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あの山岡鉄舟が建立発願した寺「谷中の全生庵」に幕末を偲ぶ~8月は円朝の幽霊画が公開~

2011年07月01日 16時14分29秒 | 台東区・歴史散策
地下鉄千駄木の駅を降り、地上へとつづく階段を上がるにつれムッとするような外気が襲ってきます。千駄木駅から谷中墓地へと繋がる「三崎坂(さんさきざか)」のなだらかな勾配をゆっくりと進んで行くと、すぐ左手に谷中銀座へとつづく夜店通りの入口が現れます。そんな下町風情が漂う坂道を進むと左手に「全生」と刻まれた大きな石標がふいと目に飛び込んできます。

全生庵石標
全生庵ご本堂

谷中といえば上野寛永寺そして感応寺(現天王寺)のお膝元の地で、大多数の寺が寛永寺又は感応寺の塔中、子院として江戸時代から続く古刹が多いのですが、ここ全生庵は明治16年に建立された寺なのです。しかも当寺を建立発願した人物はかの山岡鉄舟居士という幕末を語る上でも切っても切れない人物なのです。
彼、鉄舟が建立したいきさつは幕末から明治維新にかけて国事に殉じた人々の菩提を弔うために ここ谷中の地を選んだと言われています。

私の個人的な見解ですが、谷中を選んだ理由としては上野彰義隊戦争の戦死者を弔い供養する場所として好都合であったこと、そして最後の将軍慶喜公が恭順、蟄居した寛永寺の子院である大慈院にも近いこと、そして何にも増して徳川家の菩提寺であり、六人の将軍が眠る寛永寺が近いことなのではないかと推察しています。

さて、鉄舟なる人物について簡単に紹介しておきましょう。時は幕末、慶応4年1月3日の鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争で幕府軍は惨めな敗北をきすこととなり、ついには朝敵の汚名を下されることとなってしまいます。討幕の号令の下、錦の御旗を掲げる官軍は東征軍を率いて江戸を目指します。幕府方総督の勝海舟をはじめ、あの篤姫様や和宮様は東征軍総督に対して江戸総攻撃を回避させるべく懇願したことは周知の事実です。

勝海舟の鉄舟を賛じる石碑

いよいよ東征軍が静岡に至るや、鉄舟は慶喜公の命を受けて単身静岡に陣取る東征軍の大本営に赴き、総参謀西郷南州に面接し江戸総攻撃の中止を請願するとともに、あの歴史に残る西郷と勝の会談の段取りを決めたのです。最終的には西郷・勝の2度に渡る会談で江戸無血開城が決まったことはご存知のことと思います。

明治に入り、幕臣であった鉄舟は明治天皇の侍従となり、明治大帝をお世話する事となります。この鉄舟ですが剣、禅、書の奥義を極め、剣の無刀流を開いた文武両道の達人であったことで知られていますが、この御仁は幕末から明治にかけての落語家の大看板である三遊亭円朝(1839~1900)と非常に懇意で、円朝は鉄舟の導きによって禅をよく修し、その淵源を極めたと言われています。また円朝は、「怪談牡丹燈籠」「真景累ヶ淵」「文七元結」などの原作者としても広く知られており、全生庵には円朝が所蔵した幽霊画が保存され毎年、円朝忌の行われる8月の1ヶ月間、幽霊画50幅を公開しています。(有料)
今年は大幅な節電を心がけなければなりません。肝を冷やす意味で暑い最中のひとときを、怖い幽霊がを見ながら一時の涼を体感してみてはいかがでしょうか?
※毎年8月11日の円朝忌は当寺で「円朝まつり」が開催されます。

三遊亭円朝碑

ところで鉄舟居士の眠っているここ全生庵の墓地はご本堂の裏手に広がっています。開基である鉄舟居士の墓は墓地の一番奥に堂々とした造りで置かれています。幕末ばやりの昨今、幕府方の主要人物にはあまり取り上げられない鉄舟居士ですが、是非NHK大河ドラマの主人公として、今一度脚光を浴びてほしいと墓前でお願いしてきました。




尚、墓地には前述の三遊亭円朝の墓が鉄舟居士の墓とそれほど離れていない場所に置かれています。

円朝の墓

全生庵の訪問の後、「幕末三舟」と謳われた一人である「高橋泥舟」が眠る谷中の大雄寺へと向かうことにしました。

幕末三舟の一人「高橋泥舟」が眠る谷中大雄寺と周辺の趣きある建物
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