」の女性なのです。一方、同時代に活躍した鳥居清長のそれは「八頭身のスレンダータイプ」、そして誰もが知っている歌麿に至っては「ナイスボディタイプ」とそれぞれに特徴があります。
そんな「ほっそりタイプ」のおせんさんを探しに谷中界隈を歩いてみました。おせん縁の感応寺はすでになく、現在は天王寺と名を変えています。そして感応寺境内にあったはずの笠森稲荷もないのですが、実は同じ谷中にある別の寺の境内に置かれています。そもそも谷中感応寺は広大な寺領を有し、笠森稲荷はその寺領のほんの一角に置かれていたといわれています。その一角であった場所が現在笠森稲荷が置かれている「功徳林寺」らしいのです。
とは言っても、水茶屋「鍵屋」があるわけでもないのですが、谷中の墓地からさほど離れていない場所に功徳林寺は確かにありました。
現天王寺門前
天王寺山門
天王寺境内
目立たない寺の入口から奥へと延びる参道を進むと、真っ正面に赤い幟が立てられた祠が現れます。特に笠森稲荷という名が表示されてはいないのですが、かつてこの辺りにあったということでお寺の境内に合祀されています。
功徳林寺門
功徳林寺の笠森稲荷
それでは何故、稲荷のすぐ側に水茶屋があったのか?なんて疑問が湧いてくるのは私だけではないはず‥‥。実は感応寺はお江戸の三富といって富くじを扱える官許のお寺だったのです。ということは富くじ販売の日はたくさんの人出で賑わったことが想像できます。そして人出でがあるということは、様々な商売がこの辺りで営まれていたことも想像できるわけです。その中で特異な商売がここ谷中にもあったのです。それが水茶屋なのですが、この業態は単にお茶を提供する場ではなく、「春を売る」ことを生業としていたのです。そこには当然多くの男衆が集まり、そこで働いていた給仕役の美人娘が男衆の間で評判となっていくこととなるのです。
余談ですが、この水茶屋の客の多くが武家と坊主だったらしい。というのも谷中はご存知のように寺社が多い土地柄。本来女性との交わりを控えるはずの坊主が谷中界隈の水茶屋に足しげく通ったことが史実として残っているんですね。まあ~、侍も人べんを取れば寺になるがごとくといったところでしょうか。
いつしか笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」の美人看板娘おせんの評判は当時の人気絵師である鈴木春信の耳に達します。売れっ子の人気絵師手にかかれば、おせんの絵は瞬く間にお江戸の中はもちろんのこと、江戸土産として売れに売れ、同時におせんの評判はうなぎ登り状態となり、連日おせん見たさに大賑わい。
しかしある日突然、おせんさんが姿をくらまします。おせん贔屓の男衆は上へ下への大騒ぎ。実はおせんさん、なんと公儀のお庭番「倉地甚左衛門」に嫁いでしまったのです。お庭番ということは隠密稼業と同じこと。住む場所も御城に近い特別の場所。そんなことでおせんさんも人前に出ることなく籠の鳥状態となってしまったのです。その後、おせんは9人の子どもに恵まれ、77歳でこの世を去ったと言います。
ところで「おせん」さんに関係するお寺がこの「さんさき坂」沿いにあるんです。寺名は「大円寺」。一説によると当寺に笠森稲荷を合祀していると言われているのですが、前述のように功徳林寺の境内にも笠森稲荷が合祀されています。どちらかほんとうなのかい?と思うのが当然の疑問。
大円寺本堂
実は大円寺の笠森稲荷は、ほんとうは瘡守(かさもり)稲荷と呼ぶらしいのです。ですがこの寺の境内に大正8年に2つの碑が建てられたのです。一つが「笠森阿仙の碑」で小説家永井荷風の撰、もう一つが例の浮世絵師、「錦絵開祖鈴木春信」碑です。
笠森阿仙の碑
笠森阿仙の碑
錦絵開祖鈴木春信碑
錦絵開祖鈴木春信碑
なにやら「おせん」さんに関してはややこしい話になってしまうのですが、男心をくすぐったお江戸の美人は死しても今尚、惑わせてくれています。
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このさんさき坂に沿ってまるで小京都を歩いているかのように、次から次へと名刹、古刹が現れお寺好きにはたまらない場所です。晴れた日の散策にはうってつけの場所で、都内でも私が一番好きな場所の一つと言ってもいいでしょう。
さて明和の三大美人といえば、浅草寺奥山の楊枝屋・柳屋のお藤、同じく浅草二十間茶屋の水茶屋・蔦谷のおよし、それと今日のお題の谷中の笠森稲荷門前の水茶屋・鍵屋のおせんですが、この三人の中でも特に名の知れた「おせん」について以前から興味をもっていました。
というのも江戸の浮世絵に描かれた「ほっそりタイプ」の美人画の代表が「おせん」だからなのです。
当時の浮世絵の中で、おせんを描いたのが 錦絵の発案者である「鈴木春信」ですが、彼の筆で描く美人画は全て「ほっそりタイプ」の女性なのです。一方、同時代に活躍した鳥居清長のそれは「八頭身のスレンダータイプ」、そして誰もが知っている歌麿に至っては「ナイスボディタイプ」とそれぞれに特徴があります。
そんな「ほっそりタイプ」のおせんさんを探しに谷中界隈を歩いてみました。おせん縁の感応寺はすでになく、現在は天王寺と名を変えています。そして感応寺境内にあったはずの笠森稲荷もないのですが、実は同じ谷中にある別の寺の境内に置かれています。そもそも谷中感応寺は広大な寺領を有し、笠森稲荷はその寺領のほんの一角に置かれていたといわれています。その一角であった場所が現在笠森稲荷が置かれている「功徳林寺」らしいのです。
とは言っても、水茶屋「鍵屋」があるわけでもないのですが、谷中の墓地からさほど離れていない場所に功徳林寺は確かにありました。
現天王寺門前
天王寺山門
天王寺境内
目立たない寺の入口から奥へと延びる参道を進むと、真っ正面に赤い幟が立てられた祠が現れます。特に笠森稲荷という名が表示されてはいないのですが、かつてこの辺りにあったということでお寺の境内に合祀されています。
功徳林寺門
功徳林寺の笠森稲荷
それでは何故、稲荷のすぐ側に水茶屋があったのか?なんて疑問が湧いてくるのは私だけではないはず‥‥。実は感応寺はお江戸の三富といって富くじを扱える官許のお寺だったのです。ということは富くじ販売の日はたくさんの人出で賑わったことが想像できます。そして人出でがあるということは、様々な商売がこの辺りで営まれていたことも想像できるわけです。その中で特異な商売がここ谷中にもあったのです。それが水茶屋なのですが、この業態は単にお茶を提供する場ではなく、「春を売る」ことを生業としていたのです。そこには当然多くの男衆が集まり、そこで働いていた給仕役の美人娘が男衆の間で評判となっていくこととなるのです。
余談ですが、この水茶屋の客の多くが武家と坊主だったらしい。というのも谷中はご存知のように寺社が多い土地柄。本来女性との交わりを控えるはずの坊主が谷中界隈の水茶屋に足しげく通ったことが史実として残っているんですね。まあ~、侍も人べんを取れば寺になるがごとくといったところでしょうか。
いつしか笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」の美人看板娘おせんの評判は当時の人気絵師である鈴木春信の耳に達します。売れっ子の人気絵師手にかかれば、おせんの絵は瞬く間にお江戸の中はもちろんのこと、江戸土産として売れに売れ、同時におせんの評判はうなぎ登り状態となり、連日おせん見たさに大賑わい。
しかしある日突然、おせんさんが姿をくらまします。おせん贔屓の男衆は上へ下への大騒ぎ。実はおせんさん、なんと公儀のお庭番「倉地甚左衛門」に嫁いでしまったのです。お庭番ということは隠密稼業と同じこと。住む場所も御城に近い特別の場所。そんなことでおせんさんも人前に出ることなく籠の鳥状態となってしまったのです。その後、おせんは9人の子どもに恵まれ、77歳でこの世を去ったと言います。
ところで「おせん」さんに関係するお寺がこの「さんさき坂」沿いにあるんです。寺名は「大円寺」。一説によると当寺に笠森稲荷を合祀していると言われているのですが、前述のように功徳林寺の境内にも笠森稲荷が合祀されています。どちらかほんとうなのかい?と思うのが当然の疑問。
大円寺本堂
実は大円寺の笠森稲荷は、ほんとうは瘡守(かさもり)稲荷と呼ぶらしいのです。ですがこの寺の境内に大正8年に2つの碑が建てられたのです。一つが「笠森阿仙の碑」で小説家永井荷風の撰、もう一つが例の浮世絵師、「錦絵開祖鈴木春信」碑です。
笠森阿仙の碑
笠森阿仙の碑
錦絵開祖鈴木春信碑
錦絵開祖鈴木春信碑
なにやら「おせん」さんに関してはややこしい話になってしまうのですが、男心をくすぐったお江戸の美人は死しても今尚、惑わせてくれています。
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