大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

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日ぐらしの里に残る上野戦争・彰義隊の夢の跡~経王寺山門に残る弾痕~

2011年07月04日 16時22分14秒 | 荒川区・歴史散策
JR日暮里駅から谷中銀座へと延びる道すがら、本行寺をすぎるとすぐ隣に現れるのが経王寺の山門です。
ともすれば通り過ぎてしまいそうな門前の佇まいですが、なにやら由緒ありそうな佇まいをみせる山門です。説明書きを読むと。慶応4年(1868)の上野戦争(彰義隊戦争)の時、敗走した彰義隊を匿ったとして、新政府軍の攻撃を受け、山門には今もその銃弾の後が見られます。(荒川区教委会)

経王寺山門
寺額
経王寺ご本堂

経王寺の立地を考えると、山門の前の道を隔てて向こう側には谷中霊園が広がり、その霊園の奥はかつての天王寺そして寛永寺の寺領が広がっていた上野の山なのです。

この年、慶応4年3月13日、14日の両日に行われた勝と西郷の会談で江戸城無血開城が決定されてから、幕府内の不満分子たちは新政府軍を迎え撃つために上野寛永寺本坊に陣取ります。
これに対し、新政府軍の主力である薩摩軍は寛永寺の南口、西方はアームストロング砲を有する肥前佐賀藩が主力となり、北方の背面(城にたとえれば搦手門)は長州藩が主力となって団子坂に結集しました。

火力に勝る新政府軍は5月15日の午前7時ころに南北そして西の三方から戦闘を開始します。東側は現在でも崖となって、その崖の下にはJRの線路が敷かれています。新政府軍が東口から攻めなかった理由、彰義隊の退却路としてあえて開けていたようです。

戦局はあっという間に新政府軍側が有利となり、夕方には彰義隊は瓦解し敗走し始めます。その敗残兵の一部が新政府軍の攻撃口とならなかった北東部に位置する経王寺に逃げ込んだのではないかと推測します。そして残党狩りの新政府軍兵士との間で、小競り合いが起こり経王寺門前で銃撃戦が行われたのでしょう。

山門に残る弾痕(1)
山門に残る弾痕(2)
山門に残る弾痕(3)

近代化された銃火器を装備する新政府軍にたちまち制圧されてしまったことは言うに及びません。そんな哀れな名残りが山門に残っています。

山門と番屋

上野戦争の主戦場となった寛永寺の伽藍はことごとく焼失し、徳川家菩提寺は討幕を掲げる朝廷方の恰好の餌食となってしまったと考えざるを得ません。徳川家の「魂」が宿る寛永寺そしてその塔中や子院がすべて現存していたとしたら、それは世界遺産としての価値をもっていたのではないかと常に考えます。新しい時代への胎動として避けて通れなかった「上野戦争」は薩長土肥をはじめとする官軍諸藩の蛮行であると考えてしまうのは、江戸っ子である私だけでしょうか?

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1 コメント

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Unknown (しずか)
2011-07-10 21:29:17
山門の弾丸の跡がリアルに残っているのですね。
この辺りもまたゆっくり散策してみたいと思います。
来月東京に行く機会ができたので、そろそろ計画を立てていきます。
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