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大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸の時を告げた「鐘」探し【その1・お江戸浅草時の鐘】

2010年10月11日 21時15分14秒 | 台東区・歴史散策
私たち現代人にとって「時」の把握の仕方はそれほど苦にならないほど簡単な仕草で片付いてします。誰もがもっている腕時計の針をちらっと見るだけで、いつでも、どこでも無造作に時を知ることができる。最近は腕時計だけでなく携帯電話の時計表示も時を知る便利な手段である。

ところでお江戸の時代に城下の武家、商人、町人はどのようにして時の把握をしていたのだろう?
1603年の開幕以来、江戸は参勤交代の武士、上方からの商人、地方から流入する農民などで人口が飛躍的に拡大していきます。これに伴い、江戸の産業も発展していくなかで暮らしや仕事など社会全体にメリハリをつける秩序が必要になったのです。

その方法のひとつが時を知らせる「時の鐘」の制度。幕府は公認の「時の鐘」を上野、浅草、本所、日本橋など人が多く集まり、さまざまな商売が賑やかに営まれている場所をはじめ、江戸市中10か所に設置したのです。その方法は江戸城の時計係が西洋時計の時刻を基に太鼓を打って知らせ、それを聞いた「時の鐘」のある寺などが続いて撞くという人の耳に頼りながらのたよりないやり方だったんですね。このため同時にすべての鐘が撞かれる訳ではなかったので多少時間差ができたしまったらしい。ともかく江戸市民はこの時の鐘を時計代わりにし1日の時間割をしていったのです。複数の「時の鐘」が存在したのは江戸だけであり京都、大阪、長崎は幕府による「時の鐘」はそれぞれ一つしかなかったようです。

こんなお江戸の時の鐘の中で、最も知られている3ヶ所の鐘探しにでかけました。今日のお題はその1として「浅草・浅草寺境内」に残る有名な時の鐘です。





芭蕉が生きていたあの元禄時代、隅田川の辺に立つ庵にまでその鐘の音が届いたその様子を詠った名句が残されています。
花の雲 鐘は上野か 浅草か

浅草の「時の鐘」は浅草寺の宝蔵門からさほど離れていない浅草寺弁天山の鐘楼に吊るされています。。この鐘は元禄5年(1692)5代将軍徳川綱吉の命によって造られたものです。高さ2.12m、直径1.52mの堂々としたものです。東京大空襲で鐘楼は焼失しましたが、梵鐘は無事に残りかつての姿を私たちの見せてくれます。今でも朝6時に鐘が撞かれ時刻を知らせてくれます。浅草という場所柄、江戸時代の鐘が時を告げてくれるなんて、粋な計らいですよね。

この浅草の時の鐘の鐘楼へと上る階段脇左側に芭蕉の句碑が目立たない存在で立っているんです。

 
芭蕉らしき人物が彫られています。

寛政八年(1796)に造られたといいます。句碑の標識が立てられているのでかろうじて気がつくのですが、碑面は文字が薄れ判読はかなり難しい状態です。碑面の上部には「くわんをん(観音)のいらか見やりつ花の雲」とあったと記録されていようです。その碑面の下の方に芭蕉らしき人物が彫られているのが薄っすらと残っています。この像はよくよく見るとかろうじて判読できます。
浅草寺本堂や三社様だけでなく、是非江戸の時代の時の鐘も是非ご覧になってみてください。

※浅草寺ご本堂の屋根瓦の修理が終わり、本堂を覆っていたカバーがとれて本来の姿が戻ってきました。

屋根瓦の葺き替えが終わった浅草寺ご本堂

お江戸の時を告げた「鐘」探し【その2・お江戸上野の山・旧寛永寺境内】
お江戸の時を告げた「鐘」探し・その場所はかつての牢屋敷【その3・お江戸ご府内日本橋(本)石町】





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